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  九州教区宣教のあゆみ  


第3章 奄美伝道

奄美伝道  喜界教会、名瀬教会、瀬戸内教会、徳之島伝道所


1,資料:教区総会議案報告(1955-1990)

2,奄美伝道発祥に最適の器  丸山邦明  1984年4月

3,奄美地区伝道20周年を迎えて 雨宮恵 教区通信(98号)

4,発題 「奄美大島開拓伝道と現在の課題」 1987年9月1-3日

  −離島伝道の場合− 丸山邦明

5,谷川教会の献堂式 谷川教会献堂記念文集 

 国立療養所(ハンセン病)奄美和光園谷川教会

(後の名瀬教会和光伝道所)

6,瀬戸内教会 重点施策教会報告

7,参考資料:戦前の奄美伝道 日本基督教会鎮西中会記録

1,教区総会議案報告 (1955-1991) 

19550419 第1回常置委員会 於聖星館

5.集中伝道県に関する件(奄美大島伝道)

今年度は問安の年とし。年間6回教区内も牧師が交替で訪問、そのための費用として綜合伝道委員会へ10万円要求すること、 定住者を求む。(第6回総会議案報告29P)

19550511 昭和30年度伝道部計画 (第5回総会議案報告55P)

B集中伝道 奄美大島伝道を当教区において引き受け、一年6 回教区内教師が訪問伝道、その予算10万円を綜伝に要求 30年 度を問安の年としその間定住開拓伝道者を見いだす事鹿児島地区を基地とする。

問安希望者 志水芳夫、大野寛一郎、村上治、本田清一、沢田鈴歳

E教区として採上げるべき大きな伝道対象の問題

1,奄美大島 沖縄伝道

2,大分県 国東半島集中伝道

3,鹿児島県 大隅半島集中伝道

4,離島伝道 (五島、壱岐、対馬)

5,山間地帯伝道 (大分、宮崎、熊本県の)

F教区全体の30-31年度伝道の目標は宣教百年記念伝道の趣旨によって進むのであるが、特に教職信徒の協力態勢を強化し、 「教勢振興、充実」を図ること。

19560112 第5回常置委員会、於別府豊山寮

2.伝道部委員長後任の件 

福井伝道部委員長が奄美大島伝道に献身を表明され、伝道部委員長を辞任することになったので、その後任は当分伝道部内に て代理を立てること、人選は伝道部委員に一任。

※奄美大島伝道は九州教区に委託され、福井二郎がこのため赴任する事に決定す。赴任にさきだって3月中旬二週間の予定に て福井、志水視察伝道を実施す。(昭和30年度伝道部報告35P)

19560509-10 第6回教区総会、於福岡中部教会、

奄美大島の福井二郎への激励電報を打電。

議案11,九州教区開拓伝道に対する提案(九州開拓伝道案)

 九州教区開拓伝道に対する提案

序言

この提案は1957年1月16日17日別府に開催の九州教区綜合伝道委員会で満場一致可決されたものを基礎としてこの為に上げら れた委員らが再三審議をつくしたものである。

1,九州教区から見た伝道宣教師

2,九州開拓伝道案と宣教師  

(第7回総会議案報告24-27P)年表

19570925 第4回臨時常置委員会 於福岡警固

2.瀬戸内伝道所開設届の件 承認

3.瀬戸内伝道所(奄美大島古仁屋)土地購入特別援助申請の件 

申請額 (1,000,000円、土地347坪)承認

19580000 第5回常置委員会、於紫泉荘

8.名瀬伝道所土地購入資金援助申請の件 申請額 (173,000円) 10.故志水芳夫(正)遺児育英資金の件 教区保管154,670円、そ の他45,020円を本田副議長が遺族に手渡す事。

(第9回総会議案報告21P)

19580116 第6回常置委員会、於別府豊山会館

2.名瀬伝道所、主任者(正教師 雨宮恵)派遣申請の件 承認

3.奄美大島地域の総会改組委地までの汽車賃を教区で負担のことを承認。 (第8回総会議案報告32P)年表

19580517 第2回常置委員会 於福岡中部教会

2.瀬戸内伝道所 会堂建築援助申請の件 申請額(500,000)承認

(第8回総会議案報告10P)  

19580702 第3回常置委員会 聖星館

4.名瀬伝道所(奄美大島名瀬市)開設届の件 承認

(第9回総会議案報告20P)

19590330 第8回常置委員会 於聖星館

13.小久保達之祐(喜界湾)准允の件 門司教会にて准允を承認

(第9回総会議案報告23P)

19600127 第6回常置委員会、於別府永生会館

8.喜界西伝道所開設届(主任者小久保達之佑 補)

所在地 鹿児島県大島郡喜界町大字湾131 承認

17.奄美伝道を九州教区に移譲の件

教団の意図を尋ね、考慮することを申し合わせた

(第10回総会議案報告23P)年表

19600329 2.名瀬伝道所土地購入援助申請の件(180万円)

教団に於て、九州教区以外のものとして取扱いを受けることを条件として、書類整備の上 承認

19600712 第3回常置委員会 於バイラー宣教師館

1.教区主体性強化に関する件

教団機構改革委員村上治より教団機構改革委員会の報告が行われ承認された。

2.CEC報告

森俊治より (a)佐賀地区の宣教師に関する件(b)延岡東海伝道所をE方式開拓伝道地指定申請の件(c)大之浦教会付属幼稚園補 助の件(d)杵築教会付属幼稚園土地購入及び園舎建築補助申請の件について報告あり、承認された。

5.昭和36年度会堂建築援助申請審議に関する件

f.喜界西伝道所会堂及び牧師館建築援助申請の件

(総工費62万円、申請額47万円、自己資金15万円)

g.名瀬伝道所土地購入援助申請の件

(申請額18万円) 以上2件は教区枠外として承認

(第11回総会議案報告29P)

19601111-21 奄美伝道、於喜界、名瀬、古仁屋、伝道部、森分喜平

19610126 第7回常置委員会、於別府、

3.奄美伝道に関する件  

雨宮恵より奄美伝道の現状とその問題について、具体的な説明あり、種々の意見交換の後、奄美を一地区とし、九州教区を10 地区とする事が望ましいという結論に達した。しかし、不安なしに奄美伝道を推進する為に次回常置委員会には福井二郎を奄 美の代表として招き、(旅費は鹿児島より教区負担)協議をなし、教区総会に際しては、教団伝道総幹事の出席をもとめ、常 置委員および奄美伝道者全員による協議会を持ち、教団伝道部の意向を確認の上発足することを決定した。(奄美よりの旅費 は自弁または綜伝による)

(第11回議案報告34P)年表

19610509-10 第11回教区総会、於福岡中部教会、 

13.奄美伝道に関する件

議長より福井二郎提案の喜界西教会20万円、喜界教会15万円援助増額の件について説明があったが、奄美伝道に関しては、書 類は教区を経由するが、交渉は教団伝道部へ直接行う方が有利だと考えられるので、そのような取扱い方をとるよう連絡する 事を決定した。(第12回議案報告32P)

19610510 第1回常置委員会、於福岡中部教会

2.(ロ)名瀬伝道所会堂建築援助申請の件 (30万円)

本田議長より新たに購入せんとする建物及び位置について写真等により説明あり、申請を承認した。

(ハ)名瀬伝道所会堂建築貸出申請の件 (100万円)

現在の事項について詳細な説明あり、名瀬の伝道の為に特別の処置を必要と認め、あえて二重の援助を申請することを決定し た。

(ニ)名瀬教会(第2種)教会設立承認の件

意義なく承認した。

(ホ)名瀬教会規則承認の件

責任役員数及びその任期の訂正を求め、書類整備の上役員会において処理する事を承認した。

(ヘ)名瀬教会主任担任教師招聘承認の件 (雨宮恵 正)承認

(第12回議案報告28P)

19611127-1207 奄美問安伝道  

4教会、沢田鈴歳、11月27日〜29日喜界、11月30日〜12月1日喜界西、12月2〜4日名瀬、12月5〜7日瀬戸内 

(第12回 総会議案報告44P)年表

19620124 第7回臨時常置委員会  豊山会館

20.奄美よりの出張旅費の件

沢田鈴歳より奄美地区伝道費の取扱いについて報告あり、諸種の意見がかわされた結果、千葉総幹事奄美応援の際に、現地に おいて協議解決する事とし、九州教区の考え方は小川貞昭伝道副委員長より教団へ伝達してもらう事となった。

19630311-22 奄美伝道キャラバンメンバー6名    年表

19690318 第5回常置委員会  

11.瀬戸内教会建築援助申請承認に関する件

奄美地区教会強化自立への一環で産院の増築のため150万円が申請され、承認された。 (第19回総会議案報告46P)年表

19690708 第2回常置委員会

・奄美地区のこと 自立計画、同地区の教師援助のこと

されており、常任常置委員会に協力方法を委託した。

14.喜界教会特別援助に関する件

今年度に限り、月額6,000円を援助することを決定、処置方法については財務委員会に委託した。

(第19回総会議案報告32P)年表

19700506 第20回教区総会、於福岡県教育会館、 

議案1,日本基督教団九州教区宣教長期計画(案)

1,基本方針

現代に使命を果たし得る教会をめざし、教団の体質改善と伝道圏伝道の基本方針に沿いつつ、以下の基本方針に基づいて5ケ年 (1970-74年度)に亘る宣教方策を実施する。

@今日の社会状況における福音の課題を果たす。

A教職及び信徒の自主性を確立し、悪魔的力と闘い基督の主権のもとに世に仕える教会の形成をめざす。

B地区の教会的性格を深め、教区機構の実質化を計り、地区活動を強力に推進する。

C伝道圏的視点にたち、各個教会の宣教力の強化を計り、地区との連繋の下に小教会の進展を積極的に支援する

D長期的且つ綜合的な展望の下に、急激に変容しつつある産業都市と農村社会の現実をふまえ、新しい伝道を試み、また計画 的な開拓伝道を実施する。

E教職人事の適正化を計り、現代の状況にふさわしく、教職の務めの多様性に応じた活動の分野と機能を追求する。

F今日における宣教を有効に展開する為に教職並びに信徒の研修を盛んにする。G教区財政の確立を計る。

2.宣教方策

A 教区の事業で、効果的でなく、必要性のないもので、地区レベルでできるものはやめて。問題がでてくるのを待ち、どうし ても教区としやらなければならぬ事をして行く。

B これらの対策を実施しながら、教区の綜合計画を作り上げる。(71年度から綜合計画は軌道にのって進展する)

