第2章 沖縄の人

概要   封印された沖縄 「ウルトラセブン」より
一、犠牲の島・沖縄 琉球処分
「ある神話の背景」曽野綾子著
「『集団自決』を心に刻んで」、金城重明著
二、慰霊塔碑文 戦争観
三、琉球弧の文化 キリスト教
沖縄問題 課題と展望

封印された沖縄 「ウルトラセブン」より

ウルトラマンシリーズの第三作「ウルトラセブン」は放送から四半世紀が過ぎたいまも、「シリーズ中の最高傑作」といわれている。放映当時、子供たちの圧倒的支持を得て、視聴率三○%以上を記録した。その夢をつくる円谷プロの企画室には沖縄出身の金城哲夫が同郷の上原正三と共に活躍していた。同じ沖縄出身者として金城との結びつきは固く、「ウルトラセブン」の世界は二人によって創造されたといって過言ではない。金城と上原は、三百年の間、島津に侵略された琉球王朝への強い思い入れを持ち、この思いは封印されて、おもてにはでないのであるが、ウルトラセブンの絶妙の面白さは、封印された沖縄への思いから来るとされる。(「わたしが愛したウルトラセブン」市川森一、NHK出版、写真も同書より)。 沖縄人に共通する封印された怨念とは何かについて述べることからはじめよう。

