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第五章、黒人アフロ・アメリカン

一、「ルーツ」 アレックス・ヘイリー
二、人種隔離制度撤廃運動 M・L・キング
三、黒人国家 マルカムX
四、アフリカ文化 学校教育・黒人霊歌、ブルース
□ 資料 奴隷制度の廃止年


1.「ルーツ」 アレックス・ヘイリー


アレックス・ヘイリーは自分の「ルーツ」を七代にさかのぼって調査し、ついにアフリカのガンビア共和国の一村をつきとめた。本書は一九六○年代の黒人解放運動から生まれた、黒人の手になる最初の本格的ノンフィクション歴史小説である。概要は次のとおりである。

クンタ・キンテはアフリカ・ガンビアで生まれ育った。ある日太鼓の材料とする木をとりに森に入ったところを、奴隷狩りに捕らえられ、奴隷船に乗せられた。

ヘイリーは一二年に渡る調査の結果、その日を突きとめた。一九六七年七月五日、ロード・リニア号がガンビア川の奴隷の積み出し地であるジェイムズ要塞を出発した。船倉に積みこまれた一四○人の奴隷は、九月二九日、メリーランド州アナポリスの港に着いた時、九八人になっていた。その日の新聞、メリーランド・ガゼット紙は「新輸入品。アフリカ、ガンビア川よりロード・リニア号(船長ディビス)にて入荷。出資者により来週水曜日、十月七日、アナポリスにおいて上等健全なる奴隷一船分即売。支払は現金ないし優良為替手形のこと。・・・」とあり、積荷表は象牙三千二百六五本、蜜蝋、綿花、黄金、および「黒人」九八人と記録している。航海中に三分の一が死ぬのは平均的なものだった。

キンテは三度の逃亡に失敗し、四度目に奴隷追跡業者につかまり片足を切断される。白人の医者が彼を救い、足を切り取ったことに憤慨して、彼を買い取った。逃亡奴隷は足を切りとるか虚勢された。キンテは結婚し子供を設けた。そこから始まる七世代の記録が本書「ルーツ」である。

著者は、その中で三分の一が死んだという過酷な奴隷船を、少しでも味わうために、アフリカからアメリカまで貨物船にのった。毎晩夕食をすますと鉄の階段を降り、船倉で、下着だけになって、一○日間の航海ではあったが、クンタ・キンテの追体験をした。やがて、南北戦争がはじまり、北軍は形成不利であったが、戦況を覆して勝利した。その結果「奴隷解放令」が出された。新しい時代の到来である。一族は開拓地に移住して、身を立て、現代に至る。五代目のシンシアは、奴隷解放後第二世代にあたる。一族の中で初めて大学で学んだ。著者の父は六代目である。苦学して農学の著名な教授となった。七代目にあたる著者アレックス・ヘイリーは、大学二年の時、第二次世界大戦がはじまり、沿岸警備隊に志願し、物資爆弾輸送艦の乗り組み員となった。乗組員が絶え間なく戦う相手は敵の爆撃機でもなければ潜水艦でもなく、やりばのない退屈だった。彼はタイプライターで書いて書いて八年間雑誌社に送りつづけ、数百通の断り状を受け取った。海洋小説がリーダーズダイジェスト誌に採用された。それから、すばらしい一生を送った人々の伝記を書くようになった。「マルカムX伝」の仕事は、 原稿完了の二週間後に、マルカムXが暗殺されるという悲しい経験もした。その後の作品が本書である。

黒人であるアレックス・ヘイリーから見た白人社会の本質は一言でいえば「暴力」とだ。本書は、暴力に立ち向かう黒人の生存の歴史「ルーツ」である。暴力がもっている脆さと弱さを黒人たちは見つめている。白人は悪で、黒人は善という単純な図式が全体を貫いているようにも見えるが、白人の中にも、クンタ・キンテを救い足の治療をして、自分の家に買い取ってくれた善良な医者がいた。奴隷解放をめぐる南北戦争の前夜、行き交う情報を、黒人たちは次のように議論している。

□奴隷制度とキリスト教各派

クエーカーは独立前から奴隷に反対していた。「クエーカーの次にメソジストも善い人たちよ。一○年か一一年前のこと、メソジストがボルチモアで大会を開いて、おしめえに奴隷を持つのは神様のおきてにそむいている、自分をクリスチャンだというものは自分が奴隷になりたいとは思わない、とみんなの意見がまとまった。だから黒ん坊を自由にする法律を作れと教会で大騒ぎして言わせるのは、たいていメソジストかクエーカーよ。バプチストや、ウォーラー家のだんなたちが入っている長老派(プレスビテリアン)は、まあそうなあ、あたしからみりゃ、どっちつかずだねえ」(下14頁)