@教区レベル

1.教区の長期且つ綜合的展望の中で小教会の使命と意義を確認し、その宣教力強化の為の施策を立てこれを実施する。

2.会堂建築施策は、調査をまとめ、構想を作り、計画的にすすめる。

3.教区レベルで扱った方が効果的と思われる教職研修及び信徒研修を実施する。4.宣教を有効にする為の情報提供、広報、宣 伝等の為に随時文書活動を行う。

5.奄美地区の自立と伝道の推進につとめる。

A地区レベル(教区の立場から考えてる但し教区が画一的に計画にはめていくのでなく、各地区の主体的な働きに期待しつつ、 教区はこれに協力する)

1.地区活動を強める。

2.地区の再編成の可能性を研究する。

3.壮年部を育成し、その組織化をはかる。

4.会堂建築を計画的にすすめる。

5.教会付帯事業の使命の明確化と整備につとめる。

(注)従来より教区が実施している事や、当然の諒解事項で継続されているものについては、その成果を評価し反省しつつこれ を行う。但しここには提出しない。

(第19回総会議案報告12P)

19701117 第5回常置委員会

議事:「宣教部計画案に関して、a.重点施策 b.社会福祉事業団の結成、c.奄美地区諸教会自立計画」   年表

19710504 5.奄美地区の自立と伝道の推進につとめる。

(第21回総会議案報告26P)

19711116    第6回常置委員会

6.奄美特別開拓伝道自立計画

山田忠宣教部委員長より標記計画についての説明があった。自立計画案の1,400万円の募集は、喜界教会、名瀬教会をはじめ、 九州教区を含めた教団内の有志によってなされるが、自立計画の遂行については、教団伝道委員会が責任をもつべきことを確 認した。 年表

(第22回総会議案報告35P)

19721114 第6回常置委員会

17.喜界教会、喜界西伝道所教会合併申請承認に関する件

  喜界教会、喜界西伝道所より標記申請書が提出されている。検討の上これを承認した(23回総会議案報告41P)

1972年度 ・宣教部報告  委員長 山田忠

・重点施策

名瀬教会が現敷地に伝道センター建設及び喜界教会が西伝道所所在地に会堂及び施設建築を計画。建設費は1,400万円中、現 地250万円、教団400万円、後援会600万円、教区150万重点施策繰り入れを承認。 

(23回総会議案報告58P)

19730123 第7回常置委員会  

3.地区委員長会提出議案に関する件

  昨日(1月22日)に開かれた第2回地区委員長会において雨宮恵奄美地区委員長より、徳之島伝道について現況説明があり、次の 提案がなされた。

(イ)徳之島伝道所開設

(ロ)徳之島伝道のため教区援助金の要望

 地区委員長会は、協議の上、この二つを常置委員会の議案として提出している。協議の結果次の通り申し合わせた。

(イ)徳之島伝道所開設については、現在奄美地区の3教会に対して教会から援助金を送っている状況でもあり、今後宣教部と綿 密な連絡をとって伝道計画を建てた上で開設申請を提出してもらうこととする。

(ロ)以上の手続きを経る迄は、徳之島伝道に対する援助金は出さない。但し、名瀬教会がこれまで徳之島の伝道を推進してきた 事実もあるので、名瀬教会に対して給付されている援助金の中から徳之島伝道の費用がねん出されることは差し支えない。

(23回総会議案報告41P)

19730708-10  地区担当者会、於聖公会センター、

議題:「奄美地区の問題」

(24回総会議案報告55P)

19730716   奄美伝道自立計画、於名瀬教会

名瀬、喜界の両教会牧師役員集合し教区幹事が陪席して計画立案。年表(24回総会議案報告56P)

1,九州教区宣教長期計画 (1971年度より5年間)

5,奄美地区の自立と伝道の推進につとめる。

19750708 第2回常置委員会

10.地区委員長会よりの提案事項に関する件

(イ)岩岡道行(正、瀬戸内)人事に関する件

 岩岡道行教師の病状(肝臓病)が悪化しているので療養を含めてその人事問題を検討してほしいと、奄美地区(委員長雨宮恵) より提案された。今後教区役員会及び常置委員会度検討し善処することを申し合わせた。(26回総会議案報告28P)

19760119 地区委員長会   (第5回常置委員会報告より)

(ロ)奄美地区特別旅費規程に関する件

地区委員長会等に出席するためには、時間の関係でどうしても航空券を使用しなければならない場合が殆どであるため、是非 予算化してほしいという提案が地区委員長会から出されている。その必要性を認め、予算化を財務部に委託することを決定した。

(26回総会報告41P)

19760123 第4回常置委員会

1.故岩岡道行(正)遺族見舞金募集に関する件

 岩岡道行教師(正・瀬戸内)は、病気治療のため井口信二医師 (正・武雄教会)の許に向かう途中で発作をおこし、急逝された。 (去る9月24日)原因は肝硬炎の悪化による心臓発作だった。伝道上及び経済的に困難を極めた奄美開拓伝道に従事された岩岡教 師にとって教団の退職年金掛金等を規定どおりに払われていなかった事実も後日明らかになった。以上の報告をふまえて協議 の結果、奄美開拓伝道の困難という特殊な事情を勘案して遺族見舞金を募集することを決定した。尚募金は常置委員及び同窓 関係の有志によっておこない、募金趣意書の文章化を宮本信一 (正・唐津教会、同窓生)と入江清弘書記に委託することを決定 した。

4.奄美地区教会自立計画に関する件

(イ)瀬戸内教会に関する件

陪席者雨宮恵奄美地区委員長より岩岡牧師亡きあとの瀬戸内教会の現況報告がなされた。これによると、「現在奄美地区の三 教師(雨宮恵、丸山邦明、森トミ子)及び神学校出身の信徒一名、計4名が礼拝を担当し集会は順調に行われている。しかし、奄 美地区内の上記4名が交替で担当しても非常に負担が重く、是非主任担任教師を招聘したい。ついてはその人権費として教区 から年間100万円の援助を願いたい」というものであった。このことにて協議を行ったが、瀬戸内教会はすでに経済自立のた めの助産所も閉鎖しており、自立計画を十分立て直すことが先決であるとの強い意見もあった。いずれにしろ奄美地区の自立 計画と深い関係があるので、この件を宣教部に委託し、宣教部、財務部、互助委員会の議を経て再度常置委員会の議題として取 り上げ、必要と認められる場合は教区総会の議題とする。以上を決定した。

(ロ)奄美地区センター建設計画に関する件

標記の件について雨宮恵地区委員長より現況報告がなされた。これによると、名瀬教会(148平米)に建坪257.4平米のセンター を建築するため20,000,000円の目標(最初11,000,000円、修正されて15,000,000円、更に修正されて20,000,000円)で募金中 とのことであるこ報告を承認した。(26回総会議案報告37P)

19760713  第2回常置委員会

3.名瀬教会に関する件 

(イ)開拓伝道建築申請承認に関する件

名瀬教会は教団の奄美自立計画の一貫として、すでに一年半前に教区を通して開拓伝道建築援助金300万円を受け取っている。 同教会はこの援金受取の手続き追完のため標記申請を添えて提出している。雨宮牧師の説明によると、旧会堂、牧師館を除去 し会堂、牧師館センターはそれぞれ104,8平方米を新築するというのである。予算は2千万円である。これまでの募金は1500 万円に達している。不足金500万円については教会債を発行し、すでに300万円を得ている。残りの200万円は、今年10月までに 得られる予定である。これを承認た。

19760806 第三回常置委員会  

8.瀬戸内教会に関する件

〔イ〕乳幼児保育についての調査報告、雨宮恵奄美地区委員長は、瀬戸内町における乳幼育の要望についての調査を行った。 これによると同委員長は三回にわたって瀬戸内町に赴いて調査を行った。その内容は次の通りである。

(1)瀬戸内町では、1才〜3才児の保育所申込が多く、零才保育は行っていない。故に乳幼育のニードは大きい。(2)昭和47年 度以降の出生数 47年度209、48年度224、49年度212、50年度1 72、(3)昭和51年4月現在の保育所の申込数232名について措置 数180未措置数52ある。(4)南大島診療所職場保育所のぽっぽの家では、現在5名の零才児を預かっているが、もっと広い他の 場所でこれらの乳幼児を預かってほしいとの要望を持っている。 (5)瀬内町岡保育所主任保母は零才児5名でも10名でもよいから 預かってほしいとの希望を持ている以上の報告を受けて奄美地区では、この調査を基礎に、更に綿密な乳幼児保育の計画を建 ててほしい」と雨宮恵地区委員長に要望した。

(27回議案報告31) 年表

19770704  第1回地区委員長会、

第4回常置委員会 8.

・「瀬戸内教会に対する援助の増額」を雨宮恵地区委員長は申し出ているが、教区で定める謝儀保障の額が援助の上限である 事を確認した。

・奄美伝道20周年記念計画に対する教区の応援が要望されている。協議の結果、教区通信の記事として奄美伝道20周年記念計 画を取り上げることを決定した。

・「教師謝儀基準を決定するのに、これまでは国家公務員の短大卒の俸給に準じて算定していたが、来年度は、国家公務員の 大学卒に俸給に準じて算定してはどうか」との提案があったので、この提案の検討を人事部に委託する事に決

定した。

・教区役員会および人事部が教区人事を扱う場合の機能を明確にし、その結果を教区規則り込むための教区規則変更をしては どうかとの提案があった。この件について継続して検することを申し合わせた。 (28回総会議案・報告29P)

19820127-29 地方教会研究協議会、於別府あらゆり荘

主題「教区・地区に於て協力しあう教会−小教会の宣教の姿勢を探る」講師乃美尚敏、発題奄美・鹿児島・宮崎・佐賀、34名

19830118-20 地方教会研究協議会、於熊本郵便貯金会館

主題「九州教区重点施策の歩みと展望」講師斎藤昭夫、奄美地区、島原教会、香椎教会、八幡西教会、34名 年表

19830131

第2回地区委員長会 、第7回常置委員会報告

C瀬戸内教会が無認可乳幼児保育所のための建物を新築するという自立計画を検討中であるが、この計画を重点施策に指定し てほしい。 (第33回総会議案報告44頁)年表

19830719 第3回常置委員会

16.瀬戸内教会に関する件

(イ)礼拝堂並教育館新築承認申請に関する件

(ロ)教団教会貸出金承認申請に関する件

(第34回総会議案報告28頁)年表

19831122 第5回常置委員会

A1972年に重点施策として奄美3教会に援助している。B奄美開拓特別伝道は、教団総合伝道委員会によって開始されたが、 機構改正によって教団から教区へ移管された経緯がある。検討の上、瀬戸内教会を教区重点施策に指定し、1985年度から450 万円を援助することを決定した。

