はじめに、在日韓国人の形成について、日韓併合と強制連行問題をとりあげる。次に、関釜裁判における、女子挺身隊及び従軍慰安婦提訴の「訴状」について学ぶ。最後に、在日韓国キリスト教会の存在とその働きについて、また日本のキリスト教会の取り組みについて学びたいと思う。
一、
在日朝鮮・韓国人の形成 
在日外国人の総数は約一二一万八八九一人、そのうち朝鮮・韓国人は、五六%の六九万人を占めている。(「出入国管理統計年報」一九九一年末) 「朝鮮人はずっと昔から、こんなにたくさん日本に住んでいたのではない。一九一○(明治四三)年、日本が韓国を「併合」し、日本の植民地としてからのち、日本への移住が増加し、ある時期には急増したのである。
(「在日朝鮮人−歴史と現状」明石書店、第四章在日朝鮮人の形成)
「在日朝鮮人人口」次の表を参照していただきたい。一九○九年には七九○人で、その多くは留学生であった。植民地支配の三六年間、敗戦の一九四五(昭和二五)年まで渡航者は増え続けた。敗戦の年、在日朝鮮人は二三六万人に達した。この時期の渡航について政府は、朝鮮の人口増加を和らげるいわゆる出稼ぎの人口移動として次のようにいっている。「その主な原因の一つは、朝鮮本土の人口増加であった。日本統治が開始された明治四三年末に約千三百万人であった朝鮮の人口は、終戦前には三千万人に近い数に達していた。特に南朝鮮における農村の過剰人口が、鉱工業の未発達な朝鮮内では吸収されないために、低賃金労務者として日本内地に渡航することとなった。その移住は、初めは近距離のための出かせぎ的な往来から、漸次、都市・工場・炭坑地帯に定住するようになった」(「出入国管理の回顧と展望」 法務省出入国管理局編纂、前掲書九三頁)。
上記の、日本政府の分析は事実ではない。植民地支配以前、外国人は労働者として入国することはできなかった。しかし、日韓併合後、労働力としての朝鮮人の日本渡航はなし崩し的に激増する。九州、北海道の炭坑、また各地のトンネル、ダムなどの工事現場で働かされ、事故で死者が出ても、放置されて消息不明のままの人が多い。
一五年に及んだ戦争は日本国内の物資と労働力をいよいよ枯渇させた。その疲弊度と渡航者の増加度とは無関係ではない。近年行なわれた調査は「強制連行」の色彩が明白であることを示している。また、不問にされていた「従軍慰安婦」として徴用した朝鮮、沖縄、台湾等の外国人女性に対する事実の究明がそれである。被害者の証言を聞くと、それが出稼ぎ的な人口移動と考えることはありえない。民族差別問題のなかのトピックスである。
□「従軍慰安婦」にされた少女たち 岩波ジュニア新書 石川逸子著 一九九三.六.二一 この重いテーマを、著者は「一人の女性と三人の少女たちのレポートや手紙の形式」で構成した。千葉県館山市にあるクリスチャン関係の民間構成施設「かにた村」訪問記からはじめ、そこに身も心もぼろぼろになって収容されている城田さんの経験したことを軸とし、十七才の時、朝鮮人慰安婦として強制連行された金学順(キムハクスン)さんのこと、尹貞玉(ユンジョンオク)さんのこと、金文淑(キムムンスクク)さんの経験を、わかりやすく書いている。
従軍慰安婦の問題は、性差別の問題でもあり、また民族差別の問題でもあるが、慰安婦にされた少女たちというテーマは、子どもの人権問題をも含んでいる。
「関釜裁判」
この裁判は、四人の元従軍慰安婦および女子挺身隊によって一九九二年一二月二五日に提訴された。彼女たちが連行された下関を裁判の場所に選んだのであるが、裁判所側は第一回口頭弁論直前になって突然「東京地裁に移送する」旨通達してきた。原告は老齢である上、韓国から東京への交通は身体的にも経済的にも、精神的にも殆ど不可能である。署名運動等の抗議によって、やっと九月六日に下関地裁で開かれることになった。裁判の行方に注目していただきたい。以下、本裁判の訴状を掲載する。歴史的な事実関係がこの裁判において立証されていく事になる。
二、
関釜裁判女子挺身隊及び従軍慰安婦提訴の「訴状」(資料参照)
頁頭へ
釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求事件 「訴状」
原告 河 順女(ハ スンニョ) 朴 頭理(パク トゥリ)
柳 賛伊(ユウ チャンイ)朴 小得(パク ソドク)
被告 日本国 一九九二年一二月二五日提出
請求の趣旨
一、被告は、大日本帝国の韓国併合と戦争への朝鮮人の動員により、原告らを含 む多数の朝鮮人に多大の犠牲を強い、かつ戦後放置してきたことを、国会及び国際連合総会において公式に謝罪せよ
二、被告は、原告河順女及び同朴頭理に対し、各自金一億一〇〇〇万円、同柳賛及び同朴小得に対し各自金三千三〇〇万円並びに右各金員に対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え
三、訴訟費用は被告の負担とするとの判決並びに第二項につき仮執行の宣言を求める。
請求の原因

第一 事実関係
一、日帝の韓国併合と戦争への朝鮮人の動員
1 韓国併合と植民地支配 (1) 韓国併合 (2) 植民地支配
2 強制連行
(1) 兵站基地化政策 (2) 皇民化政策 (3) 強制連行による労働力動員
3 女子勤労挺身隊