アメリカ・プロテスタントの教派について、訳注は「今日のアメリカ」アンドレ・ジーグフリード著を引用して説明している。要するに士農工商といった社会階層に該当するとして、次のように言う。プレスビテリアン(長老派)は地主や知識階級、すなわち「士」にあたるものが多い。バプテストは百姓、すなわち「農」が多い、そしてメソジストは都会の商工業の間に広まっている。この他に徹底的な非暴力主義を主張するクエーカーと、貴族的なエピスコパルとがあるが、これは少数派であり、ちょっと毛色の変わったものとみなされているといっていいだろう。

これはおおざっぱな分類で、正確と言えない。クエーカーが進歩的な非暴力といってもニクソン大統領はアイリッシュ・クエーカーであり、バプテストが農民を基盤とする頑迷な保守派であるといっても、カーター大統領には急進的な発言が多かった事は、よく知られている。(下15頁)

ちなみにアメリカ大統領が所属した教派は次のとおりである。資料がちょっと古くてブッシュまで四一代までのものであるが、@初代ワシントン以下エピスコパル派は一一人、Aユニテリアン派は二代目J.アダムス以下四人、Bプレスビテリアンは六代目ジャクソン以下五人、Cメソジスト派はポーク以下四人、Dバプテスト派はトルーマン以下三人、Eクエーカー派はフーバー、ニクソンとなっている。他ディサイプルなど四教派、ローマ・カトリックはケネディ一人と少ない。(THE1991ALMANACより)

□黒人神学

ジェイムズ・コーンは、「総じて、知識人たちは人間の奴隷化の問題を無視したか、もしくは奴隷制賛成の味方となった」とし、次のように註を加えている。

「もちろん、いちじるしい例外もありうる。奴隷制に反対するクエーカー派の態度は有名である。そして一八世紀末には、メソジスト派とバプテスト派と長老派が奴隷制にはっきりと反対して発言した。しかしながら、綿繰機の発明に伴って遂行された奴隷制の強化確立以後は、たいていの教派は初期の宣言を貫徹しなくなった。一八一六年のメソジスト派総会に宛てた奴隷制に関する委員会の報告書は典型的である。『・・・・われわれは遺憾ながら、この悪が救済不可能のように思われる』」(「黒人霊歌とブルース」)。コーンは「イエスと黒人革命」、「解放の神学」の著者として知られる。彼はこの二つの著作の中で、黒人解放の政治学を、白人の神学校で学んだキリスト教神学と調和させることを意図した。しかし、黒人の問題を、白人の神学から、語れるかという難問に直面する。白人神学は、黒人の共同体とその歴史になんの関係もない、頭の宗教である。それは「知的抑圧」すなわち、被抑圧者の信仰や文化の存在を知的に無視し去るところに本質がある、と気づく。「黒人神学であろうとするならば、その神学の資料も黒人的でなければならないのではないか。その意味で西欧的白人神学の 思考枠から解放されていない」と仲間たちから痛烈に批判された。こうして「黒人霊歌とブルース」は彼の父祖たちが奴隷制時代に生存のために作り出した黒人霊歌と、奴隷解放後に生まれたブルースの内面世界に入っていく。黒人の苦難史を、キリストの十字架と復活に照らして検討する。そこで聖と俗からなるとする二元論は克服され、ブルースは世俗的霊歌(secular spirituals)と位置づけられる。黒人神学、黒人文化学の誕生と言える。


□ジム・クロウ法 Jim Crow(黒人差別・人種隔離法 )

 アメリカ南北戦争の結果すぺての奴隷は自由であるとする奴隷解放宣言が出たのは一八六五年のことである。それから二〜三百年の間、解放奴隷は裸同然となって放置された。黒人たちは農業に精を出し、一九○○年代初頭には、黒人所有の農地は全農地の一○%以上に達した。政界には一九○一年までに二八人の国会議員を出している。ところが、一方では暴力に訴えて白人優越を主張するクー・クラツクス・クラン(K・K・K)のリンチや放火によって、黒人は生存を脅かされた。また白人は黒人の進出をおさえるために融資・担保を巧みに操り、白人の銀行や土地所有者は、黒人の土地や家畜などの財産を奪った。農業をあきらめた数多くの黒人はニューヨークやシカゴ、デトロイトなどの大都市に移住した。

