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一、アイヌの歴史「アイヌ ネノアン アイヌ」
萱野 茂
アイヌ文化のすぐれた伝承者である萱野茂さんは子ども時代の思い出とそのころのアイヌ生活や考え方を記して「アイヌ
ネノアン アイヌ」をあらわした。以下本書から抜粋させていただいた。萱野茂さんは社民党の比例代表区から当選した参議院議員である。「アイヌ土人法」の廃棄を訴え、今年、やっとアイヌ土人法の廃棄を実現した。
「わたしは、北海道のアイヌのコタン(村)に生まれ、そこでそだちました。
子どもってどこでもそうでしょうが、私たちもほんとうによく遊びました。
コタンのすぐ近くに、森や林、かわや野原といった遊び場がたっぷりとあって、春は、野原で花をつんだり、夏は川原にフキで小屋をつくって、川遊びをしたり、秋は秋で、山で木の実をつんで食べたり、それに冬には雪のつもった小高い山の斜面でそりすべりをしたりして、毎日毎日、よく遊びました。
・・・・・
むかしは、アイヌがアイヌモシリ(アイヌ語でアイヌのしずかな国土という意味)とよんでいた今の北海道では、男たちは、山ではクマを、海ではアザラシを、また、川ではサケをとったりしていました。女たちは、山で山菜やキノコをとったり、家で機を織ったり、食事のしたくをしたり、そしてクマ送りなどの行事は、男たちも、女たちも、子どもたちも総出でおこなっていました。ここでは、アイヌ民族だけが自由にくらしていたのです。
・・・・しかし、和人がこの大きな島にはいってきてからというもの、アイヌ族にとって、とても苦しい時代がはじまりました。はじめ、和人は、米やたばこ、それに漆器などをもってきて、アイヌのとっていた魚や毛皮などと交換をしていました。でも、アイヌがこうした交換にふなれなことがわかると、数をごまかしたり、約束をまもらなかったり、不平をいえばおどしたりと、まったくひどいことをしました。また、あるときには、アイヌの娘にむりやり自分のせわをさせたりということもありました。この人間を人間とも思わない和人のやりかたにおこったアイヌは、いくたびか和人と戦いました。アイヌのもっていた弓矢のちからと勇気で、勝ったこともありました。しかし、武力と計略にまさった和人が、けっきょくは、この戦いに勝ったのです。それからというもの、この大きな島は和人の支配下におかれてしまいました。
私のひおじいさんのトッカラムという人は、和人のどれいにされました。トッカラムカが一二歳のとき、北海道の東のはし、厚岸へむりやりつれていかれましたが、けがをすれば家にかえしてもらえるだろうと、家へかえりたい一心で、自分で自分の指をきりおとしてしまいました。こういうつらい話は、いっぱいあるのです。そして明治時代になると、和人がかってにきめた法律にしばられ、それまで自由にとって食べていたサケをとってもつかまるということになったのです。家をたてるために立木をきっても、ぬすんだといわれ、丸木舟をつくるためや、まきにするために木をきってもおなじです。この大きな島を、アイヌ民族は和人にうったおぼえも、かしたおぼえもないのですが、和人の侵入によってアイヌの自由がふみにじられてしまったのです。
私が子どものころ、アイヌの人たちがどんなことを考えながら生活していたかを、まず食生活からお話ししましょう。
アイヌにとって食生活といえば、サケです。 山のアイヌである私たちがサケをとるのは、九月から一一月にかけてです。この時期サケは産卵のために川をのぼってきますがこのサケを独特なしかけのついたもりでとりました。
でも、むやみにとっていたのではありません。九月と一一月はその日に食べる分だけしかとりません。保存用にたくさんとるのは、一一月になってからでした。このころになると産卵もおわって、あぶらっけがなくなり、保存しやすかったということもありますが、なによりも産卵したあとですから、いくらとってもサケがへってしまう心配がなかったからです。このようにアイヌは、サケの数がへらないように、考えてとっていました。・・・・ アイヌは狩猟民族だ、とよくいわれますが、それは明治時代ぐらいまでで、私が子どものころには、もう狩猟で生活していた人はいませんでした。クマも昭和一五年ころに、一頭とれたときいたぐらいで、私のすんでいる二風谷のあたりでは見ることもできないし、ましてやそのにくなど食べたことがないといってもいいほどです。 それでも、山が食料保存庫であったことにはかわりありません。山では、山菜やキノコ、木の実などがたくさんとれたからです。これらは、野菜がすくなかったころには、たいせつな食料でした。ところで、おばあさんやかあさんと山菜をとりにいくと、たくさんあるフキやギョウ