(1) 大日本帝国は、一九四一年一一月二一日、国家総動員法第五条に基づき、国民勤労報国協力令を公布し、年齢一四才以上二五才未満の女子について(第二条)、一年に付三〇日(後に六〇日)以内の労働を強制することができるようになった。
さらに、大日本帝国は、一九四四年八月二二日、すでに動員が実施されていた「女子勤労挺身隊」に法的根拠を与えるため、女子挺身勤労令を勅令第五一九号として公布した(官報一九四四年八月二三日)。これは、勤労常時要員としての女子(学徒勤労令の適用を受ける者を除く)の隊組織に依る勤労協力に関する命令にして国家総動員法第五条に規定に基づくものならびに当該命令に依る勤労協力を為すべき者及び女子挺身隊に依る従業を為す者の雇入、使用、就業、給与等に関する勅令であった。
同令第五条によると、挺身勤労を受けんとする者(会社・事業者等)は、地方長官に請求または申請し、同令第六条で請求または申請を受けた地方長官は、市町村長その他の団体の長または学校長に対し隊員となるべき者を選抜するよう命ずるものとされていた。そして、同令第一〇条は、挺身勤労を為す場合の女子挺身隊の組織・運営並びに隊員の規律に関し必要な事項は命令で定めることができるとしていた。この様に、女子勤労挺身隊はその募集・組織・運営・勤労における規律等すべてに於いて大日本帝国が直接関与していたものであった。他方、軍需産業に於いては、国家総動員法に基づく軍需工場事業場検査令(一九三九年一〇月一六日)、同施行規則、戦力の増強をはかることを目的とした軍需産業法(一九四三年一〇月三一日公布)等により、国による実質的管理下にあったものである。したがって、挺身隊に対する賃金未払い、工場等における過酷な強制労働及びその強制労働に伴い彼女らの身体あるいは精神・人格に深い傷を負わせたこと等、すべてその責任は日本国にあるものである。
4 軍需員としての動員
(1) 軍属 (2) 志願兵制度 (3) 徴兵制度 (4) 朝鮮人軍人軍属の処遇
5 従軍慰安婦
(1) 従軍慰安婦
大日本帝国は、「従軍慰安婦」という、兵隊の性的慰安を目的とする女性を軍隊内部あるいは軍隊の管理下に置き、兵隊との性的行為を強要し、終戦前後は軍とともに玉砕を強い、或いは現地に置き去りにするなどして、まさしく軍需品同様の消耗品として使い捨てにしたのである。
この様な従軍慰安婦を国家的組織として於いたのは、近代の戦争・軍隊の中では日本のみであり、歴史上類をみない非道な行為を日本は行い、なおかつ、戦後そ知らぬ顔をとおすという恥ずべき行為をしてきたのである。この従軍慰安婦の数は、朝鮮半島出身者だけでも約二〇万人ともいわれており、日本列島各地にもうけられた慰安所にも、多くの朝鮮人女子が従軍慰安婦として連行されてきていた。
従軍慰安婦については、最近になってようやく、その事実の一端が明らかになったものの、より詳細な点については、これからの究明を待たざるを得ないが、これらの女性の連行や慰安所の管理等に日本軍が直接関与していたことは今日では疑いのないものである。
(2) その起と背景
大日本帝国が、従軍慰安婦を何時から制度化ないし組織化していったのかは未だ明らかにはなっていない。けだし、従軍慰安婦にさせられた女性たちは、今日まで生き延びた者も恥辱のため押し黙り通し、一方の日本国側は、その関与を認めず、公的資料の確認ないし収集を懈怠してきたからである。かかる被害者の沈黙と加害者の黙秘による歴史の闇にあっても、日本軍が、中国侵略を開始した当初から略奪と強姦を日常的に行っていたこと、また、アジア各地に、日本人が経営する遊郭が発達していたこと、中国との戦闘が激化する中、軍首脳が自ら慰安所を解説し、後に現地の売春業者と秘密協定を結びその経営の一切を委託していたこと等の歴史的事実の発生が、同時期頃に従軍慰安婦が起こったことを窺わせるものである。日本軍は、兵隊が性病に罹患することによる軍隊内の士気低下を危惧し、中国及び南方侵略に伴いこれから増えるであろう兵隊の性的需要をまかなうべく、性病に罹患していない抵抗力のある若い女性を慰安婦として提供することが戦略上必要だと考えていたと思われる。
また、日本政府は、一九一九年に朝鮮で三・一独立運動が起きて以来、朝鮮人の民族独立意欲を挫折せる根本策として、朝鮮の青壮年達を半島の外に連行する政策、すなわち、青年達を軍隊や奴隷的労働に、女性達を日本軍の性欲処理の道具に狩り出すことを制度化ないし計画化したものと考えられる。
かかる戦略・政策を背景に、従軍慰安婦の大半を朝鮮人の女子から狩り集めたのである。
(3) 連行方法
女性達が、慰安所に連れてこられたルートは、様々であり、軍あるいは警察が直接連行する場合、軍に委託された業者が集める場合、あるいは朝鮮総督府の行政組織を利用して集める場合と様々である。そして、連行の手段も、騙す場合、誘拐する場合、有無をいわせず暴力で連行する場合と様々であった。特に、戦況が泥沼に陥った一九四二年後半からは、朝鮮半島南部を中心に陸軍・警察が地区別に慰安婦の数を割当て、手段を選ばず女性達を狩り集めた。狩り集められた女性達は、軍需物資を運ぶための船で武器・弾薬とともに運ばれていった。
(4) 慰安所の管理・運営