一九○○年以降、南部の諸州で「ジム・クロウ法」が制定され、黒人の住居を白人から隔離し、黒人の行動を制限する法律が作られた。選挙の投票にも制限が加えられ、国会議員の当選も妨害された。教育は黒人を隔離した教育がなされた。

「ジム・クロウ」とは、奴隷に対する蔑称である。ジム・クロウは精神薄弱の奴隷。生まれつき怠惰な典型的な黒人像をさす。黒人は教育、交通、選挙などで白人から隔離されるようになった。人種隔離法は、公民権運動によって、一九六四年の公民権法(Civil Rights Act)によって廃止された。


マルチン・ルーサー・キング牧師は人種隔離に反対し、公民権運動を展開した。キング牧師は暗殺死を遂げたが、その成果は一定の評価を勝ち取り、米国は一月第三月曜日を国の祝日「M・L・キング・デイ」と定めた。

ところで、マルコムXは、キングとは対照的な黒人解放運動を展開した。マルコムXは黒人が白人にすりよる融和では解決できないとし、融和に反対し、国内、またはアフリカに黒人独自の国建設を目指す。白人に対する分離または、逆に黒人を隔離する運動を展開した。対照的な二人の生き方を次にみよう。


M・L・キング

M・L・キングはボストンの大学を卒業し、モントゴメリーの教会に新任の牧師として迎えられた。当時モントゴメリーで働く黒人の女子の六三%は女中で男子の四八パーセントは非熟練労働者だった。モントゴメリーの七万人の白人の平均所得は一七三○ドルであったのに対し、黒人の所得はわずか九七○ドルに過ぎなかった。この数字は、人種隔離差政策によって生じる、白人との黒人の格差を表している。黒人は白人社会から隔離されていた。学校で白人と黒人は隔離された。一九五四年、最高裁判所は隔離廃止の判決を下したが、モントゴメリーでは状況は変わらなかった。タクシーに乗るとき黒人は白人と一緒に乗れなかった。バスに乗るときは白人が前、黒人は後ろに分離された。医者や弁護士、教師そして牧師の間にも黒人と白人の共同の団体はなかった。キングがモントゴメリーの牧師に着任した直後、一五才の女子高校生クローデット・コルヴィンが、白人の乗客に座席を譲らなかったため、バスから引きずり降ろされ投獄された。抗議運動により、バス会社は過ちを認め白人のバス運転手を譴責すると約束したにもかかわらず、何もしなかった。クローデット・コルヴィンは執行猶予つきな がら有罪となった。一九五五年一二月一日の木曜日、黒人の裁縫女工ローザ・パークスが帰宅途中、白人のための座席のすぐ後ろに腰をおろした。バスの運転手は他の三人の黒人の乗客と一緒に、後ろに移れと言ったが、この時、後ろの座席は全部つまっていた。三人の黒人は後ろに移ったが、パークスはこれを拒絶した。そのため彼女は逮捕された。

この一件が、その後一年余にわたる、モントゴメリーのバスボイコット運動の誘因となった。翌週の月曜日、五日からバスには乗らない運動が開始された。@バスの運転手の黒人乗客に対する丁重な待遇の保証。A乗客はバスに乗った順に座席が与えられることB黒人の乗客が多い路線には黒人の運転手が雇われること。この三つが受け入れられるまでボイコットを続けることが集会で決議された。黒人のタクシー会社一八社がもつ二一○台のタクシーがバスと同じ料金で輸送することに協力してくれた。それから想像を絶する妨害があり、暴力にもかかわらず、ボイコットは貫徹された。ボイコットという手段はバス会社を破産させることが目的ではない。人種隔離と言う悪しき制度への協力から手を引くこと。白人のいうなりに隔離される悪を、拒絶することなのだ。(52頁)また、キングはクー・クラックス・クランの暴力を知っていたが、非暴力と言う手段が、黒人が手に入れることのできる一番強力な武器であることを、マハトマ・ガンジーから学んだ。彼は非暴力について次のように言う。第一に臆病者ではなく強者の道である。第二に敵の友情と理解を勝ち取ることを求めている。第三に、攻撃の目 標が悪を行う人間ではなく、悪そのものであること。第四は報復しないで苦痛を甘受し、反撃しないで反対者の攻撃を喜んで受け入れる。第五は非暴力は外部的な肉体による暴力を避けるばかりでなく、内面的な精神による暴力をも避ける。非暴力の中心には愛の原理がある。