一、犠牲(スケープゴート)の沖縄 「琉球処分」
  
沖縄は昔から武器のない平和の島として知られていた。尚真王(しょうしんおう 1477-1526年在位)は首里に琉球王朝を築き、貿易によって国を豊かにし、宗教、文化の普及発展に力を注いだ。それまで各地に城(グスク)を築いて、支配していた按司(あじ)たちを、首里に住まわせ、身分の保証を与え、武器の所持はこれを禁じたので沖縄は武器のない島となった。そのかわり、護身術としての空手を普及させた。琉球王朝は中国とくに福建省を窓口とした交易により、また東南アジア、台湾、朝鮮、そして日本との交易により、ながく平和な琉球王朝を築いてきた。独自の文化と言葉をもっていた。
他国に侵略された最初は島津藩による。一六〇九年(慶長一四年)島津氏は三千人の軍隊と百隻の船を繰り出して琉球を征服した。尚寧王(しょうねいおう)と百人の重臣たちは薩摩に連行され、島津氏への服従と忠誠を強要され、二年後に帰国が許された。島津の琉球侵略の目的は、琉球に中国との貿易をさせ、生ずる利潤を吸い上げることにあった。島津の支配は二七○年間続いた。
二回目の武力介入は明治政府による。明治政府は一八七二年、警官一六○余名、軍隊三百人とともに松田道之処分官を派遣し、沖縄を近代日本天皇制国家に組み入れ、沖縄県とした。これを第二回「琉球処分」という。それいらい沖縄住民は天皇の臣民になるための皇民化教育を徹底的にほどこされることになった。皇民化教育は、沖縄独自の文化や生き方を否定し、住民を天皇の子供に変えていくという政策で、日本語を強要し、後では皇居に向かって天皇を礼拝させ、神社を設置して参拝を強要した。筆者の父は牧師になる前、沖縄師範を出て訓導(教師)をしていた。皇民化教育をしていたのである。沖縄には大学をおかず、師範学校にとどめたのは、皇民化教育だけを必要としたからである。その後、キリスト教に出会った父は上京して神学校に学び、牧師になったのであるが、牧師になったのちも戦争責任を直視していたとは言えない。父は妻や子供たちに標準語を使うことを求めた。なぜ方言がいけないのかと子供たちは抵抗したものである。確かに、牧師として人の前で語る時、沖縄なまりがでてくるとまずいかもしれない。努力をしたことであろう。だからと言って、他人に標準語を求めるとい うのは、たとえ子であっても、どうだろうか。教室で子供たちが方言を使うことは禁じられていたという。方言を口にしたものは、次の誰かが方言を口にするまで、「方言ふだ」を首からかけて立っていなければならなかった。方言ふだをかけた者は、他の子の足を踏みつけて「アガァ」(痛い)といわせて、交替したという笑い話も伝えられている。父は東京で学んだこと、標準語を語っていることを自負していた。しかし、怒ると思わず方言がでた。それでわざわざ父を怒らせて、方言をしゃべっているじゃないかと言って子供たちは抵抗したものである。横道にそれてしまったが、もとに戻ろう。標準語の励行は明治一三年廃藩置県により沖縄県とされた翌年から始まる。戦争が始まると、国民精神総動員運動の一環として標準語の励行、すなわち沖縄方言の一掃が打ち出された。皇民化政策とは、自分の生まれ育った文化を誇りとするのでなく、これを蔑む自虐的精神であり、屈従的に皇国臣民となることを求めるものである。
第三回目の軍事介入は、最大の悲劇を招いた沖縄戦である。フィリピンでの敗戦が濃厚になってくると大本営は台湾防衛を図り、マニラが陥落すると、「本土を確保」するために沖縄を「捨て石」とする作戦へと変更したのである。そのために沖縄は未曾有の犠牲を強いられることになった。沖縄は日本本土を守るための「防波堤」また「捨て石」と位置づけられた。このことは沖縄住民には知らされていない。軍隊は住民を守ってくれるものだ、と教えられ信じていたのである。実際に、沖縄住民は多大の犠牲を強いられた。日本の将兵が約九万人死んだのに対して、沖縄住民は一五万人、当時の県民の三分の一が死亡した。そのほとんどは非戦闘員である。そのなかには、日本軍によって虐殺された住民が八百人とも千人ともいわれている。米軍に投降する少年を日本兵が背後から銃殺したという記録がある。また、さいごには日本兵も住民も、沖縄南部に多数みられる「がま」(沖縄の珊瑚礁でできた洞窟)に避難したのであるが、泣き声をだすと、敵兵に見つかるという理由で、その親に子供の殺害を強要した事例が記録されている。それは沖縄本島だけでなく、周辺諸島にも見られた。
金城重明牧師は「集団自決」により両親と弟妹を失い、孤児となった。その時、一六歳だった少年はどういう戦後を生きただろうか。「『集団自決』を心に刻んで」(金城重明著)によると集団自決は伊江島、読谷、沖縄本島南部でおこり、また慶良間諸島三つの島、座間味・慶良間・渡嘉敷で七百名、特に金城重明氏の渡嘉敷島では三一五名、彼の集落阿波連では住民の三分の二が死んだという。それは日本の軍隊がいた島だけに起こった残虐だと指摘している。
一九四五年三月二八日、米軍は渡嘉敷島に上陸した。その翌日集団自決は起った。戦時中は「玉砕」と呼ばれていた。「玉砕」は、天皇や国家のために玉と砕けて死ぬことを美化した軍隊用語である。家永教科書裁判が那覇地方裁判所で行われた一九八八年ころから玉砕ではなく「集団自決」と呼ぶようになった。
金城氏によると(同書48頁以下)、米軍上陸の一週間ほど前から、軍は住民に手榴弾を二個ずつ配り、敵軍に遭遇したら、一個は敵に投げ込み、もう一つで自決するようにと指示した。米軍上陸の前日、軍は高地に移動したが、その時、住民を軍隊とともに移動させ、もっとも危険な場所に住民をおいて、敵軍の攻撃目標にさせた。非戦闘員の住民を安全な場所に移動させて、これを軍が守るものと信じていた住民は「どうして?」と言ったが、その疑問にはなにも答えられなかった。米軍が上陸した翌日、すなわち集団自決の日、三月二八日の朝は曇りだった。村長の指揮の下、住民は一カ所に終結した。はりつめた緊張感のなかでそれぞれ迫り来る死を予感していた。そのなかで、死への身支度に、櫛を入れて髪を整えていた婦人たちの姿を忘れられない、と金城氏はいう。米軍が三百メートルの近くまで迫っているという情報がはいり、張り詰めた緊張が爆発した。村長のもとで「天皇陛下万歳」が三唱され、第一の集団自決が起こった。「私どもの家族には手榴弾はありませんでした」と金城氏は記している。そのことが逆におそろしい惨事を引き起こした。一人の中年男性が木を折って、それで自分の 妻子を撲殺し始めた。これを見本にして、住民は自分の肉親を手にかけて殺していった。剃刀や鎌などの刃物で頚動脈や手首を切ったり、紐で首を絞めたり、こんぼうや石で頭をたたくなど、戦慄すべきあらゆる方法で、身内の者を手にかけていった。「幼い者・女性・老人など、自分では死ねない者、幼い者の命を先に処理してから、男たちは死んで行く」という手順であった。われ先に死に行く男性はいなかった。集団自決を遂げた住民の遺体は塁をなし、流された血は小川を真っ赤に染め、その色は幾日も消えなかった。両親と弟妹を死へと旅立たせ、残された兄と私(金城氏)が最期を遂げるべく、死の順番を話し合っているところに、一人の少年がきて、どうせ死ぬなら米軍に切り込んで一人でも敵兵を殺してから死のうといった。こうして修羅場をあとにしたのであるが、そこに見たものは全滅したはずの日本軍であった。また、他の住民たちが生き残っているのを見て衝撃を受けた。軍隊は住民を盾にして最期まで組織的に生き延びようとしていたのである。
この惨事から金城少年は救出され、鬼畜米英と教えられていたアメリカ兵から食糧をほどこされたり、医療救護を受けた。軍国少年の心は揺れにゆれたという。
金城少年が敗戦の精神的絶望と死の淵をさまよっていたとき、南洋群島から引き上げてきたキリスト者棚原俊夫氏と出会い、聖書と讃美歌に触れた。一八才になっていた。「私のキリスト教への入信の歴史的契機となったのは、『集団自決』体験でした」と言う。信仰的に成長していくにつれて、戦争体験をだんだん前向きにとらえるようになったという。
金城少年は、戦後、沖縄本島に渡り、糸満教会で洗礼を受けた。本土の青山学院大学に留学した。さらに、ニューヨークのユニオン神学大学に学んだ。戦後沖縄の復興に尽力し、沖縄キリスト教短期大学を創設に加わり、現在に至っている。