19850503 第1回臨時常置委員会

11.徳之島伝道所開設承認申請に関する件

森トミ子名瀬教会担任教師は、徳之島伝道所を開設するために標記申請書を関係書類を添えて提出している。それによると森 牧師は1984年7月から徳之島に定住し、すでに活動を開始している。このため名瀬教会は、これまで徳之島伝道にささげられ た献金を森牧師に託している。岸本書記は、標記の件に関して丸山邦明奄美地区委員長と懇談し、奄美地区としては伝道所開 設に同意していることを確認した、と報告した。

検討と協議の結果、徳之島伝道は戦前からメソジスト教会が教会建設を悲願とするなど、歴史的にも懸案となっているが、教 区互助や重点施策の問題を考え、伝道所の経済を考えるとき、当面、名瀬教会の出張伝道地という位置づけを継続することが 望ましい、との意見が多数であった。以上の見解を森牧師と名瀬教会に伝達し、要望することを決定した。

19850723 第2回常置委員会

5.徳之島伝道所開設承認に関する件  

(イ)徳之島伝道所開設承認申請は、前回常置委員会において、名瀬教会の出張伝道地という位置づけを継続することが望まし いとの見解を、名瀬教会に伝えることを決定していた。

(第1回常置委員会記録11.参照)

(ロ)松井敏郎常置委員は、次の通り報告を行った。5月12日雨宮恵二牧師就任式司式のため名瀬教会に赴き、同役員会と懇談し て常置委員会の見解を伝えたが、名瀬教会の森トミ子牧師が徳之島伝道に従事することを強く主張したので献金をゆだねたの であり、出張伝地として維持することは考えていないということであった。また5月13日には奄美地区牧師会にも出席して、 この件に関して協議を行ったが、奄美地区は現在、瀬戸内教会の自立総合計画に協力しているが、それが完了したのちには、 徳之島伝道所について積極的な取り組みをしたいと考えているので、教区においても前向きの姿勢で考えてほしいとのことで あった。

(ハ)田中議長は次の提案を行った。「奄美地区と鹿児島地区は、徳之島伝道のために協力体制を組む意向を表明しているので、 重点施策の謝儀保障などの教区支援体制はとれないけれども両教区並びに教区内有志教会が支援するようにしてはどうか」。 藤原常置委員はこの提案に対して「鹿児島地区は、教区が承認したものであれば積極的に協力体制がとれるし、また丸山奄美 地区委員長も両地区で関わっていくということで進めていってほしいとの意見である」と述べた。

(ニ)田中議長は、徳之島伝道所開設申請に対する承認を求め、挙手による賛成多数でこれを可決し、承認した。なおこの承認 は特例中の特例であること、また賛成しなかった委員もあったことを特に記録に留めることとした。

19850917 第3回臨時常置委員会、於九州キリスト教会館

6.名瀬教会に関する件

(イ)宗教法人日本基督教団名瀬教会設立承認申請に関する件

(ロ)宗教法人日本基督教団名瀬教会規則承認申請に関する件

田中議長は次のとおり報告をおこなった。

名瀬教会は、宗教法人設立のために鹿児島県の指導をうけながら、規則の制定、財産の確認の手続き等を進めているが、事務 手続きの遅れから、申請書提出に至っていない。現在の境内地の大部分は、教会員である個人の名儀になっているが、これは 土地購入時の資金繰りの関係から個人名儀にしたものであるが、実質上は教会所有財産である。この教会員が高齢であるため、 一刻も早く所有権移転の手続きが必要であり、そのために宗教法人設立の手続きが急がれる。また建物(会堂・牧師館)は、今 回の鹿児島県の指導により、雨宮恵二牧師個人名儀の表示登録を行っている。以上について協議を受けて、田中議長は、名瀬 教会の宗教法人設立承認の件を教区役員会に一任することを提案し、これを承認した。

19851001-02 第11回宣教会議、於九州キリスト教会館

主題「80年代後半の教会のあり方−危機的社会の中で−」発題者石原英一他、53名

@伝道 石原英一氏(名瀬教会)も現代という社会はあらゆる所で権力により、偏見によって処分された人間、エパフロデトを 多く生み出しているということ、それは罪を源流として発生しているのだが、罪をこの世のやり方によって処分しても神のみ 旨にかなわない。罪は御言葉によって処分されなければならないのである。教会は人間の処分を受けた者、捨てられた者に神 の解放を告げ知らせること、ここに教会が最も宣べ伝えねばならない使命があると語られた。

(第36回総会議案報告52P)年表

19851112 第4回常置委員会、於九州キリスト教会館

14.名瀬教会に関する件

(イ)宗教法人日本基督教団名瀬教会設立承認申請に関する件

(ロ)宗教法人日本基督教団名瀬教会規則承認申請に関する件

(第36回総会議案報告37P)年表

19870119 第3回地区委員長会

(イ)喜界島に建設計画がある「象のオリ」レーダー基地に対して、反対署名運動の要請があった場合、教区として協力する。

(ロ)宣教部委員の3期以上の自薦他薦をしないことを申し合わせる。 (第37回総会議案報告44P)年表

19870120 第5回常置委員会

15.宣教部報告

(ハ)喜界島の「象のオリ」に対する反対運動を宣教部でも支援していく。

19880125-27 地方教会研究協議会、於喜界第1ホテル

主題「奄美にて−奄美の歴史と現状−」発題丸山邦明、弓削政己、藤原亨、小林健志、43名

今回の協議会は、奄美宣教の歴史と現在を体験することに重点があった。特に、その距離を実感するために、往復船を使った のだが、「奄美を本当に体験するなら瀬戸内教会を会場にしてほしかった」との一牧師の声に、引き続いて応えていきたいと 願う。現場研修としては「象のオリ」建設予定地見学、また建設反対運動を担っておられる農民、市民の方々との交流が特筆 される。その場で共に学んだエラール牧師も「日本にもわれわれと同じ様な問題、貧困、軍事化があってそれとたたかってい る人々に連帯の気持ちを伝えたい」と語られた。郷土史家の弓削氏は、薩摩=ヤマトと琉球から搾取されてきた奄美の歴史を 近世史を中心に語ってくださった。

全体協議ではおもに「連帯」の実質化をめぐって話合われた。藤原氏の発題と同じく連帯をめぐって行われた教団開拓伝道協 議会についての梅崎氏の報告をもとに、互助の問題をからめて、自立、連帯、宣教の視点といった語を鍵としながら議論を展開 した。要は、他者と共に具体的な痛みを引き受けていくことの誠実さの問題ではなかろうか。われわれが実際に奄美に出かけ ることがなければ、決して奄美の「冬」も歴史を生活も、そして宣教にかかわる「ことば」も知る事は出来なかったであろう。 むろん、その知ることは、はじまったばかりであるし、小さなものに過ぎないのではあるが。(第38回総会議案報告63P)年表

2, 奄美伝道発祥に最適の器  丸山邦明  (    )

 神は奄美伝道を始めるに当たり、最もふさわしい器(故福井二郎先生)を用いてくださった。1953年12月25日、奄美大島が日本に復帰した時、日本キリスト教団の総合伝道委員会は、奄美大島への開拓伝道を提唱した。その矢面に立ったのが、九州教区であった。当時、九州教区の伝道委員長であった福井二郎牧師にその課題が与えられた。それで先生は、奄美大島へ献身してくれる牧師をさがしていた。ある日、会堂の教団の隣の部屋で聖書を読みながら祈っている時、聖書使徒行伝第8章26節の御言葉が先生をくぎづけにしてしまったのである。すなわち、主の使いがピリポにむかって言った。「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れ果てている)このみことばは、福井先生に南の奄美大島開拓伝道への神の呼びかけとして迫ってきたのである。そしてこの呼びかけは、奄美伝道への決意を決定的なものとさせたのである。

 この事実を見るだけでも、まさしく奄美伝道は神のみわざの発祥であったと言えよう。しかし、この伝道を実現するにあたっては、大変なご苦労があったことが、当時の資料を読んで知らされた。

今でこそ、あまみ丸(1,500トン)、フェリー喜界(3,000トン)の客船が名瀬・喜界間を2時間30分で航行しているが、当時は百トンもないポンポン船が、名瀬・喜界間を6時間以上もかかって通っていた。しかも船客室の端から端までころげ回るほどの揺れようで、生きた心地もしないものであった。

当時、初めて視察に行った福井牧師と志水牧師(当時鹿児島教会牧師)は、グロッキーになり、奄美伝道の不可能さを身にしみて体験しておられる。

しかし、神は、そのような中に、一つだけ逃れ場を残しておられた。それは福井、志水両牧師が最後に訪れた、奄美大島の北端に位置する、離れ小島、喜界島にキリストを信じ祈っていた10数名の群れがあったのである。福井二郎牧師とこの祈りの群れとの出会いは、奄美伝道を始めるにあたっての決定的な土台となった。先生は、この神の配慮を確かなものとして受けとめ、奄美伝道への再確認をしておられる。

その後、日本キリスト教団の綜合伝道委員会において、奄美大島の開拓伝道にツいての視察の報告がなされた時、その席上、福井牧師は奄美伝道を喜界島から始める旨報告したところ、ある委員から、奄美大島の中心地は名瀬市である。したがって、奄美伝道は名瀬から開始すべきではないか、という意見が出された。その時、福井牧師はしゃれっけたっぷりに、「なぜ名瀬から始めなければいけないのか、私は奄美の現地を見てその方が最もふさわしいと決めたのだ」と語ったのである。

  人間は地理的条件や、客観的な状況等を考慮してことを始めようとするしかし、神は神の方法をもってことを進めていかれる。「人の心には多くの計画がある。しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21)