慰安所の設置・開設は、直接、軍が行うか、軍が業者に委託して行っていた。開設後、慰安所の管理・運営は軍の直轄が業者への委託、あるいはその偽薬になる場合もあった。連帯単位の部隊は、一つか二つの慰安所を抱え、師団司令部の後方参謀がこれを統括していた。
慰安所への従軍慰安婦の配属は、全て軍が決定ないし許可していた。また、慰安婦は、定期的に軍医の検診を受けた。慰安所内には、慰安所内での秩序維持のために、軍が定めた慰安所規定が掲げられていた。
(5) 従軍慰安婦の生活・実態
慰安所の多くか、概ね、兵隊が九時から一七時、下士官が一八時から二〇時まで、将校が二〇時から二二時、二二時以降は宿泊と定められていた。従軍慰安婦の多くは、毎日何十人もの軍人の相手をさせられた。公休日は月に一度であった。公休日には、学科と称して、戦力増強としての売春の重要性、アジアの解放等の訓話があっていた。訓話後に、月一番稼いだ従軍慰安婦の表彰があった。もっとも、従軍慰安婦の多くは、お金を手にすることはなかった。軍医が、週に一度、従軍慰安婦を検査し、性病を患っているものは隔離治療をすることになっていたが、戦争末期には、あまりに患者が多く慰安所の運営に支障をきたすことを恐れ、また、病室不足もあって医師も手を抜き、慰安婦の殆どが慢性淋病を患っていた慰安所もあった。性病による苦痛から逃れるために、酒や麻薬におぼれる従軍慰安婦もいた。自殺する者もいた。
(6) 帰還・戦後の生活
6 連行・動員された朝鮮人の帰還
二 原告らの被害事実

1(1) 富山不二越について
不二越鋼材工業株式会社(以下「不二越」という)は、一九二八年一二月二一日設立され、一九三九年一月一七日の軍需工場動員法公布後、海軍省指定工場となり、軍需会社法公布(一九四三年一〇月三一日)後、一九四四年一一月六日の同法施行により、第一次、第二次及び追加の軍需会社の指定を受け、同日、不二越富山工場は他の不二越の工場とともに軍需大臣及び海軍大臣の所管となった。不二越富山工場は、一九四四年、朝鮮からの女子勤労挺身隊一〇八九名及び男子報国隊五三五名を受け入れる。
既に日本軍が制空権及び制海権を全く奪われていた一九四五年三月、同行上は、軍需省と朝鮮総督府から、工具・工場及び製鋼所の一部の朝鮮への移設の命令を受け、工具・工場を平壌に近い沙里院に、製鋼所を力浦に移設することとなった。これに伴い、同年七月上旬には、同工場の労働者五七四名が沙里院に到着した。この中の四二〇名が朝鮮半島からの自余死勤労挺身隊であった。そして、沙里院の工場は稼働するに至らず終戦となった。
(2)一 原告柳賛伊の事情
原告柳賛伊は、原籍地である馬山市にて生まれ、両親、兄らと暮らしていた。学校は国民学校三年生まで通った。父は早く死亡。同原告は、一七才の頃、同人の兄が経営する果物・野菜等を売る雑貨屋の手伝いと家事をして暮らしていたところ、村の面長が家に訪ねてきて、日本の工場に就職するよう説得されて日本に働きに行くことになった。一九四四年六月の暑い日、原告は隣近所の李順 を含む五〇人余りの娘達とともに馬山から釜山に引率されてきた。同原告らは、草梁の軍部隊(現存)の中に三日間止まった。その間、三中井百貨店(釜山市役所別館)や道庁の見学をした。
その後、同原告らは、出身地別に「京幾道地区隊」、「仁川地区隊」、「慶北地区隊」の組に分けられ、記者に乗り釜山港まで行き、釜山から船に乗って下関に着き下船した。下関では、後に富山で同原告らの舎監になった三五才くらいの「オオムラ」か「オオモリ」という女性から、朝鮮吉良持ってきたお金等を預けろと言われて、同女にすべて預けた。下関から再び船に乗って富山で下船した。同原告らが辿り着いた所、富山の不二越の軍需工場だった。同原告らは、工場の寄宿舎の八畳部屋に一〇人位入れられ、厳しい規律の下で、早朝六時に起床して掃除をし、執心まで働かされた。同原告らは、以前は男達がやっていた仕事を二ヶ月位訓練を受けてやるようになった。原告らの訓練が終わった後は、男達はいなくなった。飛行機の部品らしい鉄の棒を旋盤で削る仕事であった。朝鮮人の娘達はきつくて危険な仕事をせられたが、日本人の娘達は易しい仕事をしていた。
同原告らは、外出の際は届け出が義務づけられ、下関で預けたお金等を返してもらうには、逐一理由を申し述べなければならないかった。給料については、担当の舎監は、後でまとめて支払うとはなしていたが、結局一銭もはらってもらえなかった。
旋盤の仕事は、つらく、機械で指や腕に生傷がたえず、一日中立ちと押しのため足がむくんで大変だった。着る物は、国防色の着物一着しかなく、依る洗ったものを翌朝着て仕事をしていた。時折、民族衣装のチマ、チョゴリを着ることができた。
食事は、少量のご飯と、朝は味噌汁、昼はタクワン、夜はおかずが一品で、何時も腹を空かしていたが、「天皇陛下のため軍人さん達は死んでいる。腹が減ったと不平を言うの者は非国民だ。」と言われて、我慢し続けた。しかし、あまりのひもじさに、近くの野原でむしって取った草を煮て食べたこともある。
そのうちに、メンスも止まってしまった。楽しみは、一日の仕事が終わったあとに風呂に入って疲れを癒すことぐらいであった。
同原告らの中にで、高等小学校を出た姉貴分の金泉出身のカネムラが作った挺身隊の替え歌をみんなで歌っていた。
