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19540713-17 労働福音学校、於長崎飽之浦教会、職域伝道部 年表 19540817-19 労働福音学校、於大法山三菱山の家、職伝部、Hジョーンズ、 松本美実、35名 年表 19540000 その他 社会 昭和29年度社会部報告 (3)貧困児童の救護に於て日本国際基督教奉仕団に協力しました。福岡県、佐賀県、長崎県の炭坑(中小)廃休止にともなひ、 離職者続出し、そのため貧困児童の救護を要することとなり、東京の国際キリスト教奉仕団は率先してこの救護に乗り出し、 まず第一回の援助として、昭和29年11月、米国及びニュージーランドよりの寄贈衣類を、第二回は昭和30年1月、東京横浜の キリスト教主義学校に奉仕団は呼びかけて頂き、文房具、金銭、衣類を送られ、第三回は米国よりバター、ミルクを沢山送って 頂いて、1回2回は主として各学校貧困児童へ、3回は炭坑の一般貧困者世帯人え官庁、組合等の手を通して配布され、いづれ も非常な感謝でありました。これが新聞に発表されるとこによって、社会に大きな波紋を画き刺激して、社会各層、日本の全 地よりの見舞金を見るに至ったことは感謝でありました。 (第5回総会議案報告66P) 西日本炭坑伝道者協議会、於大浦教会、職伝部、24名年表 19550815-16 第4回労働福音学校、8月15,16日、於折尾女子商業学校 講師として帝国石油全国労働組合長加藤勇氏を招いた。出席10, 教会代表22名 年表 1.伝道用テントを購入し委員長保管、希望者に貸出をなす。 3.石炭合理化法案実施のため失業者激増、筑豊炭田遅滞のみにても60,000人の失業者に悩みおりし上に、更に30,000人の失業 者を増加、その窮状見るにしのびざるものあり、次の救援をした。 (1)前年度炭坑救済のため集めた金額の残金中より63,900円を支出して佐世保、唐津、直方、飯塚、田川、大之浦、八幡の各 地区にSOS物資ミルク、バターの配給をなし非常に喜ばれた。 (2)国際奉仕団に訴えて金品の援助を全国の教会とキリスト教主義学校に求めてそれぞれ応じてくれた。 (3)参議院、衆議院代議士26名に窮状調査報告書を配布し議会の反省を求め、議会を通じて国家の救援と適宜の処置を求めた。 (4)宣教師テオドール・エッケル氏はカナダ合同教会に訴え2,5 00ドルの援助をうけ特別委員会を組織し、目下その配分中であ る。 (5)崎戸、大島両伝道所を合併して大崎教会の設立をなし、乃美尚敏牧師を招く事に協力援助した。 6.西部職域伝道協議会は1956年2月8,9日御影基督教ユースセンターにて開催されたが、それに村上治、千田尾次郎、服部団次 郎、米倉次吉、乃美尚敏、テオドール・エッケルの6氏出席、職域伝道態勢の確立上極めて有益であった。 7.八幡労働センターとして、八幡鉄町教会を指定しセンター設立費350,000円の援助を得ることとなった、八幡炉労働センタ ーでは1956年3月同志社大学神学部竹中正夫師を招いて第一回労働講座を開いた。 最近数年教区内炭坑地帯、福岡県、佐賀県、長崎県の不況のために失業者続出し、貧困児多く、昨年に引き続いて本年もまた 教区の職域伝道部や日本国際基督教奉仕団が物資のあっせん、また食糧、バター、ミルクによって救援、社会部ではこれらの 物資輸送費1万円を援助した。 (第6回総会議案報告43P) 年表 19560724-26 労働福音学校、於阿蘇YMCA、職伝部、鈴木正久、村上治、 30名 年表 19560906-07 第5回労働福音学校、於上野峡、職伝部、西村関一、村上治、村 上正治、 23名 年表 1956X 職域伝道部報告 ・炭坑困窮者救援、援助金47,193円、 服部牧師経由−下堺小学校30,000 米倉牧師経由−炭労診療所 10,000 村上牧師経由−八幡市内炭坑子弟 2,150 千田尾牧師 経由−大牟田信徒1,000 乃美牧師経由-4,000 事務費 43 残金無し ・カナダ合同教会援助金$2500ドルの援助金、ヘッセリンク師、委員長大野牧師、村上牧師委員となり職域伝道委員としてはそ の配分の使用法に苦心した。 1,佐世保地区では優良小中学生の奨学金 2.田川、大之浦、 飯塚、直方地区では小中学生教科書代 田川、大之浦、飯塚教 会ではミシン、あみもの器による授産事業 3.八幡市では子供の希望する必需品配給 4.