口戦争責任

なぜ「集団自決」を語り始めた。重明氏は、次のように言う。
 ヴェトナム戦争に介入したアメリカは始め短期に解決できると思っていた。それがながびいて、一九六五年からB52による北ヴェトナム爆撃(北爆)を開始した。沖縄の嘉手納基地は爆撃の発進基地となったのである。沖縄戦では被害者意識が強かった住民たちは、新たに起こったヴェトナム戦争では加害者として関わっている立場に苦悩した。アメリカはヴェトナム戦争に最大時兵力五五方、戦費 四五〇億ドルを投入し、死傷者三五万人を出した。戦後も大きな後遺症を抱えることになった。このような加害的立場に立ったことから、戦争責任を考えなおすようになった。
また、一九七〇年、赤松嘉次、元海上挺身隊隊長が渡嘉敷島でおこなわれた合同慰霊祭に、村の招きで招待されたとき、那覇で市民団体の抗議にあい、赤松嘉次氏は慰霊祭に参列できなかった。この事件の中で、発言を求められ、金城氏は重い口を開き語り始めたという。
 ところが、戦後ときを経るにしたがって、元軍人のいなおり発言や、曽野綾子にみられる元日本軍人の免罪を主張する小説などがどのような影響を与えるかと危惧される。いわゆる「戦争責任」問題について、以下、金城重明氏の発言を踏まえて、「ある神話の背景」を検証したい。                         

「ある神話の背景」沖縄・渡嘉敷島の集団自決 曽野綾子著、
PHP文庫 (1973・5文芸春秋社初刊)
「神話」とは、渡嘉敷島集団自決の張本人として鬼の赤松嘉次像がつくられた「神話」であって、事実と異なるいう意味の神話である。曽野は、集団自決の命令はなかった。赤松氏に罪を問う資格は誰にもない、という結論を、その背景とともに明らかにする。赤松弁護のノンフィクション小説をなしている。

曽野氏は本書で渡嘉敷島の集団自決について次の点を明らかにしている。

@渡嘉敷島の集団自決の事実をどうとらえるか
A広く流布している渡嘉敷島の集団自決のテキストの発言者
B渡嘉敷島の集団自決の日時と場所
C渡嘉敷島の集団自決の命令はあったか

@「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった。捕虜になった住民に死刑を言い渡した覚えもない」。
一九七○年三月二六日、赤松嘉次元大尉と生き残りの旧軍人、遺族十数人が大阪から渡嘉敷島で行われる「二十五周年忌慰霊祭」に出席のために那覇空港に到着した。彼らを迎えた抗議団が「渡嘉敷島の集団自決と虐殺の責任者赤松元陸軍大尉の来県に抗議する」という抗議文を読み上げ、抗議が行われた際、赤松氏は右のように答えたという。(「ある神話の背景」19頁)。抗議団の認識と抗議された旧軍人側とは、事実にたいする認識がまったく異なっていることがわかる。

まず第一に、この事件を扱う、曽野綾子氏の基本的な考えであるが、家永教科書裁判で国側の証人として立ち、那覇地方裁判所で、渡嘉敷島の集団自決について次のように発言した。「『軍は国民を守るためのものでしょうに』という発言を、私は沖縄で何度か聞いた。なぜ。この国家が戦争をするのか。それは自国の国民(の生命・財産・権利など)を守るためではないか、という答えに現在の私たちは馴れている。

 しかし、その場合も国民というものの定義は明確にされていない。おそらく、全体としての国民なのであり、『大の虫』を生かすことなのであろうと思われる。・・・・赤松隊は決して島の守備隊ではなかった。むしろ島を使って攻撃をするために来たのであった。出撃が不可能となり、特攻攻撃を諦めざるを得なくなった日以降、彼らは 好むと好まざるとにかかわらず、村民はおそらく『小の虫』であって、日本の運命を守るために犠牲になる場合もある、と考えられていたに違いないということです」

(「集団自決」を心に刻んで、金城重明著183頁、この文は「ある神話の背景」250頁以下にもある)。

沖縄は日本の運命を守るため犠牲になる場合があると考えられたに「違いない」という立場である。また次のように言う。「このあたりで、私はそろそろ沖縄のあらゆる問題を取り上げる場合の一つの根源的な不幸にでくわすはずである。それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだという、まことに単純な論理である。沖縄を痛めつけた赤松隊の人々に、一分でも論理を見出そうとする行為自体が裏切りであり、ファッショだという考え方である。」(「ある神話の背景」262頁)。「小の虫・大の虫」とはどこからの引用か知らないが、「小の虫」である沖縄は「大の虫」である日本の犠牲になることが正しくて、大の虫が間違いを犯すことがあり間違うことがあると考えるのは根源的な不幸というのである。この考え方についてはあとで総括的に検討したい。