ジヤニンニクをとるときにでも、まるごとぜんぶとってしまうことは、けっしてしませんでした。根こそぎぜんぶとってしまえば、つぎの年は、もうそこでとることができません。サケをとるときとおなじように、数がへらないように注意してとっていたのです。穀物などを畑でつくってはいましたが、このようにアイヌの食生活は、自然の川や山、場所によっては海のめぐみをたっぷりとうけていたのです。
「土人法」 
萱野さんがいう「和人」の侵入は、「北海道旧土人法」(以下「土人法」と呼ぶ)によって、アイヌの土地をとりあげ、北海道を植民地として「開拓」してきた「日本人」によるものであり、その歴史を語っている。
「土人法」の第一条に「北海道旧土人にして農業に従事する者または従事せむと欲するものには一戸に付き一万五千坪以内を限り無償下付することを得」とある。
この法の目的は、アイヌを農民として自立させることにある。第九条は「北海道旧土人の部落を為したる場所には国庫の費用を以って小学校を設くることを得」とあり、アイヌを「和人」と同化させることを目指した。
しかし、アイヌの多くは農業に不慣れで、下付された土地が農業に適していないものがあったり、指導や保護が十分でなく、法律の効力はあまり発揮されなかったという。それから一一年を経過した一九一○年(明治四三年)、アイヌに給与された土地は約六、九二三町であり、その時のアイヌ系の人口は四、二八六戸、一七、五五四人であり、この法律によって全戸を満たすとすれば、二一、四三○町となる。実際には三分の一ほどが実施されたのである。
一九三七年に土人法が改正された。相続する以外に譲渡を認めないとする法律が取り払われ、それにともない給与地は下付しないこととなった。また「旧土人学校」を廃止した。これによって、アイヌは「倭人」と同化して、大日本帝国臣民になったものとみなされた。
戦後
第二次大戦後に行われた農地改革がアイヌにも適用されることになり、給与地が失われるとして、返還運動が起こった。この運動は皮肉な二面をもっていた。その一は、大土地所有を廃し「自作農創設特別措置法」によって、アイヌの人も個人で農地を取得できた。もう一つの面は、一戸に一万五千坪(五町)を給与するという旧法の廃棄により、大土地所有ができなくなるという矛盾となって混乱を生じた。
また一九四七年に生活保護法が制定され、土人法にあった疾病者、傷痍者の医療保護、就学資金、住宅改良資金の給付が廃止となった。すでにこの時点で土人法の内実は消失したのだから、廃棄されるべきであった。(以上河野本道、「アイヌ史/概説」より)
二、キリスト教の関わり 
一、北海道南西部岩内町に現存する木造の子育て地蔵菩薩が実は隠れキリシタン像である。江戸時代に発掘された石炭堀の労働者の中に、またニシン漁のために出稼ぎに来た人たち、あるいは砂金の発掘にきた人たちのなかに、隠れ切支丹がいた。森梢伍氏は地蔵菩薩から、北海道の隠れキリシタンを研究している。(「蝦夷地切支丹異聞」日本評論社1985)
二、一七四七年、ギリシア正教の司祭ヨアサフがクリル列島に派遣され、受洗者二○八人が記録されている。(ポロンスキー「千島誌」)
三、バチラー(John Batchelor 1854-1944)は、イギリス人聖公会の宣教師として、一八七七年(明治10)函館に到着、戦争で日本を去る一九四四年まで、アイヌを愛し伝道に献身した。彼はアイヌ語辞典を編纂し、聖書のアイヌ語訳をあらわした。また「アイヌ保護学園」後に「バチラー学園」と改名した学校を建て、子供たちの教育普及を図った。また「アイヌ施療病室」を造った。
以下彼の著「アイヌの伝承と民族」(The Ainu and Their Folk-Lore)[青土社、1995]を吟味したいと思う。
パチラーは函館でアイヌをはじめて見、アイヌ伝道を決心した。有珠に行ったとき、モコチャロ、日本名向井富蔵と親しくなる。有珠は元横綱千代の富士の出身地として知られている。また平取を訪ねベンリ村長からアイヌ語を学んだ。
来日より四年後に一時帰国、ケンブリッジ大学などで学び、「アイヌ語彙集」を発表した。一八八三年再度来日、金成太郎がアイヌで最初のキリスト教徒となった。
バチラーの著作は次のとおりである。
「日本国北海道蝦夷今昔物語」(1984)、「アイヌ語文法」
「カムイとアイヌ語について」「アイヌ民間伝承の見本」
「日本のアイヌ」「アイヌ炉辺物語」「アイヌ語の地名」「アイヌの民間伝承」
「アイヌ人及其説話」「アイヌとその民間伝承」「北海道の穴居民」「アイヌの生活と伝承」「アイヌ英和辞典」