福吉Fその他ではSOS物資運賃 以 上の如く使用し大いに喜ばれ労働組合とも親密な関係を結ぶことができた。 (第7回総会議案報告 1957年度その他 西村関一による応援伝道、10教会吉良初見による問安伝道、 10教会、以上農伝部、大衆への浸透伝道、於大の浦、大牟田、長崎飽之浦教会、賀川豊彦、労働福音学校、於嬉野、飯塚、八 幡鉄町、大牟田正山町、隅谷三喜男、Tエッケル、今中次麿、村上治、大崎教会を職域伝道センターに指定、以上職伝部、東道 男による巡回伝道、7ケ所、教育部、貧しき聖徒への見舞金、53 世帯、17,028円、社会部 年表 19581102-03 労働福音学校、於筑豊、宮田、職伝部、キースリー、25名年表 19590308-09 労働福音学校・延岡、職伝部、竹中正夫、Tエッケル、滝沢克 己、朝拝3教会、141名、講演会3ケ所で250名、組合、教会員による懇談会、120名、旭化成寮での教育講座、160名。 年表 19590310-11 労働福音学校・北九州、於八幡鉄町教会、「教会の現代的使命、 産業社会における人間の問題とキリスト教」エッケル、竹中、 89名 年表 19590312-13 労働福音学校・長崎佐賀、於嬉野、竹中、キースリー、村上治、 16名 年表 19590824 労働福音学校、於八幡鉄町教会、職伝部、飯坂良明、65名 (3. 18. 同、エッケル、54名) 年表 19590908 労働福音学校、於延岡城山教会、小林栄、29-30 石丸茂 年表 19591004-05 労働福音学校、於大ノ浦教会、石丸茂 年表 1959年度その他 炭坑の不況閉山と失業者の救済、15万円募金運動、10 4,839円、社会部 年表 19600127 第6回常置委員会、於別府永生会館 2.九州炭坑困窮者救済対策の件 本田清一議長、大野寛一郎社会部委員長、村上治職域伝道部委員長、荒川文六の協議により運営することを決定。 (第10回総会議案報告23P)年表 19600329 第7回常置委員会 於聖星館 20.九州教区炭坑困窮者救済特別委員会設置の件 委員として本田清一、村上治、荒川文六、大野寛一郎、キースリー、服部団次郎、米倉次吉を決定 (第10回総会議案報告24P) 1960年度その他 社会部委員長 大野寛一郎、書記 真武文夫 上記の委員会に社会委員長が委員として加わり協力参加しています。この事業に関係して委員長は現地なる筑豊の数炭坑、佐 賀県、長崎県の炭坑を視察調査致しました。 社会部の昭和36年度計画案 7.炭坑離職者の困窮者教育委員会に協力すること (第11回総会議案報告54P) 年表 19610130-31 炭坑伝道協議会、於二日市、職伝部、正田教授、吉田、向井 1960年度その他 労働福音学校、於延岡城山、八幡鉄町、大ノ浦、佐世保、佐賀、職伝部 年表 19610313-20 炭坑事情調査、職伝部、関西学院グラーム教授、太田 年表 19610429 労働福音学校(延岡)松本美実、E.キースリー、竹中正夫年表 19610501 労働福音学校、於筑豊 年表 19611206-11 第2回集中伝道、於戸畑、飯塚、有田、長崎飽之浦、高島炭坑、 大牟田正山町、佐古純一郎、356名年表 1961年度その他 巡回伝道、5.16-21、福井二郎、11ケ所、11月、石川四 郎、7ケ所、11.9-19千葉温、12地区、その他の教師12ケ所、以上伝道部、炭坑困窮者救援特別委員会解散、今後の活動は社会部 に委託。 19620115 労働福音学校、於福岡、加藤勇、35名 年表 19620124 第7回臨時常置委員会 豊山会館 5.炭坑生活困窮者救済特別委員会報告及び解散に関する件 財務委員長荒川文六及び村上治委員より別紙の案により説明あり、全寄付者に対しては、議案の3及び4を除いて、印刷送付す る旨補足説明あり、報告は承認された。会計に関しては、現在の残高よりさらに印刷費、郵税費等を差引き、社会部へ引き渡 し、今後送金されるものを含め、社会部において、その趣旨にそうよう使用されることを一任することに決定した。 19620321 労働福音学校、於北九州、26名 年表 19620500 労働福音学校(10月にも実施、竹中正夫、キースリー、松本美 実、長谷川保 年表 19620717 第2回常置委員会、於ミーク師館 社会部委員長東島鷹次より、「炭坑地区の奉仕活動については、ケース・ワーカーを置き、財政的裏づけをして、専門的に指導 することが必要である」旨提案があり、教区がそれに対してどの程度の負担を負わなければならない等、それに関連しておこ る教区の責任について質疑応答があった。