愛には三つの言葉があり、第一に美的な愛、エロス。第二に友人との間の親密な愛、フィリア。第三に純粋で自発的な、創造的なあふれでる愛、神の愛、アガペーがある。アガぺは出会い人々のすべてに隣人を発見する。アガペの愛は受動的ではない、行動的な愛である。キングは非暴力の原理をアガペの愛から基礎づけた。しかし、非暴力による、反隔離闘争、すなわち融和への要求を根底から批判する運動もあり、多くの支持者を得ていた。マルコムXか゜提唱する黒人だけの国家建設である。次にマルコムXの意見とその生涯を見たいと思う。


マルコムX

マルコムX(本名マルコム・リトル)は一九二五年に生まれた。一九六五年、ニューヨークのハーレムで演説中に、三人の男から銃弾をあびせられ、四○才の若さで死んだ。父アールはバプテスト教会の牧師であった。マルコムXが生まれる二週間前、一家はKKKの襲撃を受けた。父は、ちょうどその時、夜の集会に説教にでかけて不在であった。この一件はやがて生まれるマルコムXの人生を象徴する事件であった。マルコムは二○才の時、窃盗容疑で逮捕され、六年を獄中ですごした。同じ囚人ビンビはプロの泥棒であったが刑務所での時間を語学や、歴史、哲学などの勉強にあて、深い教養を身につけていた。彼の強い影響を受け、マルコムXは中学二年で止まっていた勉学の空白を生めていく。ラテン語まで学習の範囲を広げ、政治や社会問題について基礎知識を身につけた。また教育プログラムのなかの講義やディベートとよばれる討論を学び、演説者の技術を身につけた。

姉と弟が、すでにブラック・モスリム、黒人のイスラム教「ネイション・オブ・イスラム」に加入していた。「白人は悪魔である」「黒人は洗脳されている」と言う言葉に、彼は自分の生い立ちと貧しい黒人たちのことを思い巡らした。ブラック・モスリムの教えは言う。「白人は汚れている。すべての悪の根元は、白人である。黒人はアラーの神から選ばれた民であり、その使命は白い悪魔を滅ぼすことにある」。これまで出あった白人たちを思うと、彼の家族を襲撃したKKK、困窮した家族をばらばらにした白人の民生保護委員、安い給料でこき使う白人雇い主、白人警官に悩まされた日々、刑務所に送ることを決めた裁判官も白人だった。黒人たちは白人から見捨てられ貧しいゲットーに押し込められている。マルコムはブラック・モスリムの教えによって、世に存在するあらゆる不公平が説明できるような気がした。彼はイライジャ・モハメッドに師事し、「ネイション・オブ・イスラム」に入会する。

その教えは次のとおりである。「ブラック・アメリカンは、最初の人類「原人種」であり、現在の中近東、アフリカ、アジアのモスリムがその直系の子孫である。ブラック・アメリカンはイスラムの「迷える小羊」であり、かれの創立したネイション・オブ・イスラムの使命は、ブラック・アメリカンに心の宗教を取り戻させ、彼らを白人の圧政から救い出すことである。」(「マルコムX」72頁)

こうしてマルコム・リトルはマルコムXと改名する。二四才であった。

彼らによると、クリスチャン・ネームは、本当の名前ではない。それらは彼らの先祖が持っていたアフリカン・ネームの代わりに、奴隷主人から与えられたものだ。その代わりに「X」の文字を使った。「X」は、彼らが本当の名前を奪われた、かつての奴隷(エックス・スレイブ)であること意味した。

モスリムとなったマルコムXはみ違えるように人がかわった。メッカに向かってひざまづくことを覚えた。神に祈ることによって安らかな気持ちになれた。信仰心は、彼の人格だけでなく、知性を向上させた。きちんとした服装、言葉づかい、心がけ、人々特にモスリムを敬うこと、結婚していない人との性行為を堅く禁じ、飲酒、喫煙も許さない。厳格な戒律を彼は守った。その態度は警務当局の目に留まり、一九五二年、二七才の時、仮釈放となった。六年の刑期を終えた。