まさにその通りで、奄美伝道は地道に着々と前進していった。その後、奄美の南の中心地瀬戸内の古仁屋に栄英彦牧師(現・麻布教会)、奄美大島の中心地名瀬市に雨宮恵牧師が派遣され、布石がなされた。その後20数年の歳月が流れているが、その間、名瀬教会は、当初より雨宮牧師孤軍奮闘、27年の間、今日に至るまで伝道牧会を続け、副牧師としては工藤嘉弘牧師(現在・福島荒井教会)、森トミ子牧師、石原英一牧師等が協力牧師として活躍しておられる。

 瀬戸内教会は、栄英彦牧師を皮切りに、故岩岡道行牧師(瀬戸内教会在任中に召天)、それから現在の佐藤駿一郎牧師とバトンがタッチされ、その伝道の困難さを物語っている。

 喜界教会は、福井二郎牧師や小久保達之祐牧師の後を受けて、淵江淳一牧師(現在・東小金井教会)、東俊郎牧師(現在・日出教会)、現在の丸山牧師とバトンがつがれている。今思うに、福井二郎牧師は、いろんな意味で奄美伝道のよき土台と布石をしてくださっていたことに深く感謝をせざるを得ない。

今日、奄美伝道は、それぞれの教会が島における重要な役割を果たしつつ、その町に無くてはならない存在となりつつある。ちなみに、名瀬教会は、島には多くの孤独な寝たきり老人がいることに痛みをおぼえ、島のニードに応えるべく、特別養護老人ホーム「佳南園」を建設いたし奉仕しており、島のみなさんにたいへん喜ばれている。また教会の働きが信頼を受けて、名瀬市の保育所の委託を受け、そのご奉仕にもあたっている。カトリックの地盤の強固な名瀬市の中で、見事に実力を発揮した働きを展開している。

喜界教会は、当初福井二郎先生の頃は、喜界島の山の手にある大朝戸集落を中心として、伝道・牧会がなされていたが、その頃から、福井先生は喜界島伝道の将来を見通してか、喜界島の中心地、湾集落の一等地(その頃は薮でみんなからいやがられていた土地)に、400坪の土地を購入されていた。現在では、この湾集落にある教会が大きく成長し、1982年から1983年の2ケ年の間に、40数名の受洗者を出すという、ある意味でのリバイバル的進展をみたのである。喜界教会の創立者、故磐井静治先生(レーマン)の胸像の背後に祈りが刻みこまれてあり、「この島をして、世界の聖地ならしめ給え」という祈りがささげられている。まさに、この祈りこそ、現在の喜界教会のまぼろしなのであり、この祈りを深め、さらに伝道の前進を願っているのである。大朝戸の集落では、毎年、大朝戸集落のクリスマス礼拝がおこなわれ、集落のほとんどの方々がこの礼拝に参加している。いつかは、喜界島全島へのクリスマス礼拝の呼びかけがなされるよう、その礼拝が実現するよう祈っている。

 現在では、伝道範囲も広まっており、喜界教会は湾の集落を中心として、中里、荒木、手久津久、上嘉鉄、浦原と拡張されつつある。しかも丸山牧師は、文化協会長として、島の中枢部に入りこみ、島の問題をともににないながら活動している。そういう意味でも、今、喜界教会は、島にとってなくてはならない存在として活動している。

 瀬戸内教会は、現在ご苦労の多い教会であり、数名の信徒しかおらず、佐藤牧師が一生懸命頑張っておられる。しかし、神は、この一番ご苦労の多い中で心血を注いで伝道しておられる佐藤牧師を中心として熱心に祈り求めている小さき群れに目をとめられたのである。そこで今、奄美の教会は一致団結して、この瀬戸内教会の自立と伝道の母体を築くべく、乳児院と会堂建設に取り組んでいる。総予算3,200万円。この予算は現在の瀬戸内教会にとっては重荷であり、まさに主のお助けなしにはどうしようもない、ある意味での奇跡的なわざである。

しかし、不思議をなしたもう神は、小さき群れの熱心な祈りに応えられ、神みずからのわざを、人間的には不可能と思えるところに、あらわしつつあるのである。まず鹿児島地区のこのわざに対する取り組みが、まさにそのことを証明している。1983年6月27日、鹿児島地区の牧師8名が瀬戸内教会の視察に訪れ、奄美地区の教師との交換教師会を28日に持ち、瀬戸内教会に対する関心の深さを示してくれた。とくに鹿児島城南教会の藤原亨牧師と教会の腰の入れようは並大抵のものではなく、婦人会のみなさんが訪れ、藤原牧師は何度も足を運び、祈りと具体的援助に力を入れている。またおなじように鹿児島地区の牧師、教会もものすごい熱の入れようで、現在、鹿児島地区の教会が献げている献金は、257万5,934円となっており、各々の教会が何十万円単位で献金している。ちなみに奄美の喜界教会と名瀬教会は、各百万円を献金することを決意した。

主は必ずご自分の計画を完成してくださることを信じて疑わない。このみ業が完成した暁には、瀬戸内教会も、奄美大島の南の砦としてなくてはならない教会として、立派にその役割を果たしていく存在となるにちがいない。このような斬新的な計画が進められためにも、土地が必要だったのであり、その土地も、福井先生が当時、田んぼであった土地を3百坪以上を手に入れていたのである。それが現在では一等地となり、県立古仁屋高等学校正門に面する大きな道路添いにある土地となったのである。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私達は知っている」(ロマ8:28) まさにみことばの通りにして下さったことを心から感謝せずらはいられない。

このようにして、福井二郎先生が布石された石は、それぞれに要石となって、活躍をしており、さらに前進しつつあることを感謝する次第である。

 そこで思うに、奄美伝道の土台には聖書の御言葉を押し出され。祈りと神への従順があったということ、また聖霊によって祈って将来へのまぼろしをもって、地道にねばり強く、神の時を信じて、10年20年単位で島の伝道に励んできた牧師とその群れの勝利であることを思わずにはおられない。

福井二郎牧師はまさにこの奄美伝道の発祥と布石において、大きく神に用いられたすばらしい使徒であったと言えよう。今後、奄美伝道も、この信仰と布石を地盤として、さらに、奄美全島への伝道の幻を大きく展開していく時期であると思う。しかし、そのためにも背後の祈りがいかに必要であるかを痛切に思う。どうぞ、日本の最南端にある奄美の伝道を覚えて祈ってほしい。(喜界教会牧師)
 

3, 谷川教会の献堂式   谷川教会献堂記念文集    年 月 日 

 国立療養所(ハンセン病)奄美和光園谷川教会(後の為名瀬教会和光伝道所)

目 次

献堂式々順  司式 日本基督教団名瀬教会牧師 雨宮 恵 

司会 谷川集会会長  林 緑峯

前   奏 曙教会  二宮鐘秋

頌   栄   539番 一  同

主 の 祈 〃

経過 報告 谷川集会 千葉 静

感 謝 状 馬場迫組殿 好善社より

聖   書 エペソ人への手紙2章11-22 林 緑峯

祈 祷  〃

さんびか 216番 一  同

あいさつ 好善社理事長 藤原偉作

献堂の辞 名瀬教会牧師 雨宮 恵

祈   祷 〃

さんびか 210番 一  同

祝 辞 奄美和光園長 大西基四夫

名瀬教会代表 南 泰光

入園者代表 藤山富重

宗教代表 佐々木良夫

友園教会代表 小倉兼治

祝   電 谷川集会 宝山治代献   品 オルガン(目録)岡山蕃山町教会婦人会並に療養所教会内外有志

謝   辞 林 緑峯

頌   栄 541番 一  同

祝   祷 雨宮 恵

後 奏 二宮鐘秋

経過報告 谷川集会 千葉 静  

 昭和23年9月20日、本土からの戦後引揚者、107名が和光園に到着しました時に、川の土手は竹薮でふさがれた薮の中でした。園内にには集会の出来る建物もなく、15畳の部屋に12名も収容されるすし詰め生活でした。和光園にきまして初めての日曜日を迎えた日、数人の教友がいるのに、信仰を離れない為にどうしたらよいかと考えましたが、聖書と讃美歌以外には何物もない和光園で占領下にあって本土との交通も制限されて勉強の手がかりもない状態では、日曜日に集まって聖書を読み、共に祈りをして帰るだけが精いっぱいの歩みでした。

 最初の集会は不自由舎の一室でしましたが、この集会に飛び込んできました一人の姉妹が、これからは自分の家で集会をしようと申しでましたので、その後31年の1月迄7年余この家で集会を続けました。それ以後も個人の家で集会を続けて今日の至り、17年3カ月の歩みを続けたわけであります。

 昭和28年12月25日、それは20万郡民が断食の祈りを献げた待望の日、8年間の米軍占領を解かれて祖国復帰が実現しました。翌29年各宗派代表の方が奄美視察に来られ多くの牧師が和光園を訪れました。昭和30年には福井二郎牧師が奄美伝道に来られ、一年に何度かお尋ね下さいました。

 昭和33年から、雨宮恵牧師が名瀬教会で伝道にあたり、月二回定期に礼拝を持つようになりました。牧師の集会には公会堂を使用しましたが、公会堂が園内公共の使用の場合は、野外の樹下で、盲人会館で、学園教室で集まりましたが、子どもの机や腰掛けで大人が座るのは窮屈で不自由な集会でした。

 昭和36年4月30日に、初めて好善社の藤原先生をお迎えしましたが、翌37年11月下旬、ライ園キリスト者会議が光明園家族教会に於いて、好善社の支援によって催されました時、会堂のない所に会堂を建てるように支援してはとの議が提案され、真剣に考慮する時期に至りました。

 昭和38年1月、私達は会堂資金の献金を初め、6月には藤原先生が来援されたので、この事を相談しました。この頃より友園教会の諸兄姉は会堂献金を送って私達を激励してくれました。

 昭和39年の6月に会堂建設の援助方を好善社へ書面で要請し、12月には40年度の事業計画に取り上げてくださるように要請しました。40年3月に藤原先生が会堂建築の打ち合わせの為に来園され、更に6月にご来園の際は平面図を提示されて設計から施工一切を園長に委託され、280万円の予算で計画が進められました。途中設計の都合で工費不足との事で好善社に処置方を連絡しましたが、工費追加をご承諾され、9月4日289万5千円で馬場迫組が請負落札し、いよいよ着工の段階に至りました。9月8日着工され、9月15日暴風警報の中で藤原先生司式、雨宮牧師司会の下に、多数の来賓を迎えて定礎式が行われました。