聖書:「マタイ伝」「ルカ伝」「マルコ伝」「ヨハネ伝」「詩編」、「新約聖書」をアイヌ語に翻訳
バチラーはアイヌの人たちのために働こうとした理由を三つあげている。
その第一はアイヌにキリストの教えを教えたい。第二に、アイヌに神の慈愛、憐れみ、光を知らせたい、第三はアイヌの宗教、言語、習慣など大きな価値があることが日本人にはわかっていない。それでアイヌを研究する決心をした。
彼は言う「大和民族の中の多くの人たちがアイヌ人たちを無残にあしらい、いやしめ、圧制するのを見聞きして、それは神様のお心でもない、また[天皇]陛下のお心でもない、また人道でもない、まことに残念なことだ、私一人でも哀れなアイヌの村へ行って共に住んで、兄弟同士のように愛をもって交際し、よい道を教え、慰めて、神様のお光りを知らせたいと思った」(490頁)
明治一一年、当時の札幌は人口が八八四二人、開拓使と札幌農学校があった。彼は長官黒田清隆に会い、また農学校の学生たちと歓談した。農学校にはアメリカ人教師が四人、学生二四人がいた。一八八三年、彼は家のない貧しいアイヌの少女を保護することにした。しかし家に女性がいないと少女を保護することも、教育することもできないと痛感し、妻をもらう決心を固め、函館宣教師会の代表で日本聖公会北海道監督ウォルター・アンドレスの妹、ルイザと結婚した。新郎二九才、新婦四二才であった。
一八八五年、夫妻は函館から船に乗って大阪に行った。大阪でアイヌについて講演した。この講演で富士山のフジはアイヌ語だといい、二つの観点から説明した。アイヌは日常使われる火で、アベという。もう一つは礼拝される火、または女神とみなされる火で、フチという。樺太ではウンジという。これが富士山のフジだと説いた。すると聴衆の若者が激高して「ノーノー」と言った。バチラーは「古事記」に書いてあることを示して、説明しようとしたが、若者たちは一層憤慨したという。
一八八七年、彼はロンドンの伝道協会に宛て次のような手紙を書いている。
「アイヌ民族は極端に貧しく、かつ圧迫されています。人々は彼ら自身の土地をもっておらず、日本人に適当にされています。アイヌは少しの自由行動も許されていません。今後彼らは土地を政府から買わねばならないでしょう。日本人のために働いているアイヌは金でなく、品物で報酬を支払われています。ですから、非常に貧しく、しばしば飲んで酔っています。多くの人は一年たっても一セント以上手にするのはむずかしいです。病人と死にかかっている多くの人々はなにをもって薬を買ったらよいのでしょうか」。そこで、彼は自宅に接して、アイヌの家屋の様式をとりいれたアイヌ施療病室を建てた。医者としては公立札幌病院長関場不二彦が奉仕してくれた。入院患者は一八九二年には一五名だったが、九三年には九八名、九四年には一三七名になった。トラホーム七%、リューマチ一二%、慢性胃炎一五%という記録がある。たえず赤字で経営は困難だったという。
バチラーは積極的に伝道し、室蘭、千歳、苫小牧、白老を訪ね、釧路、厚岸、網走、根室を巡った。馬を使った。一八九五年、アイヌの奉仕によって平取、有珠に教会が建った。日本人の牧師は日本語でしか説教ができなかったので悶着があった。日本の信者たちは教会でアイヌ語を使うことを禁止し、「アイヌ公会」という俗称を削除することを日本聖公会に求めたという。バチラーはこの一件を次のようにロンドンの伝道教会に報告している。
「日本人がアイヌ語を恥辱のことばとみなす考えは、それこそ彼らの大きな恥です。アイヌ自身は非常に恵まれた例外を除いて、彼らの祖先からの言葉を愛しています。そしてそれを知ることを愛しています。しかし、彼らは土着語で呼ばれるのをいやがります。彼らはアイヌ語でよばれると感情を害します。その理由は、彼らの祖先の土地を不当に取られたことをいやでも思い出すからだと申しています」
一九○六年(明治三九年)、バチラーは、アイヌ名モコチャロである向井富蔵と向井フユの次女八重子を養女にした。バチラー夫妻には子供がなかった。八重子二二才のときであった。彼女は婦人伝道師としてバチラーを助け、歌集「若きウタリに」で有名になった。
日露戦争によって、樺太が日本領になった。バチラーは八重子を連れてしばしは樺太アイヌの伝道にいった。樺太は一八九四年日本からロシアに譲渡されたが、戦争が終わった一九○四年に日本に返還された。
一九三六年(昭和一一年)ルイザ夫人が死去、九一才であった。バチラーは同年横浜からイギリスに一時帰国をした。五度目の帰国だった。イギリス皇帝から大英帝国勲章を授与された。