マルコムXは再び世に出ると、ネイション・オブ・イスラムでその頭角をあらわした。「黒人であることを誇りに思う人々に囲まれているなんて、私はそれまで夢にも思ったことがなかった」。一九五三年、デトロイト支部の信者を増やすことに成功したマルコムXは牧師補佐のポストについた。イスラム教指導者につけられた名前はミニストリー(ministry)、キリスト教で牧師と呼ぶことから、訳者は「牧師」としている。朝鮮戦争が勃発し、徴兵令がでるが、彼は自分がイスラム教であることを述べ「黒人にひどい仕打ちをしてきた白人が私に『おそらく死ぬことになると思うが、我々のアメリカを守るために、戦争に行ってくれ』というのなら、私の良心は兵役を拒否する」と答えた。すると兵役猶予の通知を受け取った。ボストンをはじめ一二の支部を作り、黒人だけにゆるされた宗教、ネイション・オブ・イスラムを広めていった。

黒人は白人に依存するのをやめて、別の社会をつくらなければならないと彼はいう。また「キリスト教は、奴隷主人たちの宗教だ」と教えた。一度マルコムXの説教を聞くと、バプティストやカソリックだった人たちは熱心なモスリムとなった。

一九五○年代のおわりには、彼がつくった教会は二ダース以上になっていた。

マルコムXが黒人の白人からの分離を唱えていた、ちょうどそのとき、M・L・キングは公民権を求め、公立学校、劇場、レストラン、電車、バスの人種隔離政策に反対する運動を起こしていた。非暴力を旗印に、デモを展開した運動家たちは拍手喝采を浴びた。しかし、マルコムXは、その目標と戦略を批判し「ただ、白人の隣に座らせてもらえるだけじゃないか」と馬鹿にした。「黒人には、自分たちの土地でつくられた、自分たちの社会が必要なのだ」。また「自分の身は自分で守れ、銃弾には銃弾を、もしその必要があれば」。マルコムXは黒人ゲットーで熱狂的に支持された。

一九六○年代、公民権運動のデモに参加していた若者たちは、キング牧師の非暴力を支持していたが、もっと直接的な方法で人種差別に立ち向かわう方法はないかと考えるようになっていた。全面的に改善されるかと思われた人種問題は具体的にはなかなか実現しなかった。こういう若者たちの間に、マルコムXはとても新鮮に受けとめられた、「白人の天国は、黒人の地獄」という歌が流行った。

一九六三年、二○万人以上の人々かワシントンDCに集まり、公民権の制定を求め、聖歌を歌いながらでも行進したとき、マルコムXは「無駄な努力だ」と酷評した、「歌を歌うことで、我々が勝利を得られるとは思えない。もし四五ミリの銃を手に、「ウィ・シャル・オーヴァーカム」と歌うのであれば、私も参加するよと言った。国会は広範囲にわたる人種隔離法を非合法とする法案を通過させた。一九六四年には新公民権法、経済機会法が通過した。マルコムXはこうした法律はショーケースの中の展示物に過ぎない。本質的な黒人の地位向上にいたるものではないと主張した。マルコムXは革命の戦略でネイション・オブ・イスラムとうまく行かなくなり、新たにMMI(モスリム・モスク・インコーポレイテッド)という組織を設立した。元ネイションのメンバー五○人によって構成され、「二二○○万人のアフロ・アメリカンを日々苦しめている、政治的圧力、経済搾取、社会の退廃を打破するための行動を企画する基地」として活動を始めた。あらゆる宗教団体、宗派に属する黒人が参加できるとし、みずから革命団体であることを表明した。前の組織であるネイションの狭い狭義から解放された マルコムXはさらに幅広い活動を展開する。正統派イスラムに興味を持ち、イスラム教においては、人は肌の色ではなく、その「行為によって」判断されることを学ぶ。

イスラムの聖地メッカ巡礼も実現した。メッカはマルコムXに天啓を与えた。彼は聖地で友愛の精神と親交を経験する。あらゆる人種、国籍のモスリムから彼はあたたかく迎えられた。「世界中から集まったあらゆる人種、肌の色の人々が、ここでは一つになる。私はこの地で、唯一絶対の神の力を見た」。マルコムXの目標は、ブラック・アメリカンの手で、権力を牛耳る白人社会に対して革命を起こすことだった。「私と一緒にやっていこうとする白人となら、私は共に闘うことができる」と感じたのは始めてだった。

メッカからレバノン、アフリカの旅を続けた。アフリカは、ナイジェリアで学生たちに演説をした。彼は「自分の家に帰ってきたような気がする」とガーナの聴衆に語りかけた。フランスから独立したばかりのアルジェリアを経由して帰国した。三九才の時であった。アメリカでは公民権運動は「自由の夏」というキャンペーンをはったが、多発する人種間の暴力事件に悩まされた。自由というよりも「絶望の夏」であった。南部では黒人教会が爆破され、公民権運動家たちは警官の暴力によって弾圧されていた。