職伝委員長陶山茂より「この活動のために教区から申請がなされれば、カナダ・ミ ッションより財政的援助が期待できるし、ケース・ワーカーも関西学院等より送られる見込みがあるので、教区よりぜひ申請 してほしい」と意見が述べられ、社会部及び職域伝道委員会になって具体案を作成し、教区へ提出、その取扱いについては役 員会に委託することを可決した。 19621000 労働福音学校、於北九州、長谷川保、石井次郎、小柳勇、加藤 勇、70名 同、於長崎、3月にも実施、長谷川、湯川文人、戸村、55名 年表 19621113 第3回常置委員会 ミーク宣教師館 6.筑豊炭坑地帯奉仕活動についての陳情の件 服部団次郎及び船戸良隆(東神大学生)より説明がなされ、このために教区の事業として委員会を組織し、特別の予算を組むよ う要請がなされた。陶山茂職伝委員長は既に計画が進展している。「筑豊炭坑地区奉仕活動」の一環として実施することが望 ましいと意見を述べた。村上治からも職伝委員会と社会部において検討し、次回常置委員会に具体案を提出されるよう要望が あり、これを承認した。(第13回総会議案報告書29P) 19630122-23 第4回常置委員会、於別府豊山会館 東島鷹次より詳細な説明があり、陶山茂よりも補助説明があったが、村上治、国宗普、森俊治より@財源について、A東神大 学生船戸良隆の奉仕活動との関係、B九州教区の責任等について質疑あり、議論沸騰採決にいたらなかった。 19630300 労働福音学校、於大分、湯川文人、Hジョーンズ、30名 年表 19630320-21 教区職伝協議会、於西南、「産業構造変化と教会の使命−石炭、 鉄鋼、化学−」伊藤義清、21名 年表 19630326 第5回常置委員会 ミーク宣教師館 陶山委員長より前回の提案文には東京神学大学学生船戸良隆の活動についてふれず、誤解を与える面もあったので、これを訂 正して実施したい旨説明があったが、村上治より@教区が主体的にやるのかA船戸良隆の現在の奉仕活動はどうなるかB予算 について質疑があったが、東島鷹次および陶山茂より、教区が財政を援助するのでなく、社会部と職伝委員会が協力して援助 を行い、福祉法人として国家的な援助をうけるところまでもっていきたい。特定の人を応援するのではなく、新延地区、福吉 坑の全地域を対象とするものであることを説明あり、教区総会に議案として提出することを承認した。 (第13回総会議案報告書38P) 19630515 第1回常置委員会、於福岡中部教会 10.第13回教区総会から委託された件 (1)筑豊協力伝道奉仕会支援の件(T.K.K.) 陶山茂職伝委員長、村上治社会委員より説明。 同委員会には職責上教区総会議長が委員長となり現地より服部団次郎、藤巻三郎(会計)、職伝からは陶山茂、社会部より村上 治(書記)が加わり、T.K.K.とジョイント・コミッテーを組織し、教区とのルートを確保することが決議された。荒川文六より委 員会の財政につき質疑あり、社会委、職伝委の予算の枠から参加者の費用を支出することにし、T.K.K.との関係委員会の予算 は財務部と別の特別会計とすることが確認された。正式に組織され、名称が決まるまで“筑豊に関する委員会”と仮称する。 (第14回総会議案報告書21P)年表 19651116 第4回常置委員会、於ミーク宣教師館 筑豊の炭坑が不景気で、閉山し、炭住は離職者でさびれてゆく時、数年前から地区教会と協力して東京神学大学、同志社大学 神学部、関西学院大学神学部の神学生が夏期休暇を利用し、あるいは休学し炭住に住み込み、伝道・福祉活動を続けてきた。 教区でも筑豊伝道のための特別委員をつくり後援してきた。今回、筑伝奉で働いていた犬養光博が神学校卒業後、福吉に定住 し、自給しながら伝道を始める。北九州地区もこの伝道を応援することを約束している。会員は教師と夫人だけであるが、教 師の収入と後援金を財源として伝道計画書を添付し開設届が出された。通常の伝道所開設のと事情が異なるが承認した。 19661115 第4回常置委員会、於福岡警固教会 北九州地区諸教会との連繋がとれるまで保留し、地区委員長は教会的配慮をして指導することを決めた (第17回総会議案報告書24P) 19670118 第5回常置委員会、於西新町水光苑 2.