小説 バッハ 前半第11章から第22章まで
ハンス・フランク著 1960年GmbH.刊

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「小説 バッハ」 -その11- ヴァイマールのバッハ 1714年から1723年

29歳のバッハは、ヴァイマールのヴィルヘルム エルンスト公爵の宮廷礼拝堂オルガニスト、また制服を着た16人の劇団の音楽師として、これから9年間を過ごした。本書の著者は、バッハのこの時期の自由な創作活動を高く評価している。1,俸給が上がったこと。85グルデンから、最終的には250グルデンに上がった。月に9つの新しいカンタータを演奏する義務を課せられたことなど。
バッハは北ドイツの巨匠ブクステフードの穏やかで深いオルガン音楽と、南ドイツの巨匠パッヘルベルの情感豊かで、軽快な音楽を総合した。またイタリアオペラの自由な表現も影響を与えた。月々に9つのカンタータを作る義務はバッハに一つの形式を生み出した。それは、1,最初の合唱 親しまれているコラールのメロデイをソプラノが短い言葉で提示し、三部合唱が時間差をつけて追いかけて語り合い、綺麗な和音に組み上げられるフーガという形式、2,聖書朗唱にはオペラの手法を取り入れ 話の進行を示し、3,アリア 叙唱 オペラの自由にならい、テンポを変えたり、移調を加え、最初のテーマを繰り返して終わる。ダ・カーポを取り入れて、魅力的で、今でも電話の呼び出し音などでも親しまれているような、新しいアリアをつくりだした。4,最後に、宗教改革を指導したマルチン ルターは、親しまれてきた民謡や、人の心情を歌うブルースのような、民衆のメロディーを採りいれて讃美歌のメロディーに変える会衆讃歌のコラール集を作った。このコラールでカンタータを締めくくった。
新しい音楽の創造に力を与えたもう一つの要素は、歌詞の言葉の力であつた。バッハが使った歌詞は主に3人の詩であった。その中のノイマイスターはライプツィヒ大学で神学をおさめた牧師であったが、途中から詩作の道に入り、毎日曜の礼拝に用いるカンタータの歌詞、7年分、350曲を印刷発行した。バッハはこ歌詞に多くを負っている。
ヴァイマール時代は、バッハの次のそのまた次の任地となった聖トマス教会音楽監督の長期間の任務を支える力を養った。


「小説 バッハ」 -その12- ヴァイマール時代 後半
ヴァイマール公は次代に席を譲ったが、身内の争いが絶えず、バッハにはどちらにもくみしないという態度が保てなくなった。1717年10月31日宗教改革200年記念祭の計画が、同月30日のヴァイマール公の誕生記念が主になっており、一音楽師の身分で働くことを求められたバッハは、辞任を繰り返し申し出、公は怒り哮り、バッハを牢にとじこめた。なんと4週間。日本でも最近そんなことありましたねぇ。沖縄辺野古を守る山城博治さんと森友学園の籠池さんの裁判なしの長期拘留という仕打ちが、昔も今も変わらない不条理を示している。
バッハは牢の中で曲想を思いつき、原稿楽譜を取り寄せ、長男のための練習曲「オルガン小曲集」を書き、また教会暦一年分、164曲のコラールを構想した。それは46曲完成した。牢の暗がりの中で。
解放されたバッハは32歳、妻と4人の子どもを連れて、新しい任地ケーテンに向かった。最後の任地ライプツィヒが少しずつ近くなってきました。

「小説 バッハ」 -その13- ケーテン時代
アンハルト=ケーテン候は宗教改革者カルビンの改革派を支持する人だった。改革派は教会の中からあらゆる飾りを取り払い、磔のイエス像を除いた十字架だけを印とした。音楽も簡素を旨とした。しかし、ケーテン公の心の友は音楽で、宮廷楽団を持ち、自ら演奏に加わるほどだつた。音楽は人々との交流と、領国の煩雑な経営の疲れを癒すに欠かせないものだった。1718年ケーテン候は楽団を連れて休養カルルスバートに出かけた。そこで彼の音楽会を開いた。ベルリンから来ていたブランデンブルク辺境伯はバッハの音楽を聴いて、いたく感動し、バッハにいくつかの作曲を依頼した(のちのブランデンブルク協奏曲)。
1720年5月 バッハは恒例のケーテン候のカルルスバート保養に、妻と4人の子供を残して、同行した。7月中旬に帰国すると、子どもたちが泣きながらバッハを迎えた。妻がなくなり、すでに葬儀と埋葬が終わっていた。結婚生活13年間を、喜びも悲しみ分かち合って共にして来た妻マリア バルバラは36才の若さだった。妻を亡くしてバッハは新しい任地を求めた。ハンブルグの聖ヤコブ教会のオルガニスト募集に応じたが、就任に至らなかった。この間にバッハは「ブランデンブルク協奏曲 6曲」を完成し、1721年にブランデンブルク公に送った。