マルコムXは世界中の黒人の意識を高めようと大々的な活動を計画した。黒人急進派と連合し、新しい組織を作った。その政策には都市住宅の改善、麻薬中毒者のリハビリを目的とした地域プロジェクト、有権者登録の推進や学校登校拒否運動といった、従来の運動も含まれている。また資本主義体制を解体し、社会主義と黒人民族運動を連動させようとした。彼は再びアフリカを旅し、カイロでおこなわれたアフリカ統一機構の会議で、演説をした。「我々の問題はあなたがたの問題でもある」とマルコムXはいう。ブラック・アフリカンと第三世界の独立運動は同じ目的に向かって進んでいると述べた。旅を続けケニアの大統領をはじめ各国の指導者と会った。一九六四年一一月アメリカに帰ったとき、五ヶ月の旅の間に事情がかかわり、当初の計画がだめになったことを知る。「白人が、国防と称してベトナム戦争に費やす金を、我々の戦いを鎮圧するため、あるいはわれわれの地位を高じようするために使わせるのだ」。年の暮れマルコムXは身の危険を感じるようになる。一九六五年二月二一日、マルコムXは毎週ハーレムで開かれていた集会で演説している時、三人の男の銃弾によって倒れた。四○才 であった。

マルコムXは黒人の国家を目指した。キング牧師が目指す白人との融和を批判し、非暴力でもなく、民族自決こそ人種差別の解決だと言う。

異なる二つの運動は、目指す成果をまだ達成していない。


アフリカ文化 
黒人解放運動はアメリカの有名大学のほとんどに、黒人の歴史や文化を教える講座を開設した。いまや、黒人教授は高給を条件にひっぱりだこ。(「バルバロイがやってくる」ギ・ソルマン)「私の報酬は白人の同僚の誰よりも高いが、白人がアフリカ系アメリカ人に払うべき賠償金の一部だと思っています」とマズルイはいう。イスラム教徒である彼はイスラム教への回帰がアメリカ黒人の再アフリカ化に欠かせない。マルコムXはそこを理解していた最初の人物だと評価する。キング牧師は白人側についたが、マルコムXは黒人思考で「黒人を解放するには白人社会を破壊しなければならないと言う。

ソルマンは「黒人思考」とは何かと問う。黒人思考はアフリカから歴史をとらえなおす。これまでのアメリカは白人支配者によって書かれてきた。それに対して奴隷の視点から歴史を書き直すのだ。エジプト奴隷がピラミッドを建てたのと同様に、アフリカ奴隷がアメリカを築いた。ところが、マズルイ教授の教室には殆ど学生がいない。アフリカ系アメリカ人の歴史講座はうまく言っていないと、ソルマンは言う。

□一九七○年代はキング牧師が「私には夢がある」と説いたように、アメリカは一つとなる夢を実現するはずであった。ところが、スクールバスが黒人と白人との混合を強制するようになって、白人家庭は都心部から逃げ出した。アフリカ系アメリカ人の子ども達は白人が居なくなった学校で自分たちだけになった。強制的な学校教育の統合はこのような失敗例が続出した。指導者たちは、この現象を、逆人種差別的に解釈し、黒人児童の成績は黒人と白人との共学より、黒人だけの学校の方がよいといった。白人との対立で緊張したり動揺することがなくなった。黒人の父母会はこの新しい人種一体主義を支持した。白人の受け入れを拒否する黒人学校が増えた。アフリカ系アメリカ人は時代遅れの統合崇拝からルーツ崇拝へと方向転換をしたのである。アトランタのクリーヴランド・アヴェニュー小学校は生徒も教師も全員アフリカ系アメリカ人である。子ども達は七歳で古代エジプトの象形文字ヒエログリフを学んでいる。祖先がアフリカで書いていたやり方を再現しているのである。アフリカ中心主義ではなく、アフリカ文化を植え付けるのだ。中心主義は排他的であるが、植え付けは包み込む。歴史を 学ぶとき、アフリカ系アメリカ人の偉人たちを教える。植え込むのである。奴隷廃止論の闘志フレデリック・ダグラス、作家のジェームズ・ボールドウィンなどである。天才的機械技師ベンジャミン・バネカー、彼は一七八○年頃最初のメイドインUSAの時計を作った。ギャレツト・モーガンは百年前灯火式信号を発明した。ガスマスクも。