不二越で働き始めて一年ほど経った頃、沙里院に工場が立つ予定と言うことで、同原告らは、富山から船で清津を経て沙里院に連れて行かれた。原告は、道中、木の皮を薄く切ったもので包んだ弁当を与えられていたが、船酔いがひどく食べることができなかった。沙里院についてから、一ヶ月の休暇を与えられ、沙里院から記者に乗って馬山に帰ってきた。再び、沙里院に出発する前に終戦となった。
同原告は、現在、息子夫婦とその子供二人と一緒の五人暮らしであり、息子に生活のめんどうをみてもらっているが、息子の仕事が順調とはいえず生活は楽ではない。同原告は、勤労挺身隊として徴用されたものの、慰安婦にされなかったことを不幸中の唯一の幸いと思っているが、今持って、徴用の不条理に納得できないでいる。
(2)二 原告朴小得の事情
2(1)原告河順女の事情
原告河順女は、1918年二月二日、原籍地である全羅南道霊光郡白岫邑大新里にて、父河東淑、母南東郷との間に長女として生まれた。父は農事に従事し、弟二人、妹一人の家族の中で育った。実家は農業とはいえ、小作農であり、生活は貧しかった。
同原告は、光州市の女学校に入学したが、途中退学し実家には帰らず光州で、家政婦としてあちこちの家で働き生活していた。同原告が一九才(一九三七年)の頃、原告が光州で呉服屋をしている社長の家で家政婦として働いていたところ、家の外から、若い日本人と朝鮮人の青年が手招きして原告を呼び寄せ「金儲けができる仕事を紹介するから」などと持ちかけられた。同原告は、どのような仕事なのか詳しく聞かないまま青年のついて行き、トラックに乗せられて、日本人の家と思われる所に連れて行かれた。同原告は、同所に一日泊められた翌日、麗見ずにある港から船に乗せられ釜山によって、大阪の港(連れていった日本人の男が「ここは大阪だ」と言った。)に着いた。大阪の港に、一旦降りて一泊し、再び、同原告と同じ朝鮮の娘たち四〇名あまりと一緒に船に乗せられ、大連に月、大連から南京まで汽車で、南京から上海までつ約一〇日間位かかったが、同被告は何も疑わず、同行の男達の言葉を信じてついて行った。上海では、アメリカ人かフランス人の租界区の近くにある長屋に入れられた。その長屋は、小さな部屋に幾つも区切られており、一つの長屋に三〇くらいの部屋があった。
同原告は、長屋に入れられた時は、炊事・洗濯をさせられるものとばかり思っていた。ところが、翌日、軍服を着た男が突然、部屋の中に入ってきて、同原告を殴り裸にしたため、原告は悲鳴をあげて逃げようとしたが、戸には鍵が掛かっていた。
それから、同被告は、客を取る以外は仕事をするなといわれ、「オトマル」という呼び名で軍人の相手をさせられた。いつも、朝の九時から依るの二時くらいまで、じんじんの相手をさせられた。長屋の一番端に、同原告らを管理している人の部屋があった。その管理していた人は、何時も下は軍服のズボンだったが、上はシャツだけだってりすることが多かった。長屋は、海軍の軍人を明いてにする人と、陸軍の相手をする人とに別れていた。同原告がいた長屋には「陸軍部隊慰安所」と書いた看板が掲げてあり、胃やんしょの管理は夫婦でやっていて、帳簿をつけていることもあった。
同原告は、軍人の相手をしたくないので、水死・洗濯などの家事をしていた中国人夫婦の手伝いに時々抜け出していた。同原告は、水死・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう、監督の朝鮮人の男に頼んだが、その度に、激しく殴られ生傷がたえなかった。
ある日、同原告は、どうしても耐えきれず、逃げだそうとしたが、右も左もわからないので戻ってきたところを、監督の男らに見つかり「殺してやる。」と棍棒で殴られ大出血した。その現場を見ていた中国人のコックが「血が出て死にそうだ。」といって、近くで商売していた西洋人の女を呼んできてくれ、その女性が、同原告を解放し傷の手当をしてくれた。三日ぐらい後に、慰安所に来ていた易しい日本人がやってきて陸軍病院に入院させてくれた。その日本人も、朝鮮人のかたを持ったということで上官から殴られたと、中国人のコックが教えてくれた。
同原告は、同病院に一ヶ月以上入院していたところ、美容院に人がいなくなり、近くの朝鮮人の集落で「解放だ。」と言って、建物を壊したり放火しているのを病院から見た。それで病院を出てみたら、長屋は誰もいず、軍人もいなくなっていた。中国人のコックはまだおり、同原告に、上海の港から釜山行きの船に乗るように教えてくれた。同原告は、埠頭で乞食のような生活をしながら帰国船を待っていた。ようやく、同原告は、帰国船に乗ってプサンに帰り着いたが、故郷の父母の下には、わが身を恥じて帰る決心がつかないままプサンで家政婦の仕事をしながら生活してきた。
一〇年前に、同原告は、妹の息子である甥の金鐘浩が、自分の家にくるようにと言ってくれ、甥が開けてくれた部屋に住むようになった。同原告は、家政婦をして働いていたときは、甥にいくらかのお金を入れてきたが、家政婦の仕事も五年位前からできなくなった。現在、同原告は、韓国政府から一ヶ月米五升と麦五合、燃料費二万ウォンの支給をうけて、甥の援助でどうにか生活している。雨が降ると頭が痛くなり、時々、頭が空白になる。
(2) 原告朴頭理の事情
三 戦後補償の国際的潮流