10月3,4,5日に、ブロック積みを終わり、10月23,24,25日に屋根のコンクリートを打あげ、11月1日に屋根の防水モルタルがなされ、建物の形が整いました。馬場迫組の精勤と、秋晴れの好天に恵まれて今日予定通り献堂式を行う事が出来るようになりました。皆さま多数のご臨席を頂き盛大な献堂式を行うことができまして感謝です。好善社初め全国療園教会の皆さま、全日本キリスト教界に於ける祈りと献金に感謝して経過報告を終わります。
 
 
 

4, 奄美地区伝道20周年を迎えて  

本土鹿児島から4百キロの南海に、台風と暑熱とハブの島で知られる奄美の島々が点在している。奄美大島への伝道は、奄美の本土復帰を記念して教団が1959年4月に開始された。今年秋、奄美伝道20周年を記念して、特別企画による集中伝道が計画されている。1958年以来、満19年この島に住み着き、伝道の重荷に耐え、この喜びと感謝の時を迎えようとしておられる雨宮恵牧師に、経過と今後の展望を記していただいた。

 もうあれから20年もたった。奄美の本土復帰記念にと教団が作定した奄美大島特別開拓伝道は、1956年(S31)に開始された。福井二郎という極めてユニークな伝道者の特異な献身によって、この伝道はかなり本島の多くの教会に覚えられ、援助者も広範にわたった。福井先生は夜を日に継いで、先生の伝道の根拠地喜界島と奄美本島を往き来しては伝道の版図を拡大していった。また、年に2ヶ月間位を本土行脚に費し、奄美伝道のPRにあたられた。

 この間、次々に献身者が与えられ、瀬戸内町古仁屋に東神大卒の栄英彦が、奄美の中心地名瀬市には大分県豊後高田教会より雨宮恵が、更に奄美伝道発祥の地喜界島に東神大卒の小久保達之祐が各々配された。当時福井先生がまだ50数才、雨宮は30才台、栄、小久保両師は25,6才の若さだったわけである。奄美伝道最初のメンバーのうちで、雨宮のみがまだ奄美にへばりついているのだが、とうとう50才を超えてしまった。髪の毛も少々薄くなり、読書には眼鏡が必要となった。時日の経過を物語っている。

 さて当初献身の4人のうち、先ず栄英彦師が1963年(S36)夏、札幌市郊外の開拓伝道に転身、続いてよもや奄美から離れる事はあるまいと思われた福井二郎先生がいきなり東京に転出、小久保師も後を追うように米国留学に旅立った。各々の教会の後任には、岩岡道行師(瀬戸内教会)、東俊郎師(喜界教会)が着任したものの1963年(S38)から同65年頃までは、奄美伝道は落ちつけぬ不安定な状態におかれたのである。しかしまた、この期間に奄美諸教会の自立計画が立案され、不安定な中にも希望がほの見えてきたのも事実である。1969年(S44)には東俊郎師が別府野口教会に転ぜられ、後任に丸山邦明師が伊丹教会より迎えられた。更に、悲しい事に10数年労苦を共にした岩岡道行師が1975年(S50)9月24日疲労困憊の体を転地療養によって癒さんと療養地に向かう途中、離陸寸前の機内で突如他界されたのである。奄美伝道に関わる犠牲者の最初であった。丁度一年後、秋田花輪教会より九州出身の佐藤駿一郎師を迎える事が出来、瀬戸内教会はきびしい再建の道を歩み始めているのである。この外、名瀬教会に現在森トミ子、石原英一の両師が就任しておられる 。森師は1974年(S48)来名瀬教会担任教師として仕えられ、石原師は信徒伝道者としてそれ以前から療養所内の伝道につくして来られた。本年5月、森師が按手礼を、石原師が准允を領され、奄美伝道の推進力は倍加した感がある。

さて、こうした奄美伝道満20年の経緯をふまえて、今後の地区の歩みと奄美伝道の課題を私なりに幾つかを記してみたいと思う。

 その一つは、奄美特有の風土についてである。それは全く本土のそれとは異なるリズムやテンポを有していると思うのだが、これをどのように受けとめたらよいのであろうか。此処は矢張り本土とは肌合い、生き方の相違があり、生活のテンポやリズムはかなり本土と違うように思うのである。このテンポやリズムの違いを無視して、あのせっかちな本土的リズムやテンポを押しつけ、与え、教え、導こうとするならば、島々はそっぽを向いてしまうに違いないのである。

 今ここで具体的に南島的な生活のテンポ、リズムについて述べる紙面を持たないが。いずれ紙面を改めて書いてみたいと思っている。要するに、此処南の方に私共が忘れかけている正常な人生のテンポやリズムが息づいているのではなかろうか。33回転のLP盤を45回転、72回転でまわして、なお正常だと思いこんでいる私共に、この南の島は、正常なリズムが私共の思わざるところにあることを示してくれているのではあるまいか。そして何よりも、聖書の持つ生命のリズムを正しく伝えるために、私共は正しい作業をしているのであろうかと自らを顧みる時、余りにも私共の状態はせっかちで回転が早過ぎるように思えるのである。そして何と自己のリズムやテンポだけを押しつけていることかと思わされるのである。

 この南島に一つの生活のリズムがあり私共を正すテンポがあることを知ってほしいと思うのである。沖縄の作家大城立裕氏の「これからの日本には一(ワン)テンポのおくれが案外財産になるのではないか」との言葉を、私共伝道に携わるものこそが味わってみなければなるまいと思わされている。

 次に、私共は、たいへん熱心に、気負うて「ひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩いて来たのである」(マタイ23:15)が、私はこの伝統的な正統的な伝道姿勢について、あらためて考えさせられているものである。私共が依然として、島々に対して、教勢拡張、教化を旨として、与え、教え、導くという与える側の立場ばかりを強調するならば、「島々はいっそう貧血な余計者の顔付きをあらわす」(島尾敏雄)に相違ないのである。私共は「主は富んでおられたが、あなたがたのために貧しくなられた」(2コリント8:9)とのみ言葉の証人となって仕えていく。そこに私共の生くべき道があるように思うのである。そう言う意味では、奄美伝道の姿勢は変えられてきたと言ってよい。あの苛酷な下積みの歴史を少しでも教会は担おうとしてきた。それは小さい仕事ではあるが、かつて戦前、戦中、戦後を通じて、最も悲惨な奄美の歴史の一端を担って、今、不幸にして寝たきりの余生を送っている人々と連帯して生きていこうと始まった寝たきり老人ホームの業を通してである。この業は、奄美、沖縄に少しずつ拡大している。島のいくつかの園が、小さい私 共の働きを模倣して仕事をしたいとこのホームを訪ねて来られる。何も持たない私であるが、この5月来、島に15ほどある社会福祉施設の横の連絡期間である奄美群島社会福祉施設連絡協議会の会長にまつりあげられてしまったのである。私は奄美に仕える道を新たに与えられたと思っている。もう一例を述べておきたい。本年教区総会の折、特に紹介させいいただいた石原英一先生のことであるが、先生は今日も和光園という奄美の療養所に身を置いておられる。先生は特殊な病気の体験者として、人生の深みから私共に痛烈に迫る説教を語って下さる貴重な存在である。

 けれども先生がどんなに声をあげ御言葉を語ろうとも同病者には余りピンと来ないようなのである。そこでは、共に苦しみ、共に泣き、共に生きるという在り方だけが、真実な主の証となるわけで、もっと弱い病友の杖となり、力となって共に歩んでいく、この、体で語ることだけが理解への道を拓くと言ってよいのだろう。

 30年ぶりに教区総会の場で、石原英一と本名で呼ばれて戸惑ったと率直な気持ちを表されたが、帰島して今度は御夫人も会衆の前で、私も今後石原治代と呼んで下さいと公言されたのである。そしてこのような姿勢が、この度、単立谷川教会を改め、名瀬教会和光伝道所と名称変更に及び、16名の会員が名瀬教会員名簿に共に名を連ねるに至らしめたのである。名瀬教会は今や、病める方々、寝たきりの老人を含んで支え合いながら生きる教会として成長を遂げてきたのである。また、奄美地区の諸教会は共に助け合わなければ生きられぬ教会として互助体制を確立するまでに成長してきた。然しなお足らぬことのみである。見えない点、届かないところを凝視しながら、主の付託に応えたいと思うのみである。今なお奄美は、「日本の中の異土であり、貧しい付加的な荷厄介な場所」でしかないが、この奄美に、イエス・キリストを見据えることこそ、私共の課題だと思うのである。 (名瀬教会 雨宮恵) 19770901 九州教区通信(98号)

5, 発題 「奄美大島開拓伝道と現在の課題」  

−離島伝道の場合− 丸山邦明

 開拓伝道当初の状況

奄美大島の開拓伝道は1953年12月25日、奄美大島が日本に復帰した時、当時の日本基督教団総合伝道委員会において、奄美大島への開拓伝道が提唱された。奄美大島は九州教区の管轄ですので、その責任を九州教区に依頼した。当時、九州教区の伝道委員長であった福井二郎牧師は、九州教区の中に奄美伝道への献身者を募ったが希望者がいなかった。ある日、福井二郎牧師が、門司教会の教壇の隣の部屋で、聖書を読み祈っていた時、使徒行伝の8章26節、「主の使がピリポにむかって言った『立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい』(このガザは今は荒れ果てている)」。このみことばが、福井先生への南の奄美大島開拓伝道への神の呼びかけとして受けとめられたのである。1956年3月14日、福井牧師と鹿児島教会牧師志水芳夫先生が、奄美大島開拓伝道について視察のために遣わされている。

 当時は、鹿児島から船で約20時間、名瀬から徳之島、沖之永良部、与論島と鹿児島をたってから5日間を船の上で過ごしたのである。その間、海が荒れ船に揺られ、へとへとにつかれながら現地を視察し、名瀬に戻った時には、ぐったりとなり、奄美伝道の困難さを痛感されたようである。

そして最後に行った場所が喜界島で、そこには5,6名の信徒の方々が先生方を迎えてくれた。そして大朝戸集落に行って、20名たらずの人々の祈りの時を持った。この時、福井牧師は、神はこの所に、このような人々を備えてくださっていた。まさにアドナイ・エレで、奄美伝道はここから始めようと決意されたとこのことである。