カリキュラムと教科書は黒人心理学者エイサ・ヒリアードの指導の下で黒人大学教授の委員会がアトランタの小学校用に書いたもので、アフリカは人類の発祥地であると教える。文明はエジプトで生まれた。アフリカ人は文化、科学、芸術に決定的な貢献をしてきた。子ども達が自信をもてるように教える。アトランタでは黒人の若者の四人に一人が刑務所経験者である。小学校をでても中学校に進むものはほとんどいない。だがアフリカ中心主義教育の目標は、アフリカ系アメリカ人を白人のアメリカに統合することではなく、アメリカを変えることにある。


□黒人霊歌
もっともポピュラーな曲「アメイジング・グレイス 」は数奇な誕生物語をもっている。讃美歌U編一六七番を見ると左肩に作詞者の名前があり、ジョン・ニュートンとある。彼はイギリスの奴隷貿易船にのって奴隷売買に携わっていた。自分のしていることについて、罪の意識はなかった。二二才のとき、嵐の中で回心を経験した。キリスト教の信仰をあざわらい、船乗りの放縦な生活で身を持ち崩していたが、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」を読んで心を動かされた。激しい嵐の中で生命を危険を感じたとき、彼は本気になって魂の救いを求めてた。二四才のとき、結婚した。そして奴隷船の船長になったが、アフリカで買った男女の奴隷を船底に押しこめ、非人間的な扱いをしてしながら全く無感覚だった。しかし、次第に良心に目覚めてきた。病気を理由にして船長をやめ、リバプールで潮流観測員となった。当時のイギリスはジョン・ウエスレーなどメソジスト派の信仰復興運動が盛んに行われていた。ニュートンは神学校に学び牧師としての道を志ざした。それから二六年間牧師を務めた。このような過去をふりかえってつくられたのがこの歌詞である。

1.われをもすくいし くしきめぐみ まよいし身もいまたちかえりぬ
2.おそれを信仰に 変えたまいし わが主のみめぐみ げにとうとし
3.くるしみなやみも くしきめぐみ きょうまでまもりし主にぞまかせん
4.わが主のみちかい とわにかたし 主こそはわが盾 わがいのちぞ
5.この身はおとろえ 世を去るとき よろこびあふるるみ国に生きん

曲はアメリカ南部の農場で黒人たちが歌っていた「小羊を愛して(Loving Lambs)」という民謡のメロディーで、一八三一年に発行された「ヴァージニアハーモニー」という歌集に発表された。(「賛美歌・聖歌ものがたり」大塚野百合、創元社)このような黒人霊歌を見ると、白人たちが意図したキリスト教が、どのように黒人たちに受け容れられたか、興味深い問題がある。コーンは言う。「農園主たちは一般に、奴隷を『キリスト教化』しようとしている白人たちに懐疑的であった」(「黒人霊歌とブルース」46頁)。しかしまた、奴隷の信心が深まり、忠実な僕および働き手としての価値が高まると期待された。聖書によると、確かにパウロは奴隷について比喩を含めて三七回、しかも全体として奴隷制度に肯定的に言及している。一九六○年代に日本でパウロ批判がさかんになされたのはこのような問題意識による。パウロが奴隷制を肯定する点にあった。一コリント七章二一節には「召されたときに奴隷であった人は、そのことを気にしてはなりません」と奴隷制度に対して肯定的である。また、「上に立つ権威に従うべきである」(ロマ13:1)と体制を肯定する。このような立場にたつキリスト教の倫理 は白人奴隷所有者にとって好都合であった。

奴隷を教育するキリスト教教理問答にはつぎのようにある。
問い 神はあなたをなにをさせるためにお造りになられましたか。
答え 穀物を取るためです。
問い あなたは姦淫してはならない」というのはどういうことですか。
答え それは天にいます父と地上におけるわたしたちのご主人様に仕え、
わたしたちの監督に従い、それから何も盗んではいけないということです。
(同書46頁)