一九三九年、戦時色が強くなり、反英感情が強くなった。九月に英国がドイツに宣戦布告した。ドイツと同盟を結んでいる日本にはおられなくなり、骨を埋めるつもりでいた日本を、去る決心をした。ロンドン行きの船は危険であったので、カナダ経由で帰国。もう一度帰ってくるからアイヌ保護学園はそのままにするようにと、くれぐれも言い残して離日したという。一九四四年(昭和一九年)死去、九○才。
□評価 
バチラーがアイヌに接したとき、どういう風にアイヌを受け止めたか。上述のバチラーの手紙は三つの点をあげている。第一はアイヌにキリストの教えを教えたい。第二に、アイヌに神の慈愛、憐れみ、光を知らせたい、第三はアイヌの宗教、言語、習慣など大きな価値があることを認めアイヌを研究する決心をした。
北海道開拓の名目で、アイヌは土地を取り上げられ奥地へと追いやられた時代に、バチラーがアイヌを愛したこと。深い理解をもって、アイヌの言語と文化と宗教を研究し広く世界に紹介したことは、今からみると不十分なところがあるとしても、先駆的であった。例えばキリシタン時代の宣教師が背後にあるポルトガルまたはスペインの植民地の尖兵になり兼ねない利益代表者となったことを考えると、バチラーと彼を送り出した英国聖公会にはそのような意図は皆無だったのではないだろうか。この意味ではバチラーの純粋なアイヌへの動機を認めることができる。
「アイヌ語辞典」について、知里真志保はバチラーのアイヌ語辞典の「誤りを徹底的にこきおろしている」という。またバチラーが宗教者であり、キリスト教の宣教師であるというそれだけの理由で、敬遠したり批判がなされる。しかし、バチラーがアイヌ語で会話し、説教して、十分通じていた。この事は何をあらわしているだろうか。
梅原猛はバチラーの功績を次のように言っている。明治の初期、ラフカデイオ・ハーンやチェンバレンと同時代に、バチラーはアイヌ語英和辞典をつくり、今も四版がでて十分使われている。「バチェラーが宣教師であったからこそ、あれだけアイヌの文化を理解することができたのではないかと思うのです。それはどうしてかというと、彼は宣教師ですから、アイヌの文化を理解するためには、アイヌの宗教を理解しなければならないと考えたのです。私はつくづく思うのですが、アイヌ文化の本質は宗教だと考えています。そういう意味で、バチェラーがアイヌの宗教を研究したということは、彼のアイヌ研究をひじょうにすばらしいものにしたのだと私はつねづね考えているのです。」(「アイヌ学の夜明け」小学館225頁)
しかし、宮島利光は、アイヌを無視した「アイヌ研究」に対して知里真志保は怒っていると言う。(「チキサニの大地」)。
三、課題と展望 
○課題 自由な批判精神の保持
○ナショナル・トラスト運動 −アイヌ・シサム
共にすむ森
○ネイテイブ・ネット インディアン居留地を結ぶインター・ネット
○新聞に見るアイヌ新法
アイヌをめぐる議論は土人法の廃棄とそれにかわるアイヌ新法が焦点となった。運動の高まりの中で、「自由な発想が尊重され、中傷や妨害から全く保証される必要がある」と河野本道氏はいう。「アイヌ新法」制定運動が過熱する中で、それに対する批判がタブー視され、批判的な意見を持つ人が職場を追われた事例を挙げている。アイヌを被差別集団で弱者であると規定し、それに対する和人を差別者とする。このような図式に基づいて、人道主義的立場からあるいは贖罪意識から、被差別アイヌを無批判に支持する行為が見られるという。それは結局、免罪符を想定して自己を正当化し、満足させているにすぎない。前章の「集団自決」はなかったと結論する曽野綾子氏の調査について論じたように、史実をもとに、議論はさらに展開され、構築される。
次の章で「従軍慰安婦」はなかったとする「ゴーマニズム宣言」の作者小林よしのり氏らによるシンポジウム「新しい歴史教育の創造へ向けて」が四月二九日都久志会館で開催された。君が代斉唱、日の丸敬礼からはじまったという。こうした運動がどうしておこったか。人権運動が過熱するにつれて、史実に基づく丁寧で自由な議論を封殺し、タブー視する傾向がありはしなかったか。人権運動の一定の成果が見られると同時に、運動の絶対化が起こり、それに対する反動の攻撃が、アイヌに、沖縄に、在日韓国・朝鮮人に、向けられる。こうした批判・反批判の循環のなかに私たちはいる。これからの課題は、史実のおしつけでなく、史実を共有すること、また自由な議論の保証である。
さて、今年五月、福岡で開かれた「アジア開発銀行総会」と平行して、あるいは対抗して「ADB総会福岡NGOフォーラム」が開催された。このフオーラムに現在の方向性をみることができる。このフォーラムを紹介しよう。
