小説 バッハ 前半第1章から第10章まで
ハンス・フランク著 1960年GmbH.刊
佐藤牧夫訳 音楽之友社 1971刊
 

「小説 バッハ 」             

 30年も前に出会った本書。 バッハが小さい頃 親に先立たれて長兄の家に引き取られた話。そこで月明かりの下で楽譜を書き写しているのを見つけられ えらく叱られた話。もう一つ、晩年に目が見えなくなって、ヘンデルの目を手術し、成功した同じ眼科医に頼んでイギリスから旅の途中で来てもらい、手術した話。麻酔代わりにワインをたらふく飲まされて、とか、手術はうまくいかなくて、痛みに耐えかねて、そのショックで死期を早めた。と言った話が記憶に残り、最近、もう一度読んでみたいと思った。
ところが図書館の検索では見つからなかった。アマゾンの古書に数冊あって、注文したところ、今日届いて、30年ぶりに再会となった。びっくりしたのは文字が8ポイントと小さく、1頁二段組で456頁もある。1971年のもので、黄色い枯れた匂いがする。
もう一つ、バッハが亡くなると、次の音楽監督が決まり、早急に部屋をあけ渡さねばならかくなった。家族、近親の者は悲しむいとまもなかった。肉屋の包み紙にバッハの楽譜が大量に置かれていて、知人がそれを買い上げたという話も忘れられない。それから、
バッハのお墓がどこにあるのかさえ忘れられて、没後100年の記念に、ベルリンでメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を演奏して、バッハの名前がよみがえり、世界に知られ、今日に至っている。もう一度サーっと読んでみたい。
我が国では今、改竄とか隠蔽、記録廃棄などが流行っている。けれども、忘れられて、100年経っても、いいものはよみがえり、喜びと、生きる力を与えているということを、バッハは示している。




「小説 バッハ」 -1- ハンス・フランク著 佐藤牧夫訳 音楽之友社 1971

アマゾンの古書で211円、送料257円 の赤茶けた、B5 454頁 活字8ポイント2段組を読み始めて、とてもじゃない目が悪くなる、と あきらめようとしたが、1ページに分解し、スキャナーでPDFファイルにして、それを章ごとにまとめることを思いついた。昨年、買った1万円台のプリンターについているスキャナーは性能が良くて、あっという間に読み取る。1章から3章までファイルができて、これをiPadに入れると、電子書籍になって、とても読みやすい。
3章まで読んで、バッハが9歳の時、両親が亡くなって、14歳上の兄に養われることになり、いくつもの山が現れて、乗り越えていかなければならなかった。
バッハの才能が開かれるのか、運命やいかに!というところです。


小説 バッハ -その2-
両親が亡くなり、身を寄せていた14歳年上の長兄に子どもが生まれ、子どもが5人になると、バッハはこれ以上お世話になるわけにもいかず、後一年で高校を出て、大学進学という道をあきらめ、ドイツ北方のリューネブルクの教会付属学校聖歌隊への推薦を持って面接試験を受けた。1700年3月、15歳の年だった。試験の結果、有給のソプラノ歌手、のちに助手として指揮者を助け、時にはバイオリン奏者として充実した自立の道を歩んだ。バッハのボーイソプラノはひときわ目立って綺麗だったようです。今で言えば、エンジェルスの大谷のようだったでしょうか。

小説 バッハ -その3-
山を越えると、その先にもっと大きな山がそびえ立っていた。人口が4000人のリューネブルクには3つの教会があった。バッハはミカエル教会の聖歌隊メツテンコールに入り、ボーイソプラノを歌い聖歌隊に命を吹き込み、活気づけた。
ところが、声に変化が現れていると、指摘する人もいて、彼は変声期に入っていた。これまでの美声がなくなれば、自ずと退団が待っていた。15歳の時だった。ほかに行き場はなかった。ショック!
しかし、バッハは聖歌隊の指揮者の助手として、いなければ困る存在になっていた。それに管弦楽に加わってバイオリンやヴィオラの要員にもなっていた。そこで管弦楽団のメンバーになることができた。よかったです。

小説 バッハ -その4- 音楽交流
バッハは生涯をドイツ国内で暮らし、音楽の先進国イタリヤや新興国イギリスを訪ね、音楽を学ぶことはなかった。
グーグル地図を見ると、活動範囲がわかる。生地「ドイツ アイゼナハ」と書いて検索すると、生まれた町が出てくる。1986年、東ドイツ時代のバッハの足跡をたどったことがある。アイゼナハの教会は閉鎖され、途中の修道院跡は破壊されてペンペン草がはえているようなキリスト教冬の時代だった。繁栄しているキリスト教を見るより良かったけれど。キリスト教施設は観光収入に価値があった時代だった。バッハ ハウス(生家)も観光遺跡だった。
また、彼が育った「チューリンゲン」地方を検索し、航空写真に切り替えるとドイツ中部の丘陵地帯が、周りを囲む森林によって見れる。豊かな小麦畑が広がる。
彼は、故郷を離れリューベックで北ドイツの深い音楽に触れた。またその地の領主に嫁いできたフランス人の妻を中心に形成されたサークルの、フランスの明るく楽しい音楽、文化に触れた。そういう音楽交流がバッハを成長させた。