A 第二に、渡嘉敷島の集団自決について語られる時の資料であるが、もっともよく知られているものは、戦後比較的早い時期、一九五○年(昭和25年)に出された「沖縄戦記・鉄の暴風」沖縄タイムス刊である。その概略を記そう。第二章に「悲劇の離島 一、集団自決」という項目にある。渡嘉敷島には、陸士出身の若い赤松大尉を隊長とする、海上特攻隊百三十人と、整備兵二十人、島内の青壮年で組織された防衛隊員七十人、朝鮮人軍夫約二千人、それに通信隊若干名が駐屯していた。・・・・・一九四五年(昭和20)年三月二八日、午前十時頃、島を占領した米軍は、完全に包囲体制を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫った。戦闘能力を失った赤松隊は、西山の奥深くに待避し、住民を陣地北方の盆地に集合させた。夜の闇、豪雨の中を住民は終結命令を受けたのである。時に、赤松隊長から防衛隊員を通じて、自決命令が下された。「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する。・・・・谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に迫ってきた。住民たちは死場所を選んで、各親族同士が一塊りになって、集まった。手榴弾を手にした族長や、家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、さらにこのときのために、二十発増 加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にしてー男、女、子供、嬰児ーの阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景がくり広げられた。死に損なったものは、互いに棍棒で打ち合ったり、剃刀で、自らの頚部を切ったり、鍬で親しい者の頭を、叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起こり、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた」(33〜35頁)

本書は太田良博、豊平良顕氏二人が編者であるが、渡嘉敷島集団自決の項はどのようにして取材されたのか。この問いに対して、実地取材したのではなく、二人の証言者から得た。一人は当時の座間味村助役であり、後に沖縄テレビ社長になった山城安次郎氏である。彼は集団自決の目撃者であったが、渡嘉敷島の事件ではなく、隣の座間味島での体験を語ったという。もうひとりは、南方から復員して島に帰ってきた宮平栄治氏であり、彼は目撃者ではなかった。戦後初の本格的戦記は、新聞社から刊行されたのであるが、渡嘉敷島の集団自決に関しては伝聞によって作文されたものだと判明する。その後、渡嘉敷村遺族会「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」、渡嘉敷村、座間味村編「渡嘉敷島における戦争の様相」は、最初に書かれた「沖縄戦記・鉄の暴風」を資料とし、その流れにあるという。

第三は、渡嘉敷島の集団自決の日時であるが、上記三冊は米軍上陸を三月二六日としているが、二七日の午前九時から九時四十三分の間とするのが正確である。自決の場所は、三百数十人もの人が一個所に集まれるような盆地はない。第四に、渡嘉敷島の集団自決の命令の有無について。赤松嘉次元隊長本人に対するインタヴューによると、自決命令はしていない。住民が夜の闇の中でパニックに陥って自殺した。そのことについては気の毒に思うという。

曽野綾子は一九七○年、赤松元隊員たちが渡嘉敷島慰問から帰ったあと、大阪のホテルで行われた報告会に出席し、そこで赤松嘉次元渡嘉敷島海上艇進隊長に会った。そこで谷本小次郎氏が書いた「陣中日誌」を入手した。タイプ印刷によるこの記録は正確な史実を世に残すことを念願して、「現地にある渡嘉敷島敷島戦闘概要は、まったく史実に反し」ていると批判している。曽野綾子が赤松弁護の資料としたものはこの「陣中日誌」である。もう一つは、赤松嘉次氏自身が、戦後捕虜となってまもなく、石川収容所でおそらく米軍より与えられたものと思しきフィリピン製の「ノート」である。この二つにより曽野綾子は次のように記す。昭和十九年、一○四名の海上挺進第三戦隊が宇品を出発した。二週間後沖縄につき、そこで慶良間列島の渡嘉敷島が任地であることを知らされた。九月二七日渡嘉敷島に到着した、それから三月二七日の集団自決までの時間は、半年である。先に陣地を設営していた基地大隊があり、彼らによってつくられたものは特攻舟艇の基地としては不向きで、「赤松隊は不運な隊であった」と曽野綾子は同情している。基地大隊は五ヶ月赤松隊と島にいて、二月二七日、沖縄本島 に移動した。

そして渡嘉敷島での苦労話がつづられている。

ところで、日本軍が持っていた火器は「重機関銃二(弾薬千二百発)、軽機関銃六、擲弾筒七、小銃一九七」で、迫撃砲は一つもなかった。もっぱらベニヤ板でできた特攻艇で体当たりする戦法なので、そうした武器は不要だったという。しかし、疑問なのは、三百数十人の集団自決に重要な役割を果たした「手榴弾」について、それがいくつあったのか。誰がどうして配ったのか。記録はもっぱら、村の指導者を通して、二発配られ、一発は敵に、もう一発は自決のために配られたと、受身形で書かれている。曽野綾子氏はこの点を明らかにしようとしていない。不良品があって不発弾が多かったということが強調され、肝心の出所は不問に付されている。何のために手榴弾が住民に必要なのか。非戦闘員である住民に手榴弾が渡されるとは、実際に米軍と遭遇するといっても、顔を合わせて、それから手榴弾を操作して、これを投げるというようなことは、到底ありえないわけだから、それはもっぱら自決のために配られたといえるのではないだろうか。すると、命令があったかどうかという設問ではなく、手榴弾が配られること自体、自決を要求する、無言の命令ではなかっただろうか。それ以外のなんの 目的で、配られたといえだろうか。