「アジアを考える映画祭」 五月三、四日、六本の話題作を上映した。
@「忘れられた子どもち〜スベンジャー、 二万人が暮らすフィリピンマニラ市のゴミ捨て場「スモーキーマウンテン」の子どもたち。
A「GAMA〜月桃の花」 ガマとは珊瑚礁の島・沖縄にある洞窟。そこで沖縄戦の避難民が終結して悲惨な最後を迎えた。
B「人間の住んでいる島」 沖縄伊江島で反戦・平和を語り継ぐ阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さん九○才の叫びが若い世代に引き継がれていく姿を描いた。
C「絵の中の僕の村」
D「森よふたたび〜あるアイヌ一族の歳月」 北海道二風谷。一九九六年にダムが完成し、アイヌが生きてきた環境が破壊されていく。アイヌの長老貝澤正さんとその息子貝澤耕一さん。
E「教えられなかった戦争〜フィリピン編」
「開発と環境を考える市民フォーラム」
テーマ別分科会
T:先住民族 U:女性と開発 V:子ども W:人権 X:農村開発
Y:アジア開発銀行は援助機関なんですか?〜ADBのABC
Z:鷲見さんが切る! 日本の政府開発援助
[:博多湾開発
「ナショナル・トラスト運動 −アイヌ・シサム 共にすむ森」は、この「ADB総会福岡NGOフォーラム」の一分科として設定された「先住民」の人権を考える会の運動である。以下にパンフレットの呼びかけを抜粋して紹介する。
北海道の各地は、本来、アイヌ民族が自然と調和して暮らしていた“アイヌモシリ”(人間の豊かな大地)でした。大地と自然は、アイヌ民族の生活の場である“コタン”(村)から、“コタンコロカイム”(村を守る神しまふくろう)の住む森、そして“カムイイワキ”(神々の住む山)に至る一体のものでした。しかし、約五百年前からの倭人の侵入、略奪、森林伐採による自然破壊が起こり今なお進行しています。
一九九三年の「国際先住民年」を契機に、一九九四年一二月からの「世界の先住民の国際一○年」に向けて、私たちは、いま、一つの運動を始めます。北海道の各地で、とりあえずナショナル・トラストによって私有地の山林を買い取り、また土地所有者と保全契約を結ぶことによって、この自然破壊の流れにストップをかけ、本来のアイヌモシリとして再生していく運動です。
『チコロナイ』とは“私たちの沢”という意味で、昔、沢すじを中心に森の恵みを受けて生活していた地域をあらわしています。私たちは、この森林恢復の活動をとおして、かつてのアイヌ民族の自然と調和した“アイヌプリ”(生活の仕方)を謙虚に学び、侵略と人権抑圧の歴史をふまえて、アイヌ民族と、本来の意味でこの“シサム”(良き隣人)とが友好を深めることをめざします。これは、アイヌ民族のアイヌプリの精神と生活、文化を回復し伝承していく活動の発展に寄与するとともに、シサムにとっても、“人間本来の真に豊かな生活”を考え直す契機となるでしょう。
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活動内容
1.ナショナル・トラストで私有地山林を買い取り、『チコロナイ』として再生させます。
2.私有地山林の所有者と、一定期間(五年または10年)、代価を支払って保全契約を結び、自然林を保全し『チコロナイ』として活用します。
3.上記の目的のために募金活動を行います。また、趣旨を広め、活動を発展させるために、学習会、宿泊研修会などの催しや通信発行などを行います。
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第一期はすでに終了し次の成果があった。 一九九四年〜一九九五年の一年間、寄付は二六九人で総額
約四百万円。約三・四ヘクタールを買い取り、約二一ヘクタールの保全契約を結んだ。現地研修・交流を三回行った。
第二期の計画は一九九五年〜一九九七年の二年間、平取町二風谷周辺の山林、六ヘクタールの買い取りを目標としている。
事務局は「緑の地球ネットワーク」、世話人は武田繁典、現地代表は貝澤耕一
○問い合わせ先は 緑の地球ネットワーク 『チコロナイ』部会
郵便 552 大阪市港区市岡元町3-9-16 西建ビル
電話 06-583-1719
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2.ネイテイブ・ネット インディアン居留地を結ぶインター・ネット