「小説 バッハ」-その5-
声変わりをしたバッハはボーイソプラノを歌えなくなり、聖歌隊を退団した。だが、聖歌隊の指揮の助手や器楽の第1バイオリンをこなした。正式な採用試験にほぼ決まっていた聖マルクト教会では、最後に市の当局者の拒否にあった。バッハがまだ17歳で若すぎるという理由だった。その後ワイマールの宮廷音楽のヴァイオリン奏者を務めたが、間もなくしてアルンシュタット市の聖ボニフアチウス教会の新しいオルガンの試験演奏者に抜擢された。この教会は122年前、炎暑の中で市長宅の屋根に塗っていたコールタールから発火して町中に燃え広がった大火のために、聖ボニフアチウス教会も延焼し、1722年ここに再現した。その教会に備えられたオルガンだった。この街はバッハ一族が活躍した町でもあった。
このようなことがあって白羽の矢が当たったバッハは聖ボニフアチウス教会のオルガニストに就任したのであった。1703年、18歳だった。災い転じて福となるでしょうか。


「小説 バッハ」-その6-
聖ボニフアチウス教会のオルガニストになったバッハは、縁戚に当たる 一歳年上のマリア バルバラ バッハと親しくなった。彼女もバッハの境遇と似て、幼くして両親を亡くし、叔母に育てられた。その叔母の家で会うようになった。バッハが弾くチェンバロにあわせて マリアが歌い、新曲なども歌った。バッハは教会の仕事場のオルガンにあわせて マリア バルバラが歌うと、曲想がどんどん展開した。
しかし、当時、今からは想像できないところもあった。教会の聖歌隊で女性が歌うことはなかった。その習慣と違うことを マリア バルバラは心配していたが、おかまいなしのバッハがすることは、トラブルに発展した。この辺のくだりは30年前に読んだわたしの記憶をよみがえらせる。というところで、本書4章が終わる。


「小説 バッハ」-その7- 大家ブクステフードのもとへ
就職して2年がたった1705年の待降節の時期に、バッハはオルガン研修のための休暇願いを、アルンシュタット市長に提出し、ひと月限りの許可をもらった。彼はハンザ同盟の交易で栄えた北ドイツのリューベックへ向かった。聖ボニファティウス教会の70歳近いブクテフード(この2年後に亡くなった)は一つの条件をつけて後継者を探していた。その条件は30才後半になる娘の結婚相手になってもらうということであった。師匠と弟子は研修の成果と将来の方向で一致し、希望に満ちていた。ひと月の許可をとった休暇を、無断で延期して4ヶ月にも及んだことでも想像できる。オルガン、ヴァイオリンの技術を高め、クリスマス、王の退位と就任式、また地域と一体になった演奏会活動にも参加した。プログラムを手伝い、夢中になり、充実した時を過ごした。ブクステフードも周辺も、バッハは結婚して、後継者になってくれると暗黙裡に確信していた。アルンシュタットに残してきたマリア バルバラと約束は何もしていないこともあった。これまで多くの後継者候補があらわれた。ヘンデルも辞退した一人だった。しかし、別れを告げる時がきた。バッハは明日、出発することを告げた。ブクステフードと娘は動揺したが、最後の夜を、3人での小さな音楽会で別れを惜しんだ。

「小説 バッハ」その7-2 
一ヶ月の研修許可を、無断で四ヶ月にのばしたバッハは、帰って、裁判の被告になった。教会の牧師団、アルンシュタット市政の長によって裁判が行われ、その上にいるシュヴァルツブルク伯爵領主の承認によって判決はなされた。バッハが目指す独立した音楽は理解されず、かといってこの逸材を失う損失とのバランスで、また、被告バッハが非を認めることをしないため、結論は先延ばしにされた。
音楽の完成というものはあり得ない。ゆえに、絶えず完成を目指して、試みをなしていく。この姿勢に立つバッハのオルガンは一般の人には長すぎるとか、あまりにも抑揚が激しすぎる。慣れ親しんできた、古く陳腐で退屈な演奏が求められて、バッハには受け入れられなかった。
そうこうしているうちにミュールハウゼンの新教会のオルガニストの転勤により、バッハが後任に求められた。先に本稿-その5-で述べた、バッハが試験演奏をしたオルガンであった。1707年二人は21才の年にマリア バルバラと結婚して、ミュールハウゼンでの新生活へと向かった。