筑豊上豊州伝道所開設届申請承認の件 前回保留になっていたが地区委員長が問安し、その働きの模様が報告され、自給伝道のためアルバイトをしながら地域の子供 会、地区活動を続け礼拝を守り機関誌「連枝」を発行、主任者松崎一の健闘が述べられ北九州地区での協力関係が確かめられ たので承認した。 19681112 第3回常置委員会 於聖星館 ロ)筑豊伝道のための援助金を地区でも支援しているが自給伝道者の失業期間を助けるため年額8,000円程度支出することが求 められ、伝道部が小教会援助と互助の中で配慮することを決定し、承認した。 (第19回総会議案報告42P) 19720321 第8回常置委員会 5.大崎教会廃止届申請承認の件 標記の件について峠口新長崎地区委員長より経過報告と説明があった。すなわち、大崎教会の現在地大島町は炭坑の閉山に 伴って人口の過疎をきたし、同教会の会員は激減し、現住陪餐会員が皆無の状態になった。同教代務主任担任教師峠口新は、 分散した会員5名と連絡をとり、書面による教会総会を開き、教会解散を決議し、教会廃止届申請書を提出した。検討の結果 これを承認した。尚、教会の基本財産である建物は、教団の特別財産として申請することを決定した。(23回総会議案報告44P) 以下はテオドル・エッケル宣教師が用いたトラクト 元飯塚教会員森田氏が謄写印刷したもの。 キリスト者と労働 Theodor
Jaeckel (テオドル・エッケル) 目 次 休 息 ルカによる福音書10:1-42 働きの目的 使徒行伝3:35 私たちの日々 コロサイ人への手紙3:23 私たちの同僚 創世記4:9 困難な仕事 ピリピ人への手紙4:4) 自由と責任 ガラヤ人への手紙5:13) 求 職 (マタイによる福音書6:33) 失 業 (創世記2:15、詩編128:2) 失業者とキリスト者 (ピリピ人への手紙3:13.14) ストライキ (箴言24:5) ルカによる福音書10章41〜43節 主は答えて言われた。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。 日曜日は、キリスト教の安息日である。神は私たちを休ませるためにお召しになるのである。ドイツの有名な社会学者 ハイデはこう書いている。「神の命令と人間の本性とが仕事を要求する。と同時に仕事を偶像化することを禁じている。そして仕事には余暇が必要である。それは仕事にために私たちの精力を恢復せるばかりでなく、私たちを新しい人間として再生させるからである。余暇は私たちが特殊な専門の仕事に従事する時に、失い易い私たちの全体性を恢復し、他の人々との稔り多き交わりの中に生きる能力を恢復させる。・・・仕事それ自身が最後的価値をもつのではない。仕事は人間としての私たちに奉仕すべきであって、人間が仕事に奴隷となるべきできない。 人間の尊厳は人間が仕事をすることにあるのでなく、人間が神の子であり、神と(霊的な)交わりをもち、他の人々と正しい交わりの関係にあることにある。 たとえ仕事がよい意図をもってなされたとしても、仕事はマルタを、”よい方”即ち神との交わりの内にある生活を確保しはしない。神の国はあらゆる人間の活動とは別にやってくる。人間はそれを賜物として受けるだけである。 その賜物は他ならぬイエスのうちにあるのである。心静かな期待をもって新しい生命が私たちにあふれるのを待とうではないか。キリスト教の安息日の意味は、ただ「仕事を休む」ことではなく、「神のために休む」のである。私たちは日々の金儲けの仕事をさしひかえようではないか。そしてまた他の人をも忙しく働かせることを慎もうではないか。買い物にも行くまい。あさはかな娯楽にもふけるまい。神を拝し、同信の兄弟との交わりをもとう。私たちの魂に新しい力を与える書物を読んだり、音楽を聞いたりしよう。悩める人、病める人に喜びを与えよう。信仰者の助けを必要としている孤独な人に手紙を書こう。主の日、一日をイエスと共に歩もうではないか。 使徒行伝20章34,35節 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が幸いである。」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。 すべての人々同様に、キリスト者も生きるために働く。しかしそればかりでなく、キリスト者は人を助けるための資金を得るためにも働く。キリスト者の働きには、キリストの働きが反映している。