その後、奄美大島の開拓伝道についての視察の報告が、日本基督教団の総合伝道委員会においてなされた時、その席上福井牧師は、奄美の伝道を喜界島から始める旨報告したところ、ある委員から、奄美大島の中心地は名瀬(なぜ)市である。したがって奄美伝道は名瀬から始めるべきではないかという意見が出されたとのことであるが、その時、福井牧師は「なぜ名瀬から始めなければならないのか、私は奄美の現地を見て、その方が最も良いと決めたのだ」と語ったということである。

 このようにして、日本基督教団の奄美伝道は、喜界島から始められ、瀬戸内、名瀬、現在では徳之島へと布石がなされていった。

 奄美の開拓伝道は、教壇の伝道委員会がバックボーンとなって行われ、10年間は教団の責任において保障を行い、年間20万円の資金援助が各教会に行われていた。そして10年間の資金援助が各教会に行われていた。そして10年間の資金援助が終わった段階において、教団は奄美伝道を九州教区に委譲しようとしてきた。しかし、九州教区においては、奄美伝道は教団が始めたことであるから、教団が最後まで責任をもってほしいとの要望を行いしばらくもめていたようであるが、結局、九州教区に委譲された。そこで九州教区としては資金がなかったことから、奄美の教会は、1968年頃から、経済的意味における教会の自立体制を計ることが急務となり、5年計画で援助を削減しつつ教会の自立体制が余儀なくさけていった。

  奄美教会の自立計画

(A)瀬戸内教会 (故岩岡道行牧師)  

 奄美において、いちばん最初に自立したのは瀬戸内教会である。それは岩岡牧師夫人が助産婦の資格をもっていたために、自立計画の柱に助産所(ベテスダ)を建設し、当時地域の人々に大変喜ばれ大成功であった。しかしこの自立体制には問題があり、岩岡先生の時代で断ち切れになっている。現在は、佐藤駿一郎牧師のもとで、奄美地区・鹿児島地区が連帯して、全国の教会に呼びかけ、自立計画がなされ、1984年7月3日、瀬戸内教会会堂及び乳児院(4千万円)の献堂式が執行され、南の砦としての自立体制が整えられつつある。

(B)名瀬教会 (雨宮恵、森トミ子、石原英一、現在、雨宮恵二、各牧師)

 名瀬教会の自立体制は大変困難を強いられた。しかし、雨宮牧師が日頃、民生委員、保護士等を通して市民にあつく信頼され良き働きをしていたことから、ちょうど折りも折り、名瀬市の経営する伊津部保育所の経営を名瀬教会に委譲して欲しいとの市よりの話が持ち上がり、雨宮牧師が保育所長として働く運びとなり、1972年4月5日伊津部保育所の開所式が行われた。この頃から何とか市民のニートドに応える奉仕を行いたいとの願いから、当時は寝たきり老人が多く大変困っていたことから、雨宮牧師は聖隷事業団の長谷川保氏と相談して、名瀬市に特別養護老人ホームを建設し、何とか島のニードに応えるべく取り組んだ。幸いなことに市からの土地の提供もあり、その後、1974年奄美佳南園開園、雨宮牧師は保育所を辞して、奄美佳南園園長に就任し、経済的自立体制は整えられていった。1976年11月28日、教会献堂式も行われ順調な歩みとなった。

(C)喜界教会 (丸山牧師)  

 喜界教会の自立計画は、最初「和牛放牧」の計画が立案され、教会員の豊原満照氏を中心に、その計画がすすめられることになった。しかし、何しろ相手が生きものだけに、病気や死亡等の恐れが伴い、計画倒れとなった。そのうち、喜界町の方で駐車場が無く困っているという町の広報により、教会の200坪の土地を整備し、1979年喜界町湾(現在の教会所在地)の方に、駐車場を建設し、最初は、役場と町民で半々の割で貸付をおこなった。駐車料は車庫一台2千円(12台)、青空一台千円として、その収入により何とか自立体制を整える見通しができていった。やがて、町役場と交渉し、駐車場全部を一括して役場に貸しつけ、一ケ月34,200園、年間410,400円の収入を得て、自立体制を整え今日に至っている。(しかし、現在は「象のオリ」建設反対を推進しているため、駐車場の収入は0になった)

(D)徳之島伝道所  (森トミ子牧師)  

 名瀬教会の開拓地として、徳之島にも教会をという願いをもって、長い間、牧師が交替で月に一回〜二回づつ礼拝をもっていた。そして、そのために献金が捧げられ、500万円の献金が貯えられ、徳之島伝道資金となった。1984年7月5日、名瀬教会は徳之島の開拓伝道に森トミ子牧師を派遣した。その後、名瀬教会は、徳之島を奄美地区の議題として取り組む旨の申し出を行った。そこで、奄美地区は鹿児島地区に呼びかけ、鹿児島地区との連帯のもとに、この課題を検討すべく、合同の教師会を持ち、指宿「秀水園」にて、「徳之島伝道設立に関する件」について、1986年9月9日、協議を行ったのである。その結果、徳之島伝道を両地区の課題として取り組み、地区に働きかけると同時に、全国の教会にも呼びかけることとなった。1986年10月23日、九州教区の承認を得て、徳之島伝道所開所式を執行、集まった30名程のものが、新しい決意のもとに、徳之島伝道を支え合うことを祈りあった。名瀬教会の石原英一牧師が、徳之島伝道会計の窓口となり、募金を行っている。今後とも宜しくお願いする次第である。

 「象のオリ」建設に反対して  

 防衛庁は、現在喜界島にある自衛隊通信所が古くなったという理由だけで、なんとしても、核戦争につらなる「象のオリ」(巨大円型受信通信基地)を建設する計画をすすめ、防衛施設局の職員を喜界島に常駐させ、30万平米もの広大な土地を買収する計画で、防衛施設局の名で地主に贈答品を配ったり、札束攻勢で土地の値段を当初は40万円だったのを60万円につりあげ、しかも地主たちが、なかなか土地を売らないとなると、今度は耕地の年間の借地料を一反1万円の標準価格を14万円にハネ上げる等として、地主の方々の懐柔作戦をし烈に行っている。

そこで、喜界島の豊かな自然と平和を守る町民会議並びに赤連農地を守る会および、奄美の美しい自然と平和を守る郡民会議が一致団結してね10月17日、「象のオリ」建設反対第2回町民大会を開催した。大会に於いては、午後4時より、“うやふじ(祖先)から受け継いだ土地は一坪たりとも売らないぞ”“一坪たりとも貸さないぞ”のシュプレヒコールでもってデモ行進を行い、5時30分より第2回町民大会を挙行した。大海は第1回大会の三倍の450名の参加者を得て、熱気あふるる盛大な集会となった。大会はまず、喜界島の豊かな自然と平和を守る町民会議議長の挨拶を皮切りに、多くの方々の力強い励ましのあいさつがなされ、最後に、地主を代表して、「象のオリ」建設予定地中心部に広大な農地を持つ、東郷茂雄兄があいさつに立ち、沖縄戦の苦い経験にふれながら、「子ども達のためにも戦争に加担しない、自衛隊の愛国心は、権力にとっての愛国心だが、私達の愛国心は、この美しい島を守ること」と、力強く決意を表明、さかんな拍手を浴びたのである。

今後とも長期の戦いと、戦いのための多大な資金が必要である。教団の教会の皆さま方の切なる祈りとご支援をよろしくお願いする次第である。(喜界教会牧師)

6, 瀬戸内教会 (重点施策教会報告より)

1983年度  重点施策教会報告  

瀬戸内教会

 瀬戸内というところは、着任当初は全く外国に来た感じで、言語・生活様式・宗教が全く違った所といった印象をぬぐいえなかった。それほど内地的発想でやって来てもその前理解が全く的はずれとなり、一度はどうしたらよいのか全く愛想をつかしてしまう感が深い。こうして一度は全くわからなくなり、伝道のつかまえ所がなくなって、とにかくこの地に住むことからやりなおさなければ無理であった。省みると、ここでとにかく26年前に奄美本土復帰という一般的な考えで宣教の出発が当時の教団の綜合伝道委員会によってなされたのである。ゼロから出発した初代牧師(本土の感覚をもって)はどんなに大変であっただろう。

1957年から62年6月まで満5年で精いっぱいであったのだろうと思われるほどである。次代牧師は何とかこの地に慣れ親しむことにひたすら努めて13年、その間奥さんのなさった助産所を通して経済的独立は計られたが、なかなか福音が根づきにくく、ついに礼拝が不可能な状況の中で病に倒れてしまわれた。その後は、月2回の午後の集会を地区の教師が交替で続けて数名の集会を守った。その一年後に三代目の牧師を迎えたが、何とか礼拝を中心とした教会形成の再出発を願って毎週礼拝を朝行うことにした。しかし始めはこの島の人にとってはなじめない時間帯であったろう。とにかく朝礼拝を中心にして6年目位にやっと司会者を与えられ、祈祷会に1,2名牧師家族の他に出席するようになった。8年目を迎え痛感するのはこの地に福音が根づき、芽を自発的に出し、み言葉の実を結ぶにいたるのは何といっても本格的な長期的宣教態勢を確立することによって徐々にこの地の異教性を克服していく以外に道はないことである。着任当初から教区に示唆されていたのは、この地に乳児施設を認可施設にすることによって自立の方向を見いだすことであった。そこ で4年位、毎年、町の計画の中にいれてもらって県へ申請したがなかなか実施できなかった。それに町の消極的な姿勢と、また町立保育園2ケ所、町立幼稚園、カトリック系幼稚園各1ケ所がある中で、もう1ケ所の認可施設は難しい現実のあることが、教区と九州社会福祉事業団理事の多田先生らの現地調査で明らかになった。そこて、今日のような教会独自による教育館として日曜日はCS、週日は町民の実際のニードがある乳児保育を進める事になった。ここでもう一つ大切なことがあった。

 それは長期的宣教計画を経てる際に2回も都市計画で移転し、痛みもひどく、しかも13坪の会堂では小さすぎて冠婚葬祭時に無理があった。かつて瀬戸内出身の方の母上の葬儀の際にカトリックの会堂を借りてやったことがあり、これが町の人々に信頼感を持たせない一つになっているのではないかと思われていた。そういう意味でも教会としての働きを十分果たせる会堂を望む声が信徒の間から切実に生まれていったのである。そこでついに臨時総会で、この際、一階を教育館として二階に礼拝堂をという計画が決議されるに至った。又、この為に地区でこれを取り上げ、瀬戸内教会自立総合計画の地区実行委員会を作ってくださったことは会員への大きな力となり意欲を与えた。これに鹿児島地区が前面的に応援してくださり、早速全員で現地調査に来て下さった。