もとより、戦争によって諸未訓地人民や少数民族に被害を与えたのは日本だけにとどまらない。日本との同盟の下に戦争を遂行したナチスドイツは、多数のユダヤ人等の少数民族を強制収容所に収容し、虐殺した。民主主義を標榜したアメリカ合衆国やカナダも、太平洋側に住む日系人をその国籍の如何を問わず、適性民族とみなし、その財産を奪い、強制収容所に収容した。しかし、これらの諸国は、以下に述べるがごとく、その犠牲者らに対して、各国政府が大戦中の行為の過ちを認めて謝罪し、かつ、「内外人平等」を当然の前提として、補償に関する律法措置を講じている。
1 ドイツ
第二次世界大戦中の日本との同盟国であり、同じ敗戦国であるドイツは、敗戦後まもなく戦後措置が開始され、約一〇年前に一応の体系整備が整った。
(1)第二次大戦中の人的損害に対する措置として、旧西ドイツにおいて
戦争犠牲者援護法(一九五〇年)が制定されている。同法により、軍事上もしくはこれに準ずる任務それらに伴う自己及びそれと特有な関係による健康障害を受けた者に対して、治療、看護、戦争犠牲者への扶助、障害者への年金支給、死亡の場合の埋葬手当、遺族への年金支給の措置がとられている。
同法は、旧西ドイツ国内に居住する外国人にも適用があるほか、連邦各州政府が同法八条に基づく裁量行為として、連邦労働大臣の同意を得て外国に居住する外国人に対しても援護を与えている。
(2) また、物的損害に対しては、負担調整法(一九五二年)及び賠償補償法が制定されている。
負担調整法では、国民の間で特定の部分が受けた戦争被害を、被害を受けなかった国民にも等しく負担配分すべきであるとの基本理念のもとに、戦闘による破壊、旧西ドイツ領からの追放、引き揚げ等によって財産を失った者に対し、連邦予算から対物補償を行っている。その支出総額は、一九八七年末で、一一六五億マルクにも上っている。
また、賠償補償法では、国民の外国による私的被害に対する補償がなされている。
(3)特に、ナチス迫害の犠牲者の物的人的損害に対する補償措置として、左記の内容の連邦補償法(一九五六年)、連邦返済法、対イスラエル条約等が制定・締結され、(1)、(2)の特別法となっている。
(1)連邦補償法は、「ナチズムに対する政治的敵対関係を理由に、または人種、信仰、または世界観を理由にナチスの暴力装置によって迫害され、それにより生命、身体、健康、自由、所有物、財産、職業上の、経済上の出世に損害を被った者」(同法第一条)に対し、年金受給者は約一五万三〇〇〇人、補償月額は約一〇〇億円に及んでいる。
(2) 連邦返済法では、ナチスの迫害によるユダヤ人の物的被害(その四分の三が不動産の収奪による被害)を受けた個人に対して、収奪によって利益を受けた個人から財産を返済させるための措置がとられ、その支給総額は一九九一年一月現在で約三九億マルクに上っている。
(3) 連邦補償法および連邦返済法による給付は、約二〇〜二五%を国内に、約四〇%をイスラエルに、残りをその他の諸外国にあてている。特に連邦補償法による年金の支給は、約一七%が国内に、約八三%が国外に向けられている。
(4) 連邦補償法の適用からもれたナチス被害者に対する補償として、一九五二年にユダヤ人賠償法条約が調印され、この条約により、旧西ドイツ政府は、イスラエル政府に対して三四億マルクを、対ドイツ物質要求ユダヤ人会議(JCC)に対して五億マルクを支払った。
(4)外国人戦争被害者への補償方法としては、ポーランド、オランダ、ベルギー、オーストリア等の政府との間では、政府と旧西ドイツ政府が支払いのための協定を締結し、ドイツ政府が該当者の年金請求権の総額を一括払い
し、外国政府が国内的措置によって被害外国人個人に対して支給をしている。デンマーク、チェコスロバキア、ノルウェー、イスラエル等の国との間では、賠償に関する条約で外国人被害者に対する補償問題も一括処理されている。
フランスに対しては、連邦補償法からもれた被害者に対する政府の間の包括処理と適用被害者に対する個別支払いとが併用されている。
(5) 一九八五年、ワイツゼッカー大統領が連帽議会でなした「過去に目を閉ざす者は結局、現在にも目を閉ざすことになる」という演説はあまりにも有名であるが、ドイツの戦後補償は近年も左記のように充実され続けている。
(1) 連邦補償法の補償からもれてきた者に、「遺伝病的子孫忌避のための法律」(一九三三年)によって強制断種させられた身体・精神障害者がいるが、これらの人々に対しては、一九八八年五月五日ドイツ連邦議会により決議がなされ、一九三三年法の不正の確認と無効宣言がなされ、右決議に基づいて、最近、補償基金が設立れるに至った。
(2) ドイツ占領地からの強制連行労働者に関して、一九九二年三月ドイツ政府とポーランドとの間に「和解基金」が設立され、ドイツ政府は五億マルク(約四〇〇億円)を基金に拠出した。チェコスロバキア政府との間にも同様の交渉がなされている。
(3) 旧東ドイツ地域でおきた被害に対する補償、東欧諸国との補償問題等については、ドイツ連邦議会内に補償小委員会が設置されている。
以上のような戦後補償のため、ドイツは膨大な財政負担をしている。連邦補償法、連邦返済法その他の給付により、今後二〇三〇年までに、総額役三三三億六三〇〇マルクの給付が予定されている。
2 アメリカ