先に述べたように、曽野綾子は、問題の本質は、誤解にあるという。「常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだという、まことに単純な論理」だという。このように抗議するものを批判し、赤松氏を弁護するという立場から、本書を書いている。誰がいくつ手榴弾を配ったのかを検証しない。彼女の結論は明瞭である。赤松氏は集団自決の命令はしなかった。住民がパニックに陥って、不幸な惨事が起こったのである。もし、これが事実であり、ことの真相だとすればどうだろうか。オウム事件とすべてを比較することはできないが、外界から遮断された秘密社会という共通性、いわゆる「カルト」性は見られないだろうか。その場合、オウムの麻原教祖が自分では直接なにもしていないし、命令もしていないと主張し、まさにそうであったとして。その責任はどのように問われるだろうか。その妻や子供たちの人権を盾に、あの犯罪が情状酌量されるだろうか。

曽野綾子が事の真相解明を求め、責任を問う人たちに対して「常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだという、まことに単純な論理」と反論するとき、また神が裁きうる唯一の存在者で、人が人を裁くことはできないと聖書を引用するとき、そう断定する自分を神としてはいないか。そのような聖書解釈が正しいのかどうか。問題が残る。悔い改めなければ神の国に入ることはできないと説く預言者たちの真摯な追求こそ、神の戒めを戒めたらしめ、これにいろどりを与え、「美しい花を咲かせた」(関根正雄)と言える。問題は、曽野綾子がいうところの単純な論理にあるのではなく、ことを単純と受け取る論理にある。もし、追求の道を示せばよい。罪を罪として受けとめ、これを解決する共通の方法を考えるがよい。
本書にみられる曽野綾子氏の疑問とその解明は、解決の道を共にするに必要な一つの基礎作業と評価できる出版された沖縄戦記は検討吟味される。それにしても、「沖縄戦記」は生き残った金城重明氏の証言とほとんど符合してはいないか。
曽野綾子死氏の労作は、誰に頼まれたかは知らないが国にかわって赤松隊長の責任を免罪するというような意図さえなければ、貴重な労作と言える。
なお、この意味でもう一つ疑問に思うのは二一○名の朝鮮人軍夫の存在を軽視している点である。
全体的に総括すれば、「ある神話の背景」は,赤松悪玉[神話]を吟味し、推測に基づく虚像をはぐ、[非神話化]に成功した作品といえる。その結果、赤松[善玉神話]をつくりだし、これを補強するものとなったとも言える。反対に問おう。曽野綾子氏は強力な資料とし「赤松メモ」や戦後二五年にして回覧された「陣中日記」について、著者はどれだけの吟味をしただろうか。赤松氏がわにも作られた話になっていないか。自分らに都合の悪いことをどうして書くだろう。「沖縄戦記・鉄の暴風」になされた検討・吟味が「赤松メモ」、「陣中日記」を用いているが、それにつていの吟味も同様になされたならば、本書は違ったものになったと思われて、腑に落ちないものが残る。

□「プシュケーのいのち」論争

 金城氏はおなじ教科書裁判の証人として立ったとき、聖書の言葉「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか、また人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ6:26)を引いて、人間の命の重さを語った。曽野綾子氏は「あの命(ギリシャ語のプシュケー)は戦争でも失われない永遠の命のことで、金城先生の聖書解釈は間違っている」と指摘したと言う。すると金城氏は自分の聖書解釈の誤りを認めた。(同書、185頁)。「プシュケー」(命)について、いろんな解釈があるのかも知れないが、少なくとも、聖書に出てくるブシュケーは永遠の命ではない。プシュケーは生きとし生きるもの、生まれて死にゆく「限りある命」をさしている。野の花・空の鳥の命は人間の命と等しく限りある命、プシュケーである。永遠の命は「ゾーエー」であって、「プシュケー」は限りある命である。曽野綾子氏は戦争でも失われない永遠の命というが、そうではなくプシュケーの命は戦争で失われる命だ。そのゆえに大切にされなければならない命である。金城氏のはじめの発言は間違いではなく、訂正する必要はない。曾野綾子氏の指摘こそ間違いに基 づいている。大事な問題だと思う。再検討してもらいたい。