このあたりから実現への動きは益々本格的なものとなっていき、1983年の教区総会前に藤原先生のご協力で募金趣意書を作成し、総会席上でお配りでき、又、奄美地区実行委員長の皆さんの前で訴える機械を与えられました。この後、すぐ全国募金の趣意書発送を教会員で6月中に終わり、徐々に応答が与えられ、会員一同意欲を高めていった。又、申請中の教区重点施策援助もご理解をいただき、8月宣教部委員長の現地調査を得て11月に常置委員会の承認を得450万を1985-88年迄に援助されることが議案となる旨知らせをいただき、やっと12月着工の見通しがつき11月29日に起工式を行いまして、12月には予備工事として運動場確保のための牧師館移転を行い、1月から本工事に入った次第で3月上旬には外枠工事を終わり、1階のコンクリート打ち込みも間近になった頃8日に教団より開拓伝道援助申請していた300万の内、200万が決定した旨連絡を受けこれで資金計画の外枠が決まり、深い感謝をこめてこれから工事一切の見通しをつける段階を与えられた次第です。

以下は資金計画です。

@資金計画  

教会員 13,000,000円

地区(名瀬・喜界応援) 2,000,000円

鹿児島地区(応援) 6,000,000円

九州教区(重点施策援助) 4,500,000円

教団援助金 2,000,000円

諸教会援助 5,000,000円

瀬戸内住民(献金)  500,000円 

借入金(教団・教区) 3,000,000円

合  計 36,000,000円

報告 佐藤駿一郎

(第34回教区総会議案・報告84頁)

1984年度  重点施策教会報告

瀬戸内教会

 昨年は瀬戸内教会の長期宣教態勢確立のために計画された礼拝堂、教育館建築にいたるまでの経過報告をお伝えいたしましたが、今年は深い主の恵みと皆さん方の物心両面にわたるご加祷、ご支援により、人知をはるかにこえて建築着工、完成、献堂そして今日にいたるまでのことをお伝えしてご報告に代えさせていただきます。

 昨年総会時には建築は計画に従って着工中でしたが、その後建築献金の方も順調に進み、6月には、13,605,705円となり、6月始めには本工事を完成し、6日には乳幼児センターの使用を開始し、10日ペンテコステ主日より教会の礼拝を新会堂で始めることになりました。尚6月一杯で外塀、駐車場、案内板など一切を完成し、7月3日に新会堂で献堂式を行いました。この奄美の南端の異教的性格のつよい困難な地に宣教の砦が築かれたことを覚え鹿児島地区全教会の方々20名、奄美地区より10名の兄姉、そして教会関係、乳幼児センター父兄、地域住民の方々合わせて約30名、総計60数名の方々の出席をえて雨宮牧師司式、丸山地区委員長式辞、佐藤牧師現地経過報告。教区代表棟居先生の祝辞、鹿児島地区委員長、及び奄美地区よりの祝辞をいただき、たいへん充実した献堂式を行い、この建物を主の宣教の業のために多くの承認の前で献げることができました。その後感謝会、夜も乳幼児センター父兄のための祝会をもち、次の日4日には記念講演会を瀬戸内町出身の丸山牧師を迎えて「生きる力」と題して、会衆に深い福音の訴えをしていただきました。そ の中から長欠会員の復帰なども与えられて会員一同深く感謝しています。会計の方は7月初めに300万その他を教会債で支払を完了し、その後はこの借入金、教会債返済に向けて教会予約献金、及び諸献金をあてていく歩みが始まりました。

乳幼児センターの方も段々充実して20-30数名にまで達し、運営の方も順調で段々今まで教会の援助金としていただいていた名瀬教会及び喜界教会分計30,000円と更に鹿児島城南教会及び長崎平和記念教会分計約40,000円、総計70,000円程を建築献金返済の方にまわすことを役員会で決断し、その分56,000円程を園長給として園より教会に入れることにして少しでも自立体制を整えていくことにしています。尚乳幼児センターは園児がふえて来れば(40名定員 年長児を入れて)、少しずつ建築献金にまわせるかと思いますが乳幼児は年度初めに定員に達するとは限らず卒園児はあるので年度初めに一時人数が減るので年間で均衡を保っていかなければならない実情です。又昨年は初めて新会堂で乳幼児センター父兄もいれて30数名で降誕祭を祝い、キャロリングで町にクリスマスの喜びをたづさえて出ることができました。今年になって建築献金も累計が19,866,928円となり、(教会員の予約献金と奄美地区鹿児島地区の定期または有志の献金、その他の方々のご献金により)既に150万の教団借入金も全部返済でき、教区借入金も今年度分762,500円も返済でき感謝で 一杯です。残る返済金は総額14,150,000円ですが、その内幸い1985年度より4年間に亘り重点施策援助金をいただけることになりましので差引965万円となりました。これはおそらくあと4年から5年位で何とか返済できるのではないかと思っています。これからなんとかしてこの地に根づき、実を結ぶに至る教会となっていくために喜んで宣教の業を担っていける自立の教会を切に祈り願って、いまだ少数ではありますが一同精一杯励んでいます。今後共同じ主の教会の一端を担うものとして覚えてご加祷下さればこれにすぐる幸いはありません。以下2月28日現在の会計報告を記しておきます。(略)

(第35回教区総会議案・報告81頁)

1985年度 重点施策教会報告

瀬戸内教会  

二種教会とは全く名のみでどこにも教会としての手がかりをもたないばかりでなく、その背後にある、はかりがたくよどんだ混沌の中にあってどこからどのように手をつけていったらよいのか全く見当もつかない奄美南端の教会に赴任して全くゆきづまりの中で模索し、日本キリスト教団の教会と言っても要するに教会に過ぎなくて本当に困っている時に他には余っているものがあってもそれは私どものゆきづまりとは何の関係もない共同体であるという思いが深くされ、日本キリスト教団の教会観が現実的にどうしてももてなくて、苦悩していた時に改めて地区の教会的連帯性の意味の深さと、また地区をこえた鹿児島地区の自発的連帯が、本当の教会的つながり、公同教会としてのつながりを現実的に知らせていってくれ、日本キリスト教団の教会からこの地に遣わされている、という確信と希望をあらたにされたことを改めて思い出さしめられ、感謝を深くしています。

 こういう中で目に見えるしるしとして、新築なった教会堂と教育館は、町に対して真の福音が何であるかを証していく最も具体的な場として、その働きを初めて三年目を迎えることになりました。その歩みは本土的テンポでは決してありませんと思いますが、そこに主が共にいます故に、必ずすべての混沌と出口のない複合的な問題とをつくりかえて、確実に前進していくことと確信いたしております。先ず礼拝がその内容において、今まではこの地に一時的に来ておられた外からのクリスチャン(他教会出身の会員及び客員)が主になって続けられて来たものが、段々この地の人々の目を開いていってこの一年には更に、この地の人々に深く入るきっかけが少しずつよせられてきつつあるようです。

 それは、この地の旧会員ではあるが、今まで教会生活を本当に経験したことがないままに離れてしまっていた会員の方々が少しずつ目覚めさせられ、2,3人の人々が礼拝へと出席を初めているということです。これはこの地にとって特別な大変な出来事でありまして、教会の存在・その必要性を訴え続けてきた私どもにとりまして、こんなに嬉しいことはありません。おまけに昨年10月には、待望の講壇と椅子とがやっと与えられて、そのすぐあとに一組の結婚式を行うことができましたことは、会員一同の深い喜びでありました。このような形でこの疲弊し、全く生活が複合的な問題をかかえて混沌のなかにうずもれていたこの地を、新しくする主のわざが、その体なる教会を通してほんのわずかながら動きだしているのではないかと感じさせられる一年であったように思われます。町、その附属施設として奉仕と証の場である乳幼児センターも、ここに関わっている人々大変に喜ばれ、この業を通して隠れた形で恵みの主の業が人々に喜ばれていることを、会員一同深く感謝しています。やはり教会の経済のためにという直接的意図よりも、本来のあるべ き姿として主の恵みのわざを前進させることによって、共に喜ぶも者となっていくことこそ、主の、生活についての約束のことばである「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものす、すべて添えて与えられるであろう」ということばに対する確信を深められつつあります。この主にある教会の恵みの中にある生活こそ、この町の全てのものを、混沌と虚無の中においこんでいる問題を根源的に解決する基本的な生き方であることを、今少しずつ小数の会員求道者が目ざめせしめられ、確信させられつつあるのが昨今の姿です。

最後に、この一年の間、この奄美南端の主の教会の歩みを覚えてくださり、共歓共苦の中で連帯して下さり、ご加祷・ご支援いただきました奄美地区をはじめとして、鹿児島地区、九州教区の皆さん方、更に教区をこえた全教団の方々に、心から主にある感謝とお礼を申し上げて、ご報告にかえさせていただきます。

(第36回教区総会議案・報告79頁)

1986年度 重点施策教会報告

瀬戸内教会  

 奄美伝道は奄美が本土に復帰して後始められ、その労苦を共にしながら困難な道を歩いて30年、一時は余りにも異教性と脱本土的な性格から来る困難さの中で途絶えそうな時もあったのですが最後には人間の知恵ではなく、神の知恵と計画にのみ信頼しつつ、宣教をつづけて段々奄美特有な宣教の姿勢を学んでいきました。特に最も困難な過疎の地をもつ大島南部の拠点として始められた瀬戸内に福音が根づくためには、どうしても少々の抵抗に動ぜずのりこえて進むだけの長期的展望に立った宣教態勢の確立が急務であることが段々明らかになってきました。