一方、第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカでは、大戦中の日系アメリカ人強制移住に対して、一九八八年に市民的自由法が制定され、補償措置がとられた。
(1) 日本によるパールハーバー攻撃後の一九四二年二月一九日、陸軍長官及び軍管区司令官に対し、「軍事上必要な場合には、軍事地域を設定する顕現とその設定地域から全ての人々を立ち退かせる権限」を付与する大統領政令九〇六六号が発布され、実際上日系人にのみ適用された。同令による自発的移住の試みを経て、同年三月から日系人は集結センターに集められた後、内陸部にある再定住センター(強制収容所)に送られた。この強制移住及び強制収容にともない、日系人は、財産上、精神上、あるいは自由に関する多大の損害を被った。
(2) 日系人強制移住に関しては、日系人の権利回復・補償要求運動が行われてきたが、一九八〇年七月三一日、アメリカ議会内に「戦時民間人再定住・抑留に関する委員会」が設置された。同委員会は、同年七月から一二月にかけて、西海岸を中心に二〇日間にわたる公聴会の開催、七五〇人以上の人たちからの証言聴取、当時の公文書の調査を行い、その結果を一九八三年二月二四日付報告書「拒否された個人の正義」にまとめた。同法は
日系人強制収容に関する事実関係や被害実態を詳細に報告したうえで次の五項目の救済韓国をなした。
(1) 強制移住の不法行為性を確認し国家が謝罪する旨をうたった上下両院合同決議を可決し、大統領がこれに署名すること。
(2) 人種的理由に基づく外出禁止令や退去命令等に違反したことを理由とする有罪判決の見直し等。
(3) 議会から行政機関に対して、日系人の権利回復申請について指示すること等。
(4) 議会は予算を支出して特別財団を設立し、基金を、このできごとを記憶にとどめ、この種の事件が起きた原因及び背景を究明、理解するための研究、学校教育に後援するすること。
(5) 議会が決める適切な期間に、一五億ドルを基金に支出し、この基金をまず大統領行政令第九〇六六号にしたがって居住地から強制排除され、現在なお生存する日系人約六万人に対し、一人当たり二万ドルの補償支払にあて、残りを福祉や国民教育にあてること。
(三) 右勧告に基づき、アメリカ議会は、一九八八年八月一〇日「市民的自由法」を制定した。同法は、強制収容が「人種的偏見、戦時ヒステリー及び政治的リーダーシップの失敗」によるものであると言及したうえで、謝罪条項を明記し、議会が国を代表して日系人に対し謝罪し、且つ、「市民的自由公共教育基金」の設立を定めた。
右基金により、収容当時、日系のアメリカ市民または永住外国人であった人で、かつ補償法成立当時生存していたひとであれば、現在の国籍をとわず、一人あたり二万ドルの補償金が支払われることとなった。一九八九年には、アメリカ政府が、問い合わせや申請受け付けのため、係官を日本に派遣し、一九九〇年三月から実際に高齢者より右補償が開始された。
一九九〇年三月、ブッシュ大統領から日系人にあてられた謝罪状には、「損害補償と心からの謝罪を申し出る法律の制定で、米国人は言葉の真の忌みで、自由と平等、正義という理想に対する伝統的な責任を新たにしました」とある。
3 カナダ
アメリカ同様連合国側であったカナダでも、第二次大戦中日系カナダ人に対する強制移住・強制収容が行われ、これに対し、同じく一九八八年に補償措置が図られた。
(1)一九四一年一二月八日、パールハーバー攻撃の直後、カナダ政府は約四○名の日系人を危険人物として逮捕し、全日系人を適性国人と規定した。翌四二年初頭には、日本国籍の日系男性の強制移動、短波ラジオ、カメラの所持禁止等の処分が決定実施され、二月の末には全日系人の防衛地域からの強制移動の発表へと事態は進展し、同年一一月までに(主としてブリティシュコロンビア州から)約二万人にも及ぶ日系人の強制移動・強制収容および財産の収奪等が行われた。大戦終了後も日本への強制送還や選挙権の剥奪等の処置が続いた。
(2)この様なカナダ政府の措置に対して、八○年代初頭から日系人の手により、リドレス(redress)運動が展開され、日系人の強制収容が人種差別に基づく措置であることを告発してきた。この様な運動の結果、一九八八年九月に至り、全カナダ日系人協会とカナダ政府との間で協定が結ばれた。同協定では、カナダ政府が大戦中の日系人に対する措置が人権侵害であったことを認め、同様な事態が再び起こらないことを誓った。そして、一連の不正に対する象徴的補償として、個人補償金二万一○○○ドルを一時金として支払い、全カナダ日系人協会を通じて日系カナダ人社会に一二○○ドルをコミュニティの福利や人権の擁護に役立つ活動に対して支払い、カナダ人種関係基金を創設して異文化間の相互理解および人種差別の根絶を推進する等の合意がなされた。同協定に基づき、カナダ政府が補償に関すると居合わせて申請のため係官を日本に派遣したことは記憶に新しい。
4 日本における戦後処理の現状
これらに対して、日本の戦後補償のあり方は、前述のような国際的潮流に大きく遅れるものである。