「小説 バッハ」-その14- 再婚
バッハは36才の時に再婚した。アンナ マグダレーナ ヴュルケンは美しいソプラノを歌う20才の歌手だった。結婚して13人の子を生んだ。彼女はバッハの良き妻であり、助手であり、母として前の子どもにも変わらぬ愛を注いだ。1722年バッハは妻「アンナ マグダレーナのためのクラヴイア小曲集」を贈った。(それは3年後に40曲になって美しい表紙がつけられた。)
バッハの婚礼後一週間が経ってケーテン候レオポルトが結婚した。新妻ヘンリエッタは芸術を嫌い、バッハを遠ざけるようになった。1722年ヘンリエッタ妃は女児を出産したが、その六ヶ月後に亡くなった。夫ケーテン公はその衝撃で沈み込んでしまい、バッハとの仲は回復できないものになってしまった。
1722年ライプツィヒの聖トーマス教会音楽監督ヨハン クーナウが死去し、後任を募集した。6人が応募したが、彼らは退けられ、当時ドイツで第一人者と言われたフィリップ テレマンと交渉した。テレマンはライプツィヒ大学で法律を学んでいたが、音楽への情熱が彼を動かして学生音楽団体コレギウム ムジクムを主催し学生たちに支持されていた。また聖トマス教会のオルガニストや作曲指揮を行なっていた。ライプツィヒを知り尽くしたテレマンとの交渉は結果的にならず、これまで候補に挙がっていなかったバッハの名前が出て来たのである。

「小説 バッハ」 -その15- 聖トマス教会 カントル(音楽監督)
1723年6月 1日 バッハの就任式が行われた。聖歌隊の少年を指導すること。ラテン語教師を雇う時は自費で行うことなどの条件がついて、毎日曜日の礼拝(聖トマス教会、聖ニコライ教会、それにライプツィヒ大学の礼拝)の責任を負い、あらかじめ定められた教会暦に配分された聖句に基づき、カンタータを作曲し演奏する任を負った。バッハ 38才。前妻の子7人のうち生き残った4人、再婚したアンナ マグダレーナとの間に生まれた13人の最初の子を連れて、これから27年間の聖トマス教会の日々がスタートした。
なお、聖トマス教会は1212年の創立当時からアウグスチノ会修道院に付属する教会であり、また付属学校の中に聖歌隊が設置された。1517年マルチンルターが提唱したドイツ宗教改革を支持した領主たちは領国の教会をドイツ福音主義教会(ルター派教会)として新しい出発をした。トマス教会も宗教改革まではカトリック教会だったのです。