 そこで奄美地区は南部の拠点である瀬戸内教会自立総合計画の実行委員会を作ってくださり、この委員会が母体となって具体的な計画として瀬戸内教会礼拝堂・教育館(乳幼児センター、CS教室)建築が進められることになった次第でした。その後地区実行委員会を母体にしつつ更に県内の鹿児島地区の全面的応援をいただき、その上教区の重点施策教会の指定をうけ、更に教団からの援助金をもいただくことが決まり、計画は実現の軌道に乗っていたわけでしたが、当初は10年(返済完了まで)計画で始められましたが、現在計画以来5年(建築完成後3年)となります。その間思いをはるかにこえる教会的連帯の中ですばらしいご支援、ご協力をいただき、今年はもう大体終わりの見通しのつくところまで返済計画も進んでまいりしまた。まさにこの地の教会の宣教は全教会的連帯の賜物であることを最もよく証しているように思われます。このことを覚え、この地の宣教を託されている私ども教会員一同は深く神の恵みと主にある皆さんの愛に感謝せずにはおられません。同時にいよいよこの異教的根の深いこの地への宣教の業が実を結ぶためにこの皆さんの祈 りの結晶である礼拝堂と教育館を通して気長く地道にこの地の土壌を深く掘り起こし、耕しながら、主にある生活をつくり出していく福音に遣えていきたく思っています。本当にご加祷ご支援ありがとうございました。以下会計報告概略を致し今年のご報告にかえさせていただきます。尚今後共奄美の主の教会を覚えて下さり、日常のお祈りに加えていただきますならば幸いこれにすぐることはございません。(会計報告略) (報告者・佐藤駿一郎)

(第37回総会議案報告86頁)年表

1986年度 重点施策教会報告

瀬戸内教会  

 奄美伝道は奄美が本土に復帰して後始められ、その労苦を共にしながら困難な道を歩いて30年、一時は余りにも異教性と脱本土的な性格から来る困難さの中で途絶えそうな時もあったのですが最後には人間の知恵ではなく、神の知恵と計画にのみ信頼しつつ、宣教をつづけて段々奄美特有な宣教の姿勢を学んでいきました。特に最も困難な過疎の地をもつ大島南部の拠点として始められた瀬戸内に福音が根づくためには、どうしても少々の抵抗に動ぜずのりこえて進むだけの長期的展望に立った宣教態勢の確立が急務であることが段々明らかになってきました。

 そこで奄美地区は南部の拠点である瀬戸内教会自立総合計画の実行委員会を作ってくださり、この委員会が母体となって具体的な計画として瀬戸内教会礼拝堂・教育館(乳幼児センター、CS教室)建築が進められることになった次第でした。その後地区実行委員会を母体にしつつ更に県内の鹿児島地区の全面的応援をいただき、その上教区の重点施策教会の指定をうけ、更に教団からの援助金をもいただくことが決まり、計画は実現の軌道に乗っていたわけでしたが、当初は10年(返済完了まで)計画で始められましたが、現在計画以来5年(建築完成後3年)となります。その間思いをはるかにこえる教会的連帯の中ですばらしいご支援、ご協力をいただき、今年はもう大体終わりの見通しのつくところまで返済計画も進んでまいりしまた。まさにこの地の教会の宣教は全教会的連帯の賜物であることを最もよく証しているように思われます。このことを覚え、この地の宣教を託されている私ども教会員一同は深く神の恵みと主にある皆さんの愛に感謝せずにはおられません。同時にいよいよこの異教的根の深いこの地への宣教の業が実を結ぶためにこの皆さんの祈 りの結晶である礼拝堂と教育館を通して気長く地道にこの地の土壌を深く掘り起こし、耕しながら、主にある生活をつくり出していく福音に遣えていきたく思っています。本当にご加祷ご支援ありがとうございました。以下会計報告概略を致し今年のご報告にかえさせていただきます。尚今後共奄美の主の教会を覚えて下さり、日常のお祈りに加えていただきますならば幸いこれにすぐることはございません。(会計報告略) (報告者・佐藤駿一郎)

(第37回総会議案報告86頁)年表

1987年度  重点施策教会報告  

瀬戸内教会

 最初に共に主の御名を讃えます。奄美復帰を記念して開かれたこの困難な宣教地も今年で31年目を迎える事になりました。その中で初代、2代の先生方が0からの出発という至難な開拓伝道、特に島的な特異な異教的土壌の開拓という実りを期待する以前の業を担っての大切な20年が過ぎ、1976年3代目としてこれを受け継ぐべく赴任してきましたがまだある意味で初めの開拓状況を受け継いだ形で始め、苦悩しつつ、8年目頃に再考の島独特の苦悩を経験している時に、この地の自立総合計画の一環として礼拝堂、教育館について奄美地区が連帯して委員会を組織してくださり瀬戸内の問題を共に担う姿勢を示してくださったこと、続いて隣の鹿児島地区が前面的に協力して下さるという形で長期的宣教態勢が確立されていったことを思い起こします。この第一歩として実現された礼拝堂と教育館建築も今年の3月をもってその借入金返済も完済することになりました。ここに至るまでには実に不思議なほどに隠れた主の恵みに支えられましたし、又思いにまさる皆さん方の特に奄美地区の教会の皆さん、さらに同じ地区同様に前面的応援をしてくださった鹿児島 地区の教会の皆さん、さらに教区の方々が重点施策教会に指定して下さったこと、さらに教団の援助金をいただいたことなど改めてここに覚え深く感謝いたします。思い返すと特に辺地の教会の業は全教団の祈りと支援に支えられたわざであることを改めて深く覚えさせられている次第です。まさに建築を初めて4年目、3月をもってすべての建築の借入金を完済し、最終的な収支決算がなされて年度初めまでには゛せん建築貴意系報告をお送りすることが出きることと思われます。最後に、私どもは何回もご報告しましたように最初に教団の直轄の開拓伝道地として始められ、段々その土壌の困難性を深く自覚させられつつ機構改正後教区に委譲されてその歩みを続けていく中でつくづく考えさせられたことは特に困難な辺境の伝道地ほど一個教会だけでどうにもならない困難な状況があることを知らされね挙う゛たんの教会性(連帯、即ち主の体としての)が切実に問われ求められることを改めて知らされる31年の歩みであったと思わされます。こういう歩みの中で開拓伝道地の母体、主体の明確化と経済的だけでなく教会的な働きが自立できるようになるまでの深い巨魁的配慮が必要であることを深く学ばされ た 歩みであったことを覚えます。このことを力をこめてご報告しつつ、ここに最終報告を終わらせていただきます。いよいよ主の恵みの業が前進していくことを会員一同祈りつつ、これまでのご支援を心から感謝いたします。 (第38回総会議案報告102頁)

7, 合同以前の奄美伝道 喜界島を中心に  1930年〜1939年、合同以前  

        日本基督教会鎮西中会記録 1980.7.21 新教出版

第65回 鎮西中会  1930,4,3 於佐世保教会      306P

第8、常置委員会報告 一、喜界村伝道所設立式に関しては可決経過を詳報すると共に其時機等は番匠君と打ち合わせ方通知すること

第31、中会伝道部報告

(4)特殊教会援助

其四、喜界村伝道所

本年度中に二回位応援する事とし6月上旬番匠、藤田両氏設立式を兼ねて応援し更に本年2月25日より番匠氏応援す

(6)新伝道地の開拓

其六、名瀬伝道(大島郡)

2月23日番匠氏をして名瀬の伝道に関し調査を為さしむ

第66回鎮西中会 1931.4.9 於唐津教会      319P

第28、鎮西中会伝道部報告

(3)其他の応援伝道 番匠鉄雄氏 6年3月21-30日 喜界村

第67回鎮西中会 1932.4.7 於小倉教会      328P

第31、伝道部書記報告(山口君)

三、中会伝道実施

講師時期日数等各教会の希望を聴取しこれに応じ左の如く実施す

川崎牧師 喜界村 八月下旬 一週間

四、伝道地教情  

喜界村

財政難に苦しんでおられるも会員は一生懸命に努力しておられる(番匠氏報)

第68回鎮西中会 1933.4.6 於熊本教会      334P

(16)伝道部書記報告(川口君)

一、喜界村応援伝道に番匠牧師を依頼派遣すること

第69回鎮西中会 1934.4.5 於別府教会      341P

第20 伝道部委員報告(小塩力君)

5, 中会伝道部廃止の件

而して中会伝道地の教状は概して良好なり、最近川崎牧師は八重山、那覇、飯塚、中津の伝道を応援せられ、番匠牧師は喜界の伝道に当たらる

伝道地教情  

喜界

農村不況のため多数の信者他に転じ教勢まったく不振なるも、日曜学校は益々恵まれ全部落より洩れなく出席す(番匠鉄雄君)

第70 鎮西中会 1935.4.4 於鹿児島教会      350P

第19 常置委員会報告(宮内彰君)

一、喜界村教会応援の為8月前に長尾千代子姉を派遣依頼する事

第23 教状調査委員報告(宮内彰君) 1934年(昭和9年)度教状左の如し

四、祈祷会出席多き教会(10人以上)

鹿児島、久留米、喜界村 13

第71 鎮西中会 1936.2.13 於佐世保教会      350P

第15 常置委員会報告(川崎義敏君)

一、番匠議長を喜界村教会の献堂式に出席せしめ同時に応援伝道を行はしむる事

第36 昭和10年度中会会計報告(宮松治君)

伝道費 一、喜界村伝道費 40,00

第72 鎮西中会 1937.1.14 於大分教会      367P

第17 常置委員会報告(川崎義敏君)

一、喜界島応援の事は教勢沈滞に付き中止し会員の一部を鹿児島に招きて之を激  励修養する方法をとる事

第23 鎮西誌委員報告(針ケ谷松太郎君) 

二、昭和12年1月10日現在の講読部数、教会40個、369部、個人12名、12 部外に

   喜界村教会へ毎月贈呈23無、諸届要10部、合計414部

第40 昭和11年度会会計決算報告(宮松治君)

伝道費 一、喜界村伝道費 40,00

第74回鎮西中会 1939.2.15於福岡教会      386P

第14 常置委員会報告(宮内彰君)

一、喜界村伝道所の応援を川崎義敏氏に依頼し適当の時期に出張を願ふこと

第37 昭和13年度会会計決算報告

伝道費 一、喜界村伝道費 40,00

(日本基督教会鎮西中会記録 1980.7.21 新教出版より)

尚参考資料としては

1,「奄美地区とわたしたち」 −教会レポート−第2 1971.11.1 教区通信63号

2,「奄美しまっちゅの面魂」自立の中で 雨宮恵  1974.9.1 教区通信80号

3,「奄美地区をたずねて」(T)喜界教会 山城 順 1976.9.1 教区通信92号

4,「奄美地区をたずねて」(U)名瀬教会 山城 順 1976.11.1 教区通信93号

5,「奄美地区をたずねて」(V)瀬戸内教会山城 順 1977.1 教区通信94号

6,「奄美地区を問安して」 田中道宣  1980.5.1 教区通信114号
 

九州教区宣教のあゆみ

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