「小説 バッハ」-その8- ミュールハウゼン 聖ブラウジス教会
1707年5月28日 バッハはブラウジス教会への正式な任命を受けた。ところがその3日後ミュールハウゼン市に大火がおこり400軒が燃え、三つある教会の中のブラウジス教会も延焼した。 この騒動の中、契約が交わされ前任地と同額の年俸85グルテンの俸給 、そして楽器、家財道具を運ぶ馬車二台と馬4頭を貸して欲しいという願いが受け入れられた。また、オルガンの命である送風システムの大々的な改造の提案が認められた。ミュールハウゼン市は神聖ローマ帝国直轄の自由都市であり、6人の市長と46人の参事会員が選ばれ、この中の2人の市長(1人は副市長)と14人の市参事会員が一年任期で交替するシステムであり、大火の直後で復興計画も手付かずの時なのに、バッハの前向きな提案は受け入れられた。前任地アルンシュタット市が伯爵の権力の下にいる 聖職団の無理解のもとでは働きにくかった、自由度の点で大いに違っていた。バッハの初仕事は、年に一度、参事会員が交替する時の祝祭カンタータ「神はわが王」を作曲し、火災に合わなかったもう一つの教会を会場とし、演奏が行われ、満足と力強い活気を与えた。その楽譜はのちに200部印刷された。楽譜の初めには「イエスよ助けたまえ」と記し、最後には「神のみに栄光あれ」と書いた。バッハの生涯で300曲作曲されたカンタータの全ての楽譜にはこの二つの言葉が書き込まれた。1708年 まもなく23歳になる時のことであった。23歳の頃の私ってどうしていただろうって 思わずかえりみてしまいました。


「小説 バッハ」-その9-
バッハはミュールハウゼンの 聖ブラウジス教会オルガニストとして新しい出発をした。教会の牧師団は、M.ルターの「人は信仰のみによって義とされる」を中心とした教義を奉じる正統派が主導していた。宗教改革は、そこから派生したカトリックとの戦い、30年戦争、また、T.ミュンツアーに率いられた農民戦争も経験した。ミュールハウゼンはその農民戦争の発生地でもあった。それから150年も経つと、正統派の中には権威主義や保守主義など多くの弊害が批判されるようになった。その中に、ルター主義から出た敬虔主義が人々を引きつけるようになった。シユペーナーは「ピア デシデリア(敬虔なる願い)」という文書を掲げ、神との直接な交流から生まれる行動を求めた。戦争が生み出した孤児救済、傷病者、夫を亡くした妻達に手をさしのべる福祉活動を呼びかけた。
バッハは神との直接から生まれる命の音楽を目指した。その意味で敬虔主義者であったが、一方でM.ルターの神学にも深く傾倒していた。
ところが、聖ブラウジス教会の主任牧師はルター正統主義に立って、敬虔主義を批判した。副牧師は敬虔主義に立って論戦を交わす。バッハはどちらにつくのかという事態に立ちいたって、ミュールハウゼンを離れる決心をした。まだ9ヶ月が経つか経たないかという時だった。人はバッハの気難しく、短気な性質を見るが、本書の著者はバッハが目指している音楽の故に、それができない職場を去っているという理解を示している。幼い日に、父親の音楽を「世俗音楽」という人がいて、そのことを父に告げた時、父は「世俗音楽」とか「宗教音楽」といってはならない。「ではなんと言うのですか?」という問いに「命の音楽、ヴィヴァ)」と教えた。バッハがめざす音楽は幼い時に種が植えられていたのである。


「小説 バッハ」 -その10- バッハの源流
ドイツの東方、今のチェコ(ブラチスラバ)で、水車小屋で製粉をはじめたファイト バッハが先祖だと言われている。仕事のかたわらでリュートやバイオリンを楽しみ、音楽一族の基礎となった。会合に呼ばれて演奏したり歌ったり。人を喜ばせたり、あるいは交流を強めた。ところがその地の領主がカトリック以外は認めないといい、従わなければ全財産を没収、もしくは死刑を告知した。ルター派の福音主義に生きるバッハは、家、水車など製粉の権利を売り、ドイツの中部に位置するチューリンゲン地方に移住した。このチューリンゲンがバッハ一族音楽の舞台となった。
「小説 バッハ 」 9章に 一族が年に一度の会合を開いていた様子が書かれている。毎年5月の第1水曜日にバッハ一族は会合した。1709年はアルンシュタットが会場となった。集まった人の数は書いてない。会は、器楽合奏に合わせて賛美歌コラールを合唱し、楽譜はなくても暗譜で、終わりまで進行した。その中でこの一年の間に亡くなった人36人の名前を挙げて追悼し、7組が結婚し、53人が生まれたと報告され、その都度、歌によって祝福された。この状況で参加者が多数であったことが想像される。バッハの時間的な源流と一族の横のつながりの豊かに見える気がします。
              
   
     


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電車はライプツィヒからテューリンゲンの丘
陵地帯をとおりバッハの生地アイゼナハに
向かった。
バッハの生地アイゼナハ ゲオルク教会 
洗礼をうけ9才までそばのバッハハウス
(バッハの生家)で育った。
ヴァルトブルク城教会 バッハハウスから歩いて
いける。ルターはここにこもって新約聖書を原
典からドイツ語に翻訳したといわれる。
バッハハウスの前で二人の子に会った。
おじさんがやってきて、「うちでパーティしょう
と言っている」と子どもたちが言う。どうしよう
かと思っていたら、僕たちも行くからというの
でついていった。廃墟となった修道院跡地
をとおり、古びた集合住宅の三階に、彼は
一人暮らしをしていた。子どもたちはそれぞ
れ独立したとのこと。
本書挿絵
本書挿絵                       次へ⇒
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