白人たちは、黒人たちが聖なるものとしてきた文化を卑しめ、これを奪った。そのかわりに白人文化を植えつけて、黒人を文明化しようとした。
黒人たちは白人に従順を求められたが、多くの黒人は精神的にも物理的にも白人文化を受け入れたのではない。白人がパウロに見られる体制擁護的キリスト教を描いていたとき、一方で、黒人たちは旧約聖書における出エジプトの奴隷解放物語に興味を持ち、自分たちの境遇と出エジプトの民を同一視した。またバビロン捕囚の英雄ダニエルの物語に励まされた。アメリカにおける黒人史は「反逆の歴史である」とコーンは言う。白人が無視しようとしてきた、奴隷反乱の事実を無視することはできない。キング牧師や黒人が集団となったブラック・パワーやブラック・パンサーそしてマルコムXはよく知られている。黒人の抵抗は、近年の解放運動に始まったのではなく、最初にさかのぼる。連行の時、黒人は抵抗した。奴隷船の中で、奴隷市場で、また農園などいたるところで黒人は奴隷の扱いをする白人に抵抗した。しかし、大多数の奴隷は暴力手段をとらず、別の抵抗をした。もっとも多かったのはアメリカ北部とカナダへの逃亡であった。その数は何千人といて、生き残ったものたちはその冒険談をかたっている。奴隷の抵抗の第二は、仕事を怠けたり、病気を装った。盗みや放火も抵抗の手段だった とコーンはいう。指を切り落としたり、腕を傷つけて故意に主人のために働きにくいようにした。ある奴隷は思った時にいつでも左肩をはずすことができた。三章でアイヌの人たちを取り上げたが、萱野さんはおじいさんが和人の奴隷的扱いからのがれるために指を切ったと言っている。主人が望むよい奴隷は従順で勤勉な奴隷である。悪い奴隷は盗み、仮病をつかう奴隷である。黒人は白人のこのような道徳倫理を受け入れなかった。黒人が盗むまえに、白人は黒人を盗んでいる。黒人の生存と楽しみのためには白人のものを盗むことは間違いではなく、正しいことである。こう考え抵抗した。
ある奴隷は、逃亡を考えたはじめものちも、白人を嫌っているようには振る舞わないように努力した。自分の持ち物や知性ですら、白人の前には表さないようにした。「いいえ、ご主人様、わたしは自由になりたいなどとは思いません。わたしはよい主人をもっています。病気になれば面倒をみてくれますし、決して黒んぼを虐待するようなことはなさいません。わたしは自由になどなりたくはありません。」。こう言うとたいていの奴隷主は、黒人は満足しているものと思い込んた。南部の黒人ならすべて自由人でも奴隷でも、生き抜くためにはこう言うほうが賢かった。(同書、53頁)。奴隷は拘束からの自由を求めた。しかし、現実の過酷さは別の自由を作り出した。拘束「における」自由がそれである。「いいえ、ご主人様自由になどなりたいとは思いません」。これは白人世界を生き抜く黒人倫理となった。本当の気持ちを言い表してはいないという点では退廃、欺まんであるかもしれないが、生存の手段としては善であった。

黒人の抵抗は黒人独自の宗教を形成した。それは白人が教えた「キリスト教」に似ていたが、内容は違っていた。白人は一連の信仰箇条を教え、キリスト教倫理を教え込もうとした。黒人たちは自分の現実のなかで神的なものに出会う経験から宗教を生み出した。黒人は表面的には白人のキリスト教を受けいれているようによそおいながら、自らの神的経験のなかでアフリカ的なものとキリスト教的なものを生み出した。黒人霊歌はこのようにして生まれた。

奴隷の宗教は拘束「から」の自由と、拘束の「中で」の自由の両面を主張し、新しい地上の自由を作り出した。黒人の宗教的会合は、公然と抵抗する計画を実現するものであった。この自由は実に巧妙に表現された。奴隷主たちは、集会を監視する白人の監督を同席させなければ、集会を認めず、礼拝し、歌を歌うことを禁じた。ナット・タナーの反乱の後、南部では黒人説教者は非合法化された。

このようにして生まれた黒人霊歌とブルースの違いについて、ジョン・W・ワークは次のように説明している。ブルースは根本的に霊歌と異なっている。・・・・霊歌は強烈に宗教的であり、ブルースはそれとおなじぐらい強烈にこの世的である。霊歌は天国について歌い、死んだ後、その歌う人がそこに見出される天的な喜びを享受できるという熱烈な希望について歌っている。ブルースの歌い手は、天国に対して何の関心も示していないし、この世に対してもあまり希望を持っていない。彼は徹底的に幻滅した個人である。霊歌は教会の中でつくり出されたが、ブルースは毎日の生活の中から生まれてきた。」。コーンは、この説を紹介しながら持論を展開する。ブルースも霊歌もともに、過酷な現実を生き抜く奴隷の現実がある。黒人霊歌は奴隷解放前に歌われた「奴隷歌」である。ブルースは奴隷解放後に生まれた。ブルースは奴隷解放後も黒人の人権剥奪を法的に容認した人種隔離政策のなかで、まったく奴隷時代と同じように強いられた苦渋の中から生まれた。

ブルースも霊歌と