都市から遠く離れた内陸部に散在するアメリカン・インディアン居留地は、交通も不便で、情報化社会のなかから取り残されてきた。先住民族でありながら、長い間その人権を否定した侵略・略奪に対する抗議ができなかった理由の一つに情報の問題があった。インターネットの発達は、先住民族の発言を他の発言と対等に受け入れるもので、新たなる運動を展開をしている。一九六○年代の公民権運動の盛り上がりと共に、先住民の意識も高まり、全米の大学にアメリカ先住民族研究のコースが解説された。それに伴いアメリカ史を先住民族側の視点から見直そうという動きが広がった。ペルーで起こった日本大使館人質事件はまさに、こうした問題の一つであり、MRPAグループはインターネットを駆使して世界に訴えた。
実際にインターネットにアクセスできるインディアンはわずかしかいないという状況であるが、ニューヨーク州のシラキュース大学にサーバーをもつネイフィヴウエブのアドレスは次のとおりである。「http://www.maxwell.syr.edu/nativeweb」
このネットは、世界を三二の地域に分けて、それぞれの地域の先住民についてのテキストを提供している。アイヌ民族のテキストはChittagong
Hill Tract(CHT)として掲載されている。 (ASAHIパソコン1996.11.1)
○新聞記事 アイヌ新法
◆アイヌ文化振興法が成立 「先住権」など盛り込まず 衆院本会議 97.05.08
「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)」は、八日午後の衆院本会議で全会一致で可決され、成立した。同時に、アイヌ民族の保護と同化を目的に一八九九年(明治三十二年)に制定され、差別的な呼称も含めて批判を浴びてきた「北海道旧土人保護法」など二法が廃止され、アイヌ民族政策がひとつの転換点を迎えることになった。アイヌ文化振興法はアイヌ民族という固有の「民族」を初めて法的に位置づけたが、中身は文化振興が中心で、アイヌ民族自身が求める「先住権」など民族の権利にかかわる項目は盛り込まれなかった。代わりに衆参の内閣委員会で「アイヌの人々の『先住性』は歴史的事実」など五項目の付帯決議がされた。
同法は、「アイヌ文化の振興」と「アイヌの伝統等の国民への知識の普及及び啓発」を図る施策の推進により「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」をはかることを目的に制定された。国や政令で定める地方自治体に対し、アイヌ文化継承者の育成、広報活動、調査研究の推進などの振興施策を進めるよう義務づけている。 アイヌ民族の最大組織、北海道ウタリ協会は一九八四年から、生活保護率や高校進学率などで格差が依然大きい現状を重視し、民族の権利回復を目指して先住権や民族議席、民族自立化基金などを盛り込んだ新法の制定を国に求めてきた。今回の法はアイヌ民族の権利回復に道を開くものではなく、施策が文化振興に限られたとする批判
も強い。
◆真の共生へ問われる今後 アイヌ文化振興法成立 97.05.09
アイヌ文化振興法が八日成立した。十年ほど前、首相が「日本は単一民族」と発言した我が国で、日本人以外の民族を初めて法的に位置付けた法律制定の意義は大きい。しかし、法の中身は文化政策にほぼ限定されており、アイヌ民族が求めてきた先住民族としての権利の保障は盛り込まれていない。日本人がアイヌ民族に対して行ってきた侵略と同化の歴史への言及もない。政府も日本人も、この法律制定がアイヌ民族問題の着地点ではなく、出発点にすぎないという認識で、実効性のある施策を積み重ねていくことが必要だろう。
(藤原千枝子・地域報道部 佐々木健・北海道報道部)
「旧土人とは、もしかして私のことでしょうか」。アイヌ民族初の国会議員となった萱野茂さん(七〇)は、当選後の一九九四年、参院内閣委員会で政府側に迫ったことがある。
「旧土人」。アイヌ民族をそう呼んだ「北海道旧土人保護法」が制定されたのは一八九九年(明治三十二年)。すでに主食のサケを取ることなどを禁じられていたアイヌ民族に農地を与え、それまでの狩猟・採取生活から一変した農耕生活を強要したこの法律は、アイヌ民族の「同化」を一層、推し進めた。
以来九十八年、文化振興法の成立で、旧土法はようやく廃止されることになった。
萱野氏は「アイヌと和人の歴史的和解の第一歩だ」と話す。
アイヌ民族の最大組織、北海道ウタリ協会もこの法律を受け入れる方向で、七月をめどに「財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」(仮称)が設立される運びだ。この機構は、研究者やアイヌ語の指導者を育成したり、小中学生向けの副読本の作成などを手掛けながら、文化振興を具体的に進めることになる。 「イオル(伝統的生活空間)の再生」の事業も進める予定で、これまでになかった取り組みが実現する。 だが、新しい法律の制定に評価の声がある半面、中身が不十分だという批判は根強い。