「小説 バッハ」 -その16- トマス教会音楽監督
バッハは、神との直接交流から生まれる音楽をめざした。それはこの世のどのような権力にも屈しない、独立した音楽であった。
1,トマス教会牧師 就職時、バッハに信仰のテストを求めた。それは難しいものではなかったが、そうした介入が問題だった。また、礼拝で演奏する讃美歌を牧師が決めることを求めた。あらかじめ定められた教会暦に指定された聖句があるので、それに基づいたコラール作曲権は従来通りバッハにある。このような細々した権利を一つづつ時間をかけて獲得しなければならなかった。
2,トマス学校の教師 週に音楽7時間、ラテン語 3時間 合唱練習20時間、生活指導(起床、消灯、食事監督等)一週間。
バッハがトマス教会を指揮する時、同時刻にニコライ教会を指揮する生徒を、音楽を知らない校長が決めると言い出し、争いになった時、長い時間をかけて、バッハに権利があることを、市の参事会に訴えて、獲得した。
5,学校と生活 殆どが奨学生からなる学校経営資金は絶えず枯渇していた。結婚式や葬儀、祝典は特別収入があった。また、年に4回は 理解ある富裕な人たちを訪ねて門前で歌い、募金をして回った。足りなければ回数を増やした。
寄宿舎は35人だった生徒が50人を越し、つめこみ状態であったため、不衛生で、生徒は疥癬に悩まされていた。市当局に改善の陳情を出し続け、ようやく4階建ての上に2階増築がなされた。校長とバッハの家族は6階の見晴らしの良い、窓のある部屋に移り、生徒たちも改善された。それまで6年間、寄宿舎の一角に生徒たちと住んでいた。
俸給 契約の額面は700ターレルと前任地より100ターレル増えたが、実際の手取りは6分の1で、あとは現物支給と臨時収入が見込まれていた。バッハが幼なじみに書いた手紙には、トマス教会を選んだ理由について、子どもの教育環境をあげている。バッハは大学に行けなかったので、長男を大学に入学させる予約をしたと書いている。
*一般的に、バッハは絶えずぶつかり問題を起こす人物と見られている。著者は、生徒、教師仲間、校長、牧師、市参事会に対して、バッハは 絶えず志す音楽のあり方を示して、争い、解決を勝ちとった。そのもめ事は、音楽のカンタータをリアルな作品にしているという。


トマス学校
「小説 バッハ」 -その17- 礼拝音楽 カンタータ
日曜日は朝から深夜まで市の門は閉じられた。主礼拝は朝7時に始まり、4時間かかったという。
開会をつげるオルガン前奏、聖歌隊の無伴奏モテット合唱、オルガン前奏曲、カンタータ・前半:合唱、聖書朗唱、アリア叙唱、コラールを会衆とともに歌い、主の祈り、使徒信条を唱え、説教が始まる。説教は必ず9時には終わると決められていた。カンタータの後半を演奏し、人数によって時間が変わる聖餐式が行われた。
会堂の中は明かりがなく暗かった。説教や合唱にはローソクが用いられた。合唱隊は一つだけ許された火鉢に集まった。こんな寒い冬の様子を描いている。わたしはとても無理です。
昼の礼拝は11時45分から、夕礼拝は3時からあった。
バッハは三つの教会の各礼拝で自分が作ったカンタータを演奏した。著者は、バッハは 起こってくる問題や煩雑な仕事の全てに立ち向かい、かつ会衆の心をとらえ、みんなの心を一つにし、感動と評価をかちとるカンタータの作曲に集中したと言っている。
50才になったバッハは30組のカンタータを作っていた。(1組6~12曲構成) なお、ヴァイマル-ケーテン時代に30曲作っていた。それは礼拝用に改編されて用いられた。64才で亡くなるまでのバッハ お楽しみに。

「小説 バッハ」 -その18- 受難曲
イエスが十字架刑によって死ぬ受難物語は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に書かれている。バッハは各物語から四つの受難曲を作曲した可能性がある。が、残っているのはマタイ受難曲とヨハネ受難曲の二つである。30数年前、私は日本オラトリオ連盟西日本支部に属してヨハネ受難曲を一年かけて練習した。発表を前にして指導者が急逝され、解散となった。残念。それ以来わたしはヨハネ派である。目の手術をして回復すれば、マタイ受難曲にも取り組みたいと思っています。
さて本書の著者はマタイ受難曲の話をしている。マタイ受難曲は全78曲、3時間半かかる大曲である。
バッハは作品を礼拝の中に位置づけ、この物語に会衆が参加するように、聖書朗唱ーその中でイエスや弟子たちが登場し、続いてアリア・叙唱が物語を描写し、問いかける。会衆はコラールの言葉を11曲、ともに歌ってイエスの受難に参加していく。そして合唱が全ての人の思いを歌う。コラールは私たちの賛美歌の一節ほどで、短く、会衆が喜んで歌えるように、よく知られた旋律がもちいられた。
トマス教会の二階席は後ろの奥が通常の聖歌隊席でオルガンがあり、祭壇に向かって左側の席にもう一つの小さいオルガンがあって、ステレオ形式になっている。聖歌隊は二つに分かれ問いかけ、答え、会衆の賛美をリードした。
バッハの死後、その名は作品とともに忘れ去られた。が、100年経ってモーッアルトがベルリンで再演したことによって、マタイ受難曲は再び世界に知られることになった。すごいですね。著者は「不滅の生命は、一度墓の下に葬られなければならない」と言っている。おつきあいいただいてありがとうございます。あと数回、晩年のバッハと作品について考えています。