(1)一九五一年九月八日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印した。アメリカの極東戦略が転換する中で調印された右条約では、日本の経済復興を図り、賠償の負担を軽減するために、連合国は、原則的に日本に対するすべての賠償請求権を放棄した。翌一九五二年四月二八日に右条約が発効し、国家として独立すると、日本は、右放棄条項をてきに、次々とアジアの各国と二国間協定を締結した。ミャンマー(一九五四年一一月五日)、フィリピン(一九五六年五月九日)、
インドネシア(一九五八年一月二○日)、南ベトナム(一九五九年五月一三日)との間には平和条約と賠償協定を結び、ラオス、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、韓国、ミクロネシアには、戦後処理として賠償に準ずる無償援助、経済協力がなされてきた。しかしながら、これらの各国における、戦争被害者個人の被った損害については、戦後四七年を経た今も、日本は、格別の補償措置を講じていないばかりか、公式の謝罪さえしていない。
(2)それどころか、かつての植民地から「日本人」として徴兵・徴用・強制連行されたアジアの人々(特に、韓国・朝鮮人)に対しては、一九五二年四月一九日法務省民時局長通達をもっと、サンフランシスコ講和条約により日本の「国籍」を喪失させたとして、「国籍」をたてに、日本の国内法による戦後の個人補償措置からも排除してきた。すなわち、被爆者援護に関する二つの法律を除き、一九五二年四月三○日制定の戦傷病者遺族等援護法から、一九八八年制定の平和祈念事業特別基金に関する法律に至る一三の戦争犠牲者援護立法のいずれにも「国籍要件」を設け、外国籍の戦争被害者に対する右法の適用を排除して、これらの者に対する補償・賠償を一切なさぬまま放置してきたのである。
(3)前述のような「内外人平等主義」に基づく個人補償を基調とする国際的潮流にもかかわらず、未だ日本は、右国籍要件に固執し、外国人被害者に対する補償をこばんでいる。このような事情から、原告らは、訴訟による救済を求めざるを得ないのである。
□戦場慰安婦に国家として補償すべきではない理由 渡辺昇一氏の場合
慰安婦は売春制度のなかから生まれたもので、当時日本であった韓国にも売春斡旋業者がいて、彼らが主役となって貧しい女の子を集めてきたもので、そのことは万に一つの過ちもないと渡辺昇一は言う。「吉田某が済州島でやったといって本なぞを書いたようであるが、済州島へ行って調べた人によると、そんなことは済州島の人も口をそろえて「なかった」といっている。吉田某自身もいまのところはどこに消えたかわからなくなっているようである(「日本人の本能」渡辺昇一、125頁)。本書の前書きで、トマス・アクゥイナスが口述筆記で大著神学大全を書き上げたことを例にあげ、自分も口述筆記で一日で書き上げるなどと自慢しているが、渡辺昇一の書いたものを実際に読むと、ほとんどが推測で、裏付ける資料を示すような殆どない。一方的に思い込みを述べ、それが他面から見ると間違っていると言った責任をどうとるのか考えてもらいたい。例えば「吉田某が本を書いたようであるが」という。上記に紹介したように、吉田清治氏は痛恨の思いを込めて従軍慰安婦を募集するために朝鮮に渡り、自分のしたことを、裏付け資料を示して、世に表し、告白したのである。その文章にはリアリテ
ィが感じられるのである。渡辺氏は、それを読みもしないで、そんなことはないという。反証を、名前もあげないで、「済州島に行って調べた人」により、そんなことはないという。一体、通りがかりの人に、自分の身近な人の不幸を簡単に言うだろうか。沖縄の人たちが、集団自決についてまた沖縄戦で目の当たりにした日本人の行動について、その被害についてかたく口を閉ざして言わない。渡辺氏は、不幸なこと、あってはならないこと、遺憾だとは言うが、それはあなたたちが勝手にしたことで、自分には何の責任もないと言っているに過ぎない。傷が深ければ深いほど人は口にしないものだ。その心情を全く考慮できない。さらに、アメリカ軍が日本に進駐してきたとき、「旧ヨシワラのような売春センターをつくれ」という命令に答えて日本軍は自国から売春業者を通じて売春婦を集めさせ、営業させたという。アメリカ軍はアメリカからうなるほどいる売春婦を募集してつれてくるべきだったのではないか(126頁)。アメリカも悪いことをしている。日本だけが悪いのではない。こういう論理はどうだろうか。また、日本軍は解体していて、アメリカの要請を受けたのは警察である。アメリカの要求
があったとして、日本は進んでこれを受け入れ、警察を通して売春婦を募集した。その募集の理由に、日本の健全なる婦女子を守る防波堤として、売春婦に応募してほしいとまで、明記する神経は一体なんだろう。これも渡辺氏によると一部の人がすすんで犠牲になることは不幸なことであったというものだろうか。
渡辺昇一と呉善花(オ・ソンハ)の対談になる「日本の驕慢(おごり)韓国の傲慢(たかぶり)」という刺激的な本の中で、渡辺氏は、日韓問題が加熱する中で、韓国がことごとく「謝罪」が先決だ主張して、先に進まない行き詰まりについて、不満と打開の道を、彼なりに示そうとしている。
「日本には謝ってもらわなくては困る」という元蘆泰愚(ノテウ)大統領の発言に代表されるように、戦争責任問題はまだ解決していないとする韓国と、それに応えようとする人たちがいる。それに対して、渡辺氏は、日本と韓国の問題は国家の間で解決済みであり、今更取り上げる必要はないとする立場を明らかにしている。