●文化事業に力点
ウタリ協会が一九八四年の総会で決めた「アイヌ新法」の原案は、アイヌ民族が先住民であることを強調し、「アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産」として、(1)民族議席の確保(2)教育・文化の保障(3)民族自立化基金の創設――など六項目の柱を立てていた。
ところが、今回の法案に盛り込まれたのは、協会が求めた項目のうち文化振興の一点だけに過ぎない。
法律の正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」。アイヌ民族側が求めた、旧土法に全面的に代わる「アイヌ新法」といえる内容ではなく、「文化事業推進法」という性格になっている。アイヌ民族が「先住民族」であるという事実にすら触れられていない。
法案作成の中心となった北海道開発庁は「先住性は立法の動機ではなく、先住という事実はこの法で規定する施策の推進とは関連がない」と説明する。だがその裏で、法律に「先住」という言葉を使うと、先住権を認め、土地を返せということにつながりかねないという不安が政府にあったのは確かだ。
民族問題に詳しい非政府組織・市民外交センターの上村英明代表は「法律の基本理念としての歴史認識が抜け落ちたことで、法律の性格や可能性が不明確になった」と指摘する。和人との生活の格差は歴然としている。新法制定運動が本格化して間もない八六年の北海道の調査では、アイヌ民族の生活保護受給率は全国平均の六倍近い六・〇九%。高校進学率も全国より一六ポイント近く低かった。さらに、アイヌの人たちの八〇%以上が「差別は現在もある」としていた。
ウタリ協会が新法制定を求めたのは、生活や差別に苦しむ状況を打開して、民族の権利が保障されることを目指したからだった。にもかかわらず、法律が文化振興にとどまり、福祉対策が従来通りのままになったことに、北海道平取町二風谷の農業貝沢耕一さん(五一)は「民族の研究や伝承など、アイヌを博物館に入れるようなことばかり。これでは、アイヌの生活は何ら変わらない」と言い切る。
●歴史認識も課題 
とはいえ、「民族としての誇りが尊重される社会の実現をはかる」とうたった法律が制定されたことは、転換点の第一歩になることは間違いないだろう。
この三月には札幌地裁でアイヌ民族を「先住民族」と明確に位置付けた「二風谷ダム裁判」の判決がでたこともあり、アイヌ民族を取り巻く環境は少しずつ変わってきている。
上村代表も「アイヌ自身が自前の弁護士を育て、法律を武器に権利を闘い取る時期がきている」と、法律制定を前向きにとらえる。
一般国民には、アイヌ民族の実情も差別的な旧土法があったことも、あまり知られていない。
政府は文化振興法を「未来志向」と自賛する。だが、過去に対する認識の共有なしに未来の共有ができないのも確かだろう。今回の法律も、アイヌ民族自身が十数年前から流れをつくったもので、和人の側から声があがったわけではない。
ようやく成立した新しい法律でさえ、過去への十分な認識と反省が反映されたものとは言い難い。まず、我々一人ひとりが、この百年の長さと重みを共に受け止めるべきではないだろうか。
<アイヌ文化振興法をめぐる主な経過>
1899年 「北海道旧土人保護法」公布
1934年 「旭川市旧土人保護地処分法」公布
80年 政府は、国連への報告書で、国連人権規約に規定する意味での少
数民族はわが国では存在しないと記載
84年 ウタリ協会、「旧土人保護法」の廃止とアイヌ新法の制定を決議
86年 中曽根康弘首相(当時)が「日本は単一民族」と発言
89年 政府がウタリ対策関係省庁連絡会議(74年に設置)の下に「新
法問題検討委員会」を置く
91年 政府、国連への定期報告書で、アイヌ民族が「少数民族であると
してさしつかえない」と立場を転換
93年 国際先住民年
94年 萱野茂氏、アイヌ民族初の国会議員に。「世界の先住民の国際1
0年」スタート
96年 官房長官の私的諮問機関「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇
談会」が報告書を提出。アイヌ民族の先住性を認め、「新たな立
法措置」(アイヌ新法制定)を求める内容
97年 政府、アイヌ文化振興法案を国会に提出。両院で「アイヌの人々
の先住性は歴史的事実」とする付帯決議
◆国、控訴断念を表明 二風谷ダム訴訟 97.04.09