二、慰霊塔碑文に見られる戦争責任意識

まるで各県の威力を競い合うように慰霊塔がたちならぶ摩文仁(まぶに)の丘は沖縄最後の激戦地となった。筆者の父の里もこの一帯糸満市米須にある。屋敷は破壊され艦砲射撃による爆弾の破裂したところが池になり、バナナやマンゴーがその後に生え出た頃、訪ねたことがある。その後、摩文仁の丘は慰霊塔の建設ラッシュとなる。
「靖国神社国営化反対沖縄キリスト者連絡会」は沖縄にある慰霊塔の碑文を調査し、「戦争讃美に意義あり!」〜沖縄における慰霊塔碑文調査報告〜をまとめて一九八三年に出版した。この項は本書を参考にした。
調査された塔は一四○。便宜上、建設年代を一○年毎に四期に分ける。
第一期は、戦争直後、一九四○年代に建てられた。ひめゆりの塔、アニーパイルの碑、沖縄殉職医療人之碑文があり、地元の人たちが建てた。碑文はないか、あっても事実経過のみを記してある。
第一期、一九五○年代に二一の塔が建てられた。そのうち一つだけ北海道のもので、あとは地元のものである。戦争・戦死者肯定の碑文は見られない。碑文はないか、事実経過だけである。島守の塔、魄粋之塔、萬魄の塔、守魂の塔には碑文らしいものはない。沖縄師範健児之塔に付置された「平和の壕」碑文、でいご之塔は事実経過のみを記している。
第三期、一九六○年代になると、七三の塔が建てられた。そのうち五七%にあたる四二が他の府県の塔であり、この時期に集中的に建てられている。このうち三二県の塔の碑文は戦争・戦死者を肯定し美化する調子が強い。また愛国の心情をたたえている。
府県以外のものが二○ある。そのうち一五基は軍関係戦没者のために沖縄県遺族連合会が建てたものである。この頃は日本の高度成長期にあたり、一九五三年に池田首相とアメリカのロバートソンが会談し、軍国主義意識が高まっている。家永三郎氏の日本史の教科書が検定不合格になったのは一九六三年のことであった。歴史の書き直しが主張され、大東亜戦争という呼び方が意図的に使われるようになり、いわゆる一五年戦争そのものが肯定的に評価されはじめた。
第四期は、一九七○年代に建てられた。二○の塔のうち他県のものは三基ある。いずれも戦争讃美調で、義烈空挺隊慰霊塔、嘉数の塔、風部隊之塔、青丘之塔、野重二三慰霊塔などがある。

□戦争讃美

「大東亜戦争の大義に殉じ」(福井)、「国難に殉じ」(岩手、長崎、熊本)

「祖国防衛の御楯として」(大阪、同じ趣旨山形ほか)、

「本土防衛の防波堤となって・・・国家の栄光の前に捧げた・・・諸霊の愛国の至情は仰いで範とすべく・・・」(茨城)、「偉勲を顕彰し」(熊本ほか)
「英霊の遺された崇高な御精神をたたえ」(高知)
これらは戦争を肯定的に評価している。間違っていたとは認識せず、正しかったとする戦争観があらわされている。もう少し見てみよう。
「祖国の安泰と繁栄を願いつつ、・・・その任に倒れその職に殉じた・・・将兵文民の不滅の偉勲をたたえ」(静岡の塔)、「祖国日本の繁栄を念じつつ国難に殉ぜられた崇高な憂国のまごころをおもうとき」(長崎の塔)、「不滅の偉勲をたたえる」(静岡の塔)戦時下の英霊顕彰の思想がそのまま残っていて、戦死者を肯定し賛美している。戦争の大義、祖国の栄光、本土防衛、不滅の偉勲などがキーワードとなっている。このような戦争美化によって、沖縄および周辺諸国への侵略の犯罪行為が帳消しになるだろうかという疑問が残る。

□慰霊の心情
「追慕の誠をささげ」(岡山)、「慰霊の誠をささげ」(東京)
「・・み霊やすかれと祈らざめや・・」(広島)「英霊を慰めるために」(佐賀)
おなじ慰霊でも広島の平和公園には次のようにある。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから・・・」と原爆を戦争の過ちのあらわれとする認識を示して、繰り返さない誓いがなされている。沖縄には戦争を過ちとする慰霊の碑文はない。

□事実記述
地元の人たちによって建てられた塔には、碑文がすくない。あっても戦死にいたる事実経過が記されているにとどまる。でいごの塔、白梅の塔、ずいせんの塔、ひめゆりの塔などがある。

□その他

韓国人慰霊塔

「一九四一年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年達は日本の強制的徴集により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用ととして動員された一万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざるこれらの冤魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り、風となって吹くであろう。この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれの全韓民族の名においてこの塔を建てつつ死んで英霊の冥福を祈る。願わくば安らかに眠られよ」。一九七五年八月 韓国人慰霊塔建立委員会
同内容の英訳もある。