三、
資料 
一、在日韓国キリスト教会の存在とその働き 日本のキリスト教会
在日大韓キリスト教会総会と日本キリスト教団は、一九八四年、次のように宣教協約を結んだ。「日本キリスト教団は、神のみまえに、在日韓国人キリスト者たちとその同胞にたいする戦前、戦後にわたる罪責を告白し、今日の在日大韓キリスト教会との協約締結を感謝する。教団は、第二次世界大戦下にみずから戦争に協力するのみならず、在日朝鮮キリスト教会を、主体性を奪ったまま日本キリスト教会の一部分として教団に組み入れ、日本帝国主義の戦争への協力を強制した・・・・・両教会は旧・新約聖書にもとづいて主イエス・キリストを共に告白し、相互の信条(信仰告白)と憲法(教憲教規)を尊重するところにその教会的交わりの基礎を置き、更に密接な相互関係を進めことに合意した。・・・協約
(1.2.略)
3,在日大韓キリスト教会と日本キリスト教団は特に在日韓国・朝鮮人の人権問題へのとりくみについて協力を約する。・・・・・
二、一方、在日大韓キリスト教会は一九七三年、次のような宣教基本政策を定めた。 前 文在日大韓キリスト教会総会(以下「総会」と略称する)は、韓民族の国家的悲劇が始まった今世紀初頭以来、祖国を離れ、日本に居住するに至った同胞の中にあって、共にいましたまう主なる神の御旨により形成された教会である。同時に総会は、民と共なる歩みの中で、その存在を明らかにしてきた。総会は、同胞と共に、日本帝国主義の隷属下における恥辱と、そこから解放された栄光を分かちあう中に、その歴史を積み重ねてきた。もちろん、その歩みは、必ずしもすばらしい歩みばかりではなく、時には辱しめと屈辱のそれであった。・・・・・
基本的課題 総会の宣教の使命には、二つの課題がある。・・・・
第一、総会は復活の主イエス・キリストが語られたところの「地の果てにまで行きわが証人となれ」との命令に応答する教会にならねばならない。この使命を正しく遂行するために、われわれは、わが同胞の散在している隅々にまで福音の光を掲げていかねばならない。同時に、われわれは、わが民族がまったき人間として生きる救いの業に、最大の関心を払わねばならない。
第二、総会は、神が支配したもう終末論的歴史の中に置かれている。しかし、この現実の歴史は、いまだにあらゆる悪がさまざまな形態をとって、その力をふるっている舞台でもある。この日本社会にあってわが民族が、政治的、社会的、思想的抑圧を受けている現実もその一面であるといえる。そして、そこでの救いの現実とは、民族の<生>における全領域が、こうした抑圧から解放される事でもある。1973年10月第29回総会にて採択'
(「伝道に生きて」 飯沼二郎、韓ソッキ共著 1986 春秋社 243頁より)
四、
課題と展望 
人権問題に取り組む意識が、ときに加熱し一人歩きする。差別するものと差別されるものとの間に線を引いて、どちら側に立つのかと問う。このような単純な図式が、在日韓国人の人権問題に取り組む場合も、見られる。どちら側に立つかが問題ではない。日本人が韓国人になることはできないし、その逆もない。二世三世の世代間におこる、日本人なのか韓国・朝鮮人なのかという違和感も簡単ではない。むしろ、帰化した在日韓国・朝鮮人こそ、自分のアイデンティティーに困難を覚えることが多いだろう。日本人と結婚した姜信子は「言ってみれば、加害者と被害者との間に生まれた」自分の娘を見つめている。確かに「在日韓国・朝鮮人の苦労は、日本人とのかかわりのなかで生まれてきたものだ。『加害者と被害者との間の子供』という言葉はある意味では事実だろう。それでは被害者である在日韓国人の私は加害者である日本人の夫を許して結婚したのだろうか」と問う。・・・「直接の加害者の子孫である夫とやはり直接の被害者の子孫である私は、そのことを共に考える。徒に加害者意識・被害者意識にさいなまされることもない、一個の同質な部分も持てば異質な部分も持つ人間として互いを
見てきた。異質な部分にこだわるのでも目をつぶるのでもなく、そういうものとしてみとめた上で、同質な部分に目を向けて、共感を持って手を差し伸べてきた。赦す、赦さないの関係はここにない。「共感」の賜物として娘がいる。(「ごく普通の在日韓国人」姜信子、朝日文庫1992)
このような共感が違和感を埋めていく。共感であれば、加害・被害の線引きをして、被害者側に立って、加害者を攻撃するという図式はどうだろうか。起こってくるのだろうか。キリスト教における宣教協力の議論の中で、こうした加害・被害の線引きがなされる。あるいは自分は正しい理解をもっていて、無知なる者を想定して、これを非難、攻撃する。自分は被害者側に立って、被害者を助け、支援していると思った瞬間、その後ろ盾と想定しているものは、盾になってくれるのではなく厳しく突き放すことを知らなければならない。どちら側につくかという問いそのものが、差別構造に基づいているからである。姜信子は「内なる差別する心」を自分のうちに見つめている。そして「あなたも差別する心を持つ弱い人間であることを、真っ直ぐに見つめて欲しい」と娘に呼びかけている。(同書207頁)
内なる差別意識、それはすべての人に内在する。差別意識の克服は、互いの弱さが共感できるところから始まるのではないだろうか。