北海道日高支庁平取町の沙流川に建設された二風谷(にぶたに)ダムをめぐり、
「アイヌ民族の文化享有権を不当に軽視した」として、建設省のダム建設の事業認定処分を違法とした先月二十七日の札幌地裁判決について、国と北海道収用委員会は八日、控訴しないことを正式に表明した。原告のアイヌ民族の地権者はすでに控訴しない方針を明らかにしており、「ダムの違法性」を認めた司法判断が確定する。だが、判決でダム予定地の収用裁決は取り消されておらず、ダム利用はこのまま続けられる見通しだ。
建設省はコメントの中で、道収用委員会の土地収用裁決が取り消されなかったことから「基本的に国の主張が認容され、ダムの運用にも支障がない」と控訴断念の趣旨を説明した。
◆アイヌ新法案、参院を通過 97.04.09
「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」案は九日、参院本会議で全会一致で可決され、衆院に送付された。
◆アイヌの先住権 二風谷ダム判決で注目(みんなのQ&A) 97.04.15
Q 民族ゆかりの土地をダム用地として強制収用されたアイヌの人たちが行政側を訴えていた裁判で、ダムの事業認定が違法だったとする判決が先月、出されたね。
A アイヌ民族最大の集落である北海道平取町二風谷(にぶたに)地区の著述業萱野茂さん(七〇)=現参議院議員=ら二人が、道収用委員会に収用裁決の取り消しを求めていた裁判だ。昔からサケを捕獲し、伝統儀式の場だった沙流(さる)川に国がダムを建設した。札幌地裁はアイヌを「先住民族」と認め、「民族文化の価値を国は無視した」と厳しく断じた。被告は控訴を断念、確定した。
Q 判決が注目されたのはなぜ?
A アイヌ民族に関する歴史認識や民族の尊厳、文化の重みについての初めての司法判断だった。同化政策がアイヌ文化を衰退させてきたとしたうえで「反省を込めた最大限の配慮」を必要とすべき国が十分な調査・研究をしなかったと結論づけたんだ。
Q 判決は「違法なダムでも完成している以上、取り消しは公共の福祉に合わない」と、収用裁決の取り消し請求は棄却したね。
A 二風谷の河原は戻らない。環境や文化の破壊を伴う大規模公共工事でも、強引に完成させれば「既成事実」と片付けられがちな状況は覆せなかった。でも、アイヌを明確に先住民族と認め、ダムにまさる価値を公的機関として初めて明言した意義は大きい。
Q 折しも「アイヌ文化振興法案」が国会に提案されている。どんな内容なの。
A 参議院を通過して、連休前後にも衆議院で可決、成立する見込みだ。アイヌ民族の誇りが尊重される社会の実現を目的に、アイヌ文化の振興、継承や国民への知識啓もうなどを国や自治体に義務付けている。
Q アイヌの人たちは喜んでいるんだね。
A アイヌ民族最大の組織、北海道ウタリ協会は「民族の存在が法律で明確に認められた」と歓迎の一方で、不満もある。一般のアイヌの人たちの不満は強い。
Q どういう点が不満なんだろう。
A 文化面だけに比重が置かれ、生活改善や差別の解消など、実際に抱える人権問題の解決の具体策に乏しいこと。そして、アイヌが先住民族である点に触れていないことだ。
Q どうして先住民族と認めないの。
A 「先住権」の問題が絡むからさ。先住権は国際的に土地返還や民族自治の問題と関連づけて論じられやすく、政府としては深入りしたくない。ほかの国民との関係で「法の下の平等」という問題も理由にしている。参院内閣委員会の質疑で、梶山官房長官はアイヌ民族の先住が歴史上の事実であることを内閣の総意とする、との見解を初めて示した。だが、法案を修正する考えはないようだ。
Q せっかくの新法も不十分なのか。
A 法制度上、「単一民族国家」の立場を取り続けてきた日本が、ようやく複数民族共生への道を歩み出したとも言える。ただ、ほんのスタート地点だ。国連人権委員会が先住民族の権利宣言を起草する作業を進めていて、政府も成り行きに注目しているよ。 (渡辺康人=北海道報道部)
【写真説明】 アイヌ民族が沙流川に舟をおろす伝統儀式「チプサンケ」。ここもダムの湖底に沈んだ
アイヌ ネノアン アイヌ、 萱野 茂
アイヌ史/概説、河野本道、
蝦夷地切支丹異聞、森梢伍、日本評論社、1985
ション・バチラー、アイヌの伝承と民族、青土社、1995
アイヌ学の夜明け、梅原猛、小学館
ASAHIパソコン、1996.11.1
[http://www.maxwell.syr.edu/nativeweb]

 
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