キリストは自分のためには何もしないで、すべての人のためになした。その死ですら、単なる生命の自然な終焉ではなくて、やはり人のための働きであった。もし私たちが人に対し愛の心から働くならば、そのような働きはキリストの犠牲的愛を反映する事になる。 信仰をもたない人はただ、生きたい、獲得したい、所有したい、という願望だけしかもっていない。利益を得られさえすれば、時に正直をさえ犠牲にする。しかしキリストの体の一員となった人は弱い人々のためにその労力を捧げ又その働きの所得をも提供する。彼の心は「受ける事」を考えることから、「与えること」を考えることに変わってしまったからである。 その「与えること」とは、私たちが受けている人の人格にはなんら”関心”をもつことなしに、ただ物質的な「ほどこし」をすることではない。キリスト者がする「助け」は宗教的善行ではなくて、「交わり」をつくりだすための手段なのである。キリスト者の働きの目的は「より多くを得る」ためではなくて、キリストの体の成長にあるのである。働きの中心がもはや自分自身ではなく神と他の人々にあることが、働きに対するキリスト者の態度の特徴である。 コロサイ人への手紙3章23節 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい 神は建設者であり、そして神は今も働いておられる。 神は自分の形に人を創造された。人間はすべて被造物を神が支配されるように支配しなければならぬ。そして世界を支配するためには人間は働かねばならぬ。それだから人間は神の同労者なのであり、そして労働は高貴なことがらなのである。人は労働を愛すべきであって避けるべきではない。神が私たちを労働に召したもうからである。そしてそのような神の召命は私たちの日々の働きにどんな影響があるのだろうか。信者のなすすべての人は神の召しに対する応答である。だから、キリスト者の名誉心は世俗の標準に従って社会で高い地位につくことではない。神の召しに対する忠誠である。もし彼が神の召しに対して忠実であるなら、彼の職業がなんであろうと、すでに彼は高い地位にあるのである。なぜなら彼は神の仕事をしているからである。 キリスト者は神の同労者であるから、資材を無駄にしない。彼自身の財産であろうと、会社のであろうと、学校のものであろうと、政府のものであろう、そして彼の管理するものであろうと、金銭であろうと決して無駄にしない。すべてそれらの資材は神の財産であり、彼が注意深く責任をもって使用するように委されているのである。 キリスト者は正直で質素できちょうめんである。不精でも怠惰でもない。時間は神の財産だからである。時間は私たちが正しくつかうために与えられたもので、誤用したり無駄につかったりすべきではない。 キリスト者は仕事が適切になされるように気をつける。他人から監督されていない時でも上べだけでない完全な仕事をする。なぜなら彼は神に監督されているからである。キリスト者の仕事はその信仰のあらわれである。うわべだけの仕事は、うわべだけの信仰を示している。そして私たちは信仰が深くなればなるほど、よりよい仕事をしとげるであろう。 創世記4章9節 わたしが、弟の番人でしょうか 私たちの生活の大部分は私たちの仕事のなかに注ぎこまれている。それが学校であり、会社であり、商店であり、工場であろうとも、その職場では例外なく同僚と一緒になる。私たちはそれらの同僚が好きであることもあるが、嫌いである事もある。そして同僚は私たちを助けてくれることもあるが、競争する事もある。私たちはいつも同僚とは自分にとってなんであるかと考える。しかし私たちもまた同僚に影響を与えているのである。私たちの生活は彼らの生活の一部になっている。だから私たちが私たちの職場にしめす心がけと態度は同僚たちの幸福、元気、希望などに対して重要な要素となる。とすれば、私たちは職場でどんな生活をしているだろうか。私たちは既に神の国に召され、キリストとの交わりの中にいれられ、私たちの心は帰られた。恐れと我が意とはとりさられ、今や私たちの心は神に頼っている。そして私たちは平安と確信とを神より日々に与えられている。生活の目的の中心はかわってしまったのだ。それはもはや「私の生活」「私のもの」ではなく、「キリストの生活」であり、「彼の物」なのである。私 たちは主の僕になったのだ。主が他人を愛してそのために死なれたように、私たちの心の中心に入ってきたのは他の人々なのである。