□姫百合の塔(糸満市字伊原)
昭和二十年三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ
米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒に百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原村陸軍病院の勤務に就いた。戦闘がはげしくなるにつれて前線からはこばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦生徒たちは夜昼なく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は、重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐりほうたいをちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南に下がって後は、病院は本部第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれ業務をつづけ、第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。
よく十九日第三外科の壕は敵襲をうけガス弾を投げ込まれて地獄絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕をならべた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備せられた。ここに、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員十六名生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
いわまくらかたくもあらむやすらかに
ねむれとぞいのるまなびのともは (仲宗根政善氏の歌)
建立年月日 一九七五年
建立者 財団法人沖縄県女師一高女 ひめゆり同窓会

三,琉球弧の文化  キリスト教
ケダシ ショウテイ セイカノヒト タシカニ カナシヤシ
(神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された)琉球語訳聖書
中国では神を「上帝」と呼ぶ。ベッテイルハイムが沖縄で聖書を翻訳した時、神を「ショウテイ」と訳したのは中国語訳聖書にならってものと考えられる。一八五二年琉球役人がベッテルハイムの聖書翻訳を手伝っているとの情報が奉行の耳に入り、協力者は始末書を書かされた。協力者を失ったベッテルハイムは八年におよんだ琉球伝道を閉じて、ペリー提督のポーハータン号で琉球を去った。

ベッテイルハイムは一八一一年ハンガリーのプレブスクに生まれたユダヤ人。オーストリアのウィーンで学びイタリアのハドヴァ大学では医学を学び博士号を得た。一三ケ国語を習得した。医学の上では、コレラ伝染病の患者がひどい下痢症状で腹痛を

繰りかえして死亡することから、患者の飲料水は必ず煮沸した水を一時間に二リットル以上飲ませること、スルファド剤を与えるように提案した。この治療法は今も用いられている。スミルナに滞在していたときイギリス聖公会の洗礼を受けた。当時、ヨーロッパでは敬虔主義運動が盛んで、こぞって世界宣教が試みられていた。彼は一八四○年聖公会神学校に入学し、そこでアフリカ探検家リビングストンと出会い、未開地伝道を語り合った。ユダヤ人であるために按手礼が受けられず、医師兼宣教師として琉球に派遣された。ロンドンで学んでいたとき、病院看護婦をしていたエリザベス・バードウィックと知り合い結婚した。彼女の実家は裕福な製菓業者であったためにその支援をうけることができた。香港で通訳官をしていたとき、日本人漂流民から日本語を学んで、一八四六年、琉球に着任。夫婦は熱心に宣教し、昼夜、漢訳パンフレットと欽定約英語聖書を分からせようと路傍説教を始めたが、猛烈な役人の反対にあって挫折した。しかし、一八五二年までには「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の四福音書と「使徒行伝」を訳し終えていたと思われる。これらの聖書はアメリカで発行された 。改訂版は彼の死後ウィーンで出版された。沖縄を離れたベッテルハイムはアメリカにわたり、南北戦争従軍医として働き、ミズリー州で死去した。
(参考書:聖書協会冊子「ソア」1996、キリスト教人名辞典、日本基督教団出版局、日本キリスト教歴史大辞典、教文館他)

四、沖縄問題 課題と展望
 戦後の沖縄は、連合軍の信託統治下におかれ、軍事基地がもたらす被害に苦しんだ。
一九七〇年、沖縄は日本に返還された。本土に復帰したととらえる見方もある。第三の「琉球処分」であったとするなら、今回、土地を永久的に強制収容できる立法は第四次「琉球処分」とでも言うべきであろう。これにより、米軍基地が縮小されたわけでも、無くなるわけでもない。米軍による性犯罪は、たえることなく、昨年の女子中学生陵辱事件は、基地返還の願いを高めた。いったい沖縄はどこへむかって進むのだろうか。曽野綾子流に言えば、大の虫を生かすために沖縄は小の虫でありつづけ、犠牲を甘受しなければならないということになる。
 沖縄は日本から独立した国でありたいと願う人たちは多い。その独立論はどんなものであろうか。今年七月一日、香港の施政権がイギリスから中国に返還された。これからの香港がどのような道を行くか興味深いし、参考になる。沖縄をこれまでの香港のような特別区にするのはどうだろうか。このような提案がまともに受け止められることは難しいらしい。なぜ沖縄だけなのか、北海道も特別区にせよ。こういう意見が国中に起こるから駄目だというのである。
以下新聞記事によって、沖縄軍事基地問題を見よう。