「小説 バッハ」 -その19- 音楽の捧げもの、フーガの技法
長男フリーデマンは大学で法律を学ぶことをやめて、ドレスデンのゾフィー教会オルガニストになった。14年後、ハレのマルクト教会に転じた。次男のフィリップ エマヌエルも法律から音楽に転向し、26歳でベルリンのフリードリヒ大王の宮廷楽団に就職し、大王のフルート演奏の伴奏をした。彼は父を大王にひきあわせようと願って、度々父の話をしていた。ようやく、重い腰を上げたバッハは長男についてきてもらい、大王との会見が実現した。1日目の夕べはバッハのプログラムで充実した時を過ごした。翌日、大王は自分の提出するテーマで演奏してほしいと注文した。バッハは弾いた。大王はさらに、これを即興で六つのフーガにして、演奏するように言った。バッハは即興ではできないと断り、大王との会見は終了した。
バッハは家に帰るとすぐに宿題に取り掛かり、「音楽のささげもの」と題して、大王に献上した。さらに未完成となった「フーガの技法」で同じテーマが展開されている。この時の会見の断片がYoutubeにありました。下記よりどうぞ。6分くらいです。
⇒ 「バッハ フリードリッヒ大王に会う」


「小説 バッハ」 -その20- 晩年のバッハ
子どもたちが大きくなると 楽しんできた家庭演奏会は難しくなった。子どもの中にバッハの音楽を古いと嫌う子がいたり、反抗期を過ごす子もいた。やがて長男、次男が巣立ち、多くの人が経験する孤独を人並みに味わった。前回に取り上げたベルリンのフリードリヒ大王との会見は大きな出来事だった。そこから生まれた「音楽の捧げもの」また未完とはなったが後世に残る「フーガの技法」も偉大な作品と、後世に評価されている。この「フーガの技法」の途中でバッハは目が見えなくなって、著名なイギリス人眼科医に手術をしてもらった。結果は視力を回復できなかった。2回目にきてもらった時には神経が痛んでいるのでこれ以上はできないという 結論だった。それでもバッハは後に「フーガの技法」と呼ばれる作品の続きを口づてに書き続けた。頭の中には完成の構図があったのでしょう。
100年間埋もれていたバッハはメンデスゾーンのベルリンでの再演によって、世界に知られるようになった。そして長い年月をかけて、楽譜の収集がなされてBWV(バッハ作品番号)がつけられた。その版権(旧バッハ全集の)が切れて、カナダの大学生がパブリックドメインの版権フリーてネットに公開し、多くの人に提供しようとした。ところが、版権の期限が違うヨーロッパの音楽業者から2週間以内に削除を求める訴訟を起こされ、当学生はそこまで対応できない状態だった。しかし、彼の趣旨を受けた人たちが協力して、バッハの楽譜、また様々な議論、演奏をネット上で公開するシステムを作り上げて今日に至っている。このネットワークの進展によって、バッハはどのように受け取られ、理解されて、新しい時代を開いていくのかと期待がふくらんでいます。
20回にわたり、「小説 バッハ」を題材にわたしのバッハをお読みいただいて、ありがとうございました。わたしには、このような交流がとても嬉しく、ほ心の支えになります。一休みして、カンタータの続きを丁寧な興味深い解説付きで投稿したいと思っています。ありがとうございました。


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1986年 東ドイツ時代に訪ねた時のトマス教会。人影がなかった。
2006年 東西ドイツが統合された後のトマス教会、教会前は公園ができ、花園の周りに屋台が立ち多くの人が一休みしていた。
きれいに化粧されたトマス教会。その語もつと手の込んだ装飾がなされているようだ。
バッハ像












織物見本市で栄えたライプツィヒ
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