私たちの生活の目的は今や、神の心にかなうように歩むことである。 それでは私たちは職場で一緒になる人々に対してどうすればよいのか。どのようにして同僚に私たちの信仰生活を示したらよいのか。同僚たちの生活はこの私との接触によってよりすくなくなるであろうか。わたしたちの反対者たちは、私がキリスト者である事をどのようにしみじみと感じるであろうか。どうしたら先生や他の学生たちが、私が試験の日にも神の加護のもとにあることをさとるであろうか。 これは私たちにとって重すぎる要求だろうか。私たち自身をよく考えてみると確かにそうである。しかしキリストは私たちを彼との交わりにお召しになった。キリストは私たちの職場において私たちと一緒に働いておられる。もし私たちがキリストの招きに従うなら、私は私たちの同僚のためにキリストのような生き方をすることができるはずだ。 ピリピ人への手紙四章四節 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい パウロは獄中の困難な状況のなかから、この言葉を書いた。ときどき私たちはひどく難儀な仕事にゆきあたる。仕事に喜びも満足もなく、ただ困難と重荷ばかりであることがある。そういう場合、普通の人は怒るかまたは「仕方がない」と言って諦める。そのような状況にあって、私たちはキリスト者としてどうすべきであるか。 その職場で毎日困難な状況に直面している一人の人を私は知っている。 彼は職場が神の意志にしたがってすべてを行うようにと戦っている。しかし彼は殆ど成功しない。彼の上役はキリスト教信仰の価値を認めない。彼は私に語った。毎朝、彼を待ちかまえているはてしない困難のことを思うと、彼の心はみじめであった。実際、彼はその職場へ行きたくなかった。しかし彼は生活費を稼ぐ外の手段をもたなかった。 ところがある朝、一つの出来事が起こった。 職場への途上「キリストが助けて彼の職場を変えて下さるよう」と祈っている時に、彼はキリストがすでに彼に先立って困難な仕事の場へ行きつつあることをさとった。 キリストは彼とおなじ不満な状態を経験しつつある。しかしキリストは忍耐強くこの十字架をせおって、彼−−−私の友だちではなく−−−の約束の時に、この状態を一新されるであろう。そこで、この私の友だちはもしキリストがそうされるのであれば、私もまたおなじようにしようと決心した。 彼はキリストの手につかまった。これまで怖れ、嫌ってきた困難の中によろこんで進んで言った。彼はあきらめて仕事にむかったのではなく、また悲壮な絶望的な気持ちからではなく、喜びと確信をもって前のように奮闘を続けるよう決心したのである。なぜなら、もはや彼一人ではないからである。 私たちは職場において困難をキリストがすでに背負われた十字架としてひき受けていこうではないか。そしてこれが私たちの働きのなかでキリストに出会う道なのである。もしキリストに出会ったなら、困難な仕事ももはや重荷ではなくなる。私たちはその困難のさなかにおいて喜ぶことができる。 なぜなら、私たちはキリストとの交わりのなかに入ったからである。 ガラヤ人への手紙5章13節 あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 キリスト者は正義とまことの神の僕である。 もし、その職場で不正に出会うなら、勇敢に自身の真実を示さねばならぬ。沈黙している事は不正を支持することになる。キリスト者は忍耐することを知っているが、忍耐することは黙っていることではない。たしかにキリスト者は批判すべきことは批判すべきである。しかし、キリスト者の批判は非キリスト者のヒューマニストの批判とはおのずから異なっている。 21才の若いキリスト者(会社員)の例をあげよう。 地方の有力な実業家が所有する彼の小さな会社が破産した。その所有者は出資金をもって退き、関係していた他の会社に移って、なんら損害をこうむらなかったが、従業員だけは月給がもらえないので苦しんだ。 神の聖霊はこの青年に働いて社長のところへ行って、従業員が困っているのに社長だけが新しい地位について 安楽にしているのは非常に不当であることを話すように告げた。青年は話したいと思ったけれど、やはり上役がおそろしかった。彼はヂレンマに陥ってどうしてよいかわからなかった。そこで彼は祈った。この祈りの中で聖霊は二つのことを教えた。