◆沖縄県民、6割が反対 特措法改正で世論調査  97.04.10  (全848字)
 沖縄の米軍用地を、国の強制使用期限が切れた後も継続使用するための駐留軍用地
特別措置法(特措法)改正案をめぐる国会審議がヤマ場を迎えている。朝日新聞社は
沖縄タイムス社と共同で五、六の二日間、沖縄県内で電話による世論調査を行い、県
民の意識を探った。「改正案に反対」が六一%で、賛成は一五%。反対の人の中では
「沖縄に対する差別的な改正」を挙げる人が四割にのぼった。その一方で、改正案へ
の態度を明らかにしない、「答えない」とした人が一六%を占めた。基地の整理・縮
小のため、在沖米海兵隊の兵力削減を求めて渡米する大田昌秀・沖縄県知事の姿勢を
支持する意見は八〇%に達した。改正特措法が成立すれば、沖縄に集中する米軍基地の重圧から将来も逃れられなくなるのではないか――。地元ではそんな懸念が広がっている。
 世論調査では、法改正論議に「大いに関心がある」と「少しは関心がある」を合わ
せると八五%を超え、県民の高い関心を示した。
 特措法改正論議の発端になった「象のオリ」と呼ばれる楚辺通信所(読谷村)の一
部用地は、国の強制使用期限が昨年三月末で切れた。国の「不法占拠状態」は二年目
に入ったが、これについては五四%が「問題がある」としている。
 普天間飛行場の返還に伴って、国は沖縄本島北部・名護市のキャンプ・シュワブ沖
に代替ヘリポートを建設する計画だ。だが、世論調査では、六四%が建設計画に反対
した。
 米軍基地の整理・縮小の是非などを問う県民投票が昨年九月に行われた。投票日直
前に行われた今回と同様の電話世論調査では、ヘリポートの県内移設に反対する声は
五一%だった。
 大田知事は十二日から渡米し、在沖米海兵隊の兵力削減を軍事関係者らに重ねて訴
える。こうした知事の姿勢については八〇%が支持を表明し、「支持しない」は七%
にとどまった。
 一方、米軍基地問題への橋本首相の取り組みに対しては「大いに評価する」と「少
しは評価する」が合わせて四二%、「あまり評価しない」と「全く評価しない」が四
八%で、評価は二つに割れた。
◆ 大山朝常さん著「沖縄独立宣言」(沖縄から 復帰25年) 97.05.05
 沖縄県コザ市(現在の沖縄市)の元市長で九十五歳の大山朝常さん=写真=が、
「沖縄独立宣言――ヤマトは帰るべき『祖国』ではなかった」(現代書林)という本
を出版した。駐留軍用地特別措置法が改正され、沖縄の現状が改めて問われる今、老
政治家が「私の遺書だ」と書き記すこの本は、沖縄でベストセラーになっている。
 大山さんは自分の子どもを含め多数の死傷者が出た沖縄戦を経験、一九五八年から
七四年までコザ市長を務めた。米軍車両などが焼き払われた七〇年の「コザ暴動」は、
市長として直面した。
 変型B6判、約二百ページ。実体験をもとに苦難の連続だった沖縄の歴史をたどっ
ていく。ヤマト(日本本土)との関係を振り返り、沖縄に平和で豊かな暮らしを取り
戻すには独立しかない、という内容だ。そして、沖縄の歩むべき姿を、かつてアジア
との交易で栄えた「琉球王国」に求めている。
 大山さんはヤマトへの不信感を隠さない。「沖縄はヤマトに差別され続け、基地と
いう重い荷物を背負わされてきた」と話す。本の中でも「アメリカに沖縄を差し出し、
日米安全保障という軍事力の傘のもと、戦後の経済復興を果たしてきたのがヤマト」
「どこまで沖縄人を踏みつけにすれば気がすむのでしょうか」とつづっている。
 反響は大きく、沖縄では四月半ばに店頭に出てから半月で売り切れ状態。那覇市の

文教図書では八十冊仕入れたがもう在庫がない、という。
◆ 沖縄、きょう復帰25周年 米軍用地は暫定使用に 97.05.15
 沖縄が日本に復帰して、十五日で二十五周年になる。沖縄の自立と発展を阻む「基
地の島」からの脱却をめざして四半世紀。特に一昨年の少女暴行事件をきっかけに高
まった基地縮小を求める県民の声は、日米安保体制が沖縄の負担の上に成り立ってい
る現実を浮き彫りにした。四月の駐留軍用地特別措置法(特措法)の改正で米軍基地
の継続使用が可能となり、沖縄が米軍戦略のかなめ石という位置づけは、冷戦終結後
も変わらない。新生・沖縄のスローガンだった「本土並み」の実現は、経済振興も含
め、なお大きな課題として残ったままだ。
 復帰記念の十五日、嘉手納飛行場など米軍の十二施設の一部用地が暫定使用に移行
する。使用期限が切れた後も、安定した基地提供ができるよう、与野党の枠を超えた
圧倒的多数で四月に成立した改正特措法が適用されるためだ。

課題と展望
沖縄に似た国でイギリスにアイルランドという島がある。アイルランドは長い間貧しくて、アメリカなどへの移民の国であった。ところが、最近、電子立国として注目を浴び、最も繁栄してる国といわれる。(「アサヒパソコン」)法人税を一○%として、企業を誘致したのである。島の若者たちのために大学をつくり、電子についての知識を教えているという。もう移住はしなくてもよい、豊かな国となったのである。筆者が使っている「デル」(DELL)コンピューターも電話するとアイルランドで待機する二四カ国の言葉で応対するオペレーターにつながり、注文すると一週間で商品が届けられる。通信販売はここまで進んでいる。そうすることができるのである。沖縄もそのような道を開拓してもらいたいと思う。

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