第一に、その批判の動機が単に闘争のためや、彼自身のため、また同僚のためであるのではなく、彼の上役の心も正しくあるためにも責任を感ずべきであること、第二に、聖霊は彼の社長に対するつらい気持ちを楽にした。そこで彼は自由な気持ちで愛の心に満ちて、上役にむかって話す事ができた。そのような自由と勇気とは聖霊の導きに従順であるところから生まれてくる。 マタイによる福音書6章33節 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる。 この数ケ月は多くの学校卒業者にとっては就職運動の月である。就職は年毎にむづかしくなっていく。このような状況に対して教会にはなにか有益な助言をすれことができるだろうか。(たしかにできる)二人の友だちのことを話してそれの助言をお伝えしよう。 二人とも去年、大学を卒業した。一人は興奮しやすく神経質であった。 そしてある社長に紹介されるちょっとした機会があった時、ちょうどしなければならなかった仕事から逃げようとした。彼は折角の機会を失うことをおそれて信頼できない人間になった。彼は今日までまだまだ職を得ていない。もう一人も去年の春には就職できなかった。けれど彼は冷静さを失わず、まず神の国を求め、そうすれば、他のものは彼に加えられることを信じていた。彼は神の国がキリストにおいてすでに来ていることを知っていた。もう、そこに来ているのだ。だから怖れも心配もいらない。彼は信頼すべき堅実な人間として推薦され、秋になってまったく思いがけなく仕事が見つかり、高等学校の先生になった。 絶望的な状況のなかでも、キリスト者は勇気と信仰をもっている。キリストがそこにいまして、一人一人の信者のために計画をもっていて下さるからである。この計画は人間にとっては失望であっても、良い物だからである。だから、期待をもって前進しようではないか。おそれと心配は信仰をもたぬ者がとる当然の態度である。しかしキリスト者である私たちは主が私たちを愛し、そして現に今、生きておいでになり、神の国は近づいていることを知っている。 創世記2章15節 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守られた() 詩編128編2節 あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう 深刻化してゆく失業問題にうちのめされている北九州の炭鉱地帯の中心で私はこの一文を書いている 傾いた社宅の家並みを通って行くと、「いつ、俺は首を切られるだろう」というささやきが聞かれる。 教会は失業問題をどう考えているか。 神は世界を造って、その中で人間はただ働くことによって生きてゆくようにされた。人間は神の創造されたものを勤労によって守っている勤労は安らかな心と幸福な生活によって祝福される。失業状態がながびくことは神の意志に反している。私たちは経済組織をすべての人とが働けるようなものにしなければならぬ。わが国の経済問題を解決するためには合理化が必要であるしかし、その合理化は失業者を生み出す。そのためにはまた失業問題をも克服しなければならぬ。失業は売春と同様の社会悪である。人間は仕事がないと惰性のなかで堕落してゆく。だから失業保健は一時的に失業者の生活の助けとなるが、失業問題を根本的ら解決しない。 イエスは助けを必要とするみじめな人にも、ほどこしは与えられなかった。が、それ以上のものを与えられた。 イエスは彼らの問題を根本的に解決し、癒し、社会の有用な一員として復帰するまで癒しを与えられた。イエスは全力を挙げて彼らを助けられた。それゆえに私たちは失業者をただ金銭によるばかりでなく、彼らのため仕事をつくりだして助けなければならぬ。教会や実業界や議会などの有力な地位にあるキリスト者は全力を挙げて援助しなければならぬ。それは神がそれらの人々に委ねられた任務なのだから。考えをつくし、全精力を結集して失業問題の解決に当たらねばならぬ。なぜなら、失業とは神から放れた生活状態である。 キリスト教界の指導者も牧師も平信徒もすべての失業者のために職場をつくりだされるまで休みなく努力するような祈ろうではないか。私たち自身も、この神の意志に反する社会悪をなくすために何かをなすまでは、安心気にのんきにしていることはできない。 ピリピ人への手紙3章13,14節 後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである。失業者に対するキリスト教の発言は何か。私はちょうどその日に首を切られたばかりの若い鉱員にあった。絶望にうちひしがれて彼は私の前に立った。私が「それで、あなたの生涯の一時期が終わったんだね」と言うと、彼は悲しげにうなずいた。そこで私は「それじゃ、喜びなさい。今までのことは考えないで、もとに戻ることはできないのだから、それはもうすぎてしまった。もう死んでしまったのだ。前を見なさい。おそれや心配ではなく大きな期待をもって、もっとよいことが待っているよ。キリストはあなたの過去がここで終わるようにされたので、あなたの将来のことも知っていらっしゃる。これから困難があるかも知れない。あなたははげしく戦わねばならないかも知れぬ。しかし、あなたはこの戦いの一歩毎にあなたの生活を建設してゆくであろう。なぜならキリストはこの困難のさなかであなたを待っておられ、その困難のなかからあなたを召される。「私のところへおいで、あなたのためによりよい計画がある」とおっしゃる。喜びをもってキリストに向かって進みなさい。キリストは困難の中であなたに会うこと を願っておられる。その時、はじめて青年はキリストがよみがえって生きておられ、キリストと共なる生活が現実の実際のものであることをさとった。彼は失意の態度を捨てて、あちこちと熱心に仕事をさがした。何ケ月も成功しなかったが、失敗するごとに彼は言った。「キリストと共にしたよい経験であった」と。今、彼は東京で就職している。 信仰をもたない彼の同僚たちはただ他人からの助けをあてにして無為にすごしている。自分で努力しようとしないで、状況がよくならないと不平を言う。彼らは以前のことばかり考えて新しいことを考えることができない。彼らは新しい場所で新しい仕事を見つけようとしない。だから依然として職なくおなじ土地にとどまっている。 悪いできごとが信仰者をうちひしぐ時、彼は二つのことを知っている。だ第一に、この事は主がお知りにならずに起こったのではないこと。第二に、主はよりよいことを用意しておいて下さること。だから、過去はうちすてて、後をふりかえることなく、うしなったものを悔やむことなく、よりよいものを期待している。前途の戦いは困難であるかも知れない。しかし戦いのさなかに主は待っておられて召したもう。「私にきなさい。私はあなたを愛してあなたのために、よりよい未来を用意している」と。だから信仰者は彼の主に会うために前進する。 箴言24:5 知恵ある者は強い人よりも強く 労働者にとってストライキをする権利は闘争において経営者を彼らの要求に同意させるために必要な武器である。それは労働者のもつ最後の武器である。この武器がなかったら労働者は経営者に圧迫されるであろうことは疑いもない。労働者がスト権をもつのは当然であり、さもなければ経営者はあらゆる権力をふるって思いのままに自分の意志を命令して従わせることができる。しかし、スト権はもて遊ぶ玩具ではない。それは鋭利な破壊的な武器である。なぜなら、ストは生活の基礎である生産の自然の流れをとめるからである。経営者と労働者のみならず、一般の消費者まで被害をこうむるからである。 ストライキは国全体の経済に影響を及ぼすのである。そればかりではなく、ストは−−−ちょうどすべての戦争がそうであるように−−−ときおり私たちを盲目にして、何が正しいかを判断する力を奪う。ストライキ中には、戦争中と同様に憎悪と虚偽が容易に頭をもちあげる。だからこの武器はよほど賢明に使用されねばならぬ。 適正なストライキはいかなる性格のものであるべきかということを熟考することは、キリスト者の義務である。 ある若いキリスト者労働者のグループが今年の秋、東京における会議で、次の結論に達した。即ち、ストライキは次のような場合に適正である。 一、その目的が正当で、かつ重要であり、 二、妥協の為のすべての手段が失敗し、 三、その目的がストライキによって達成される確信があり、 四、ストによって得るところと、よい結果とが受ける被害と損失より大であり、 六、大多数の労働者の投票で決定されたストであり、 七、スト中でさえ、たえず調停和解の手段を見出す努力がなされ、 八、ストがはじめられる前に会社の社会的財政的な条件、および一般社会の状況と要望とが十分に考慮されたものである場合である。もし私たちがストのあることを聞いたなら、それに関わりあるすべての人が知恵をもつように祈ろうではないか。 なぜなら、ストは戦いであり、生活の基礎は戦いではなく、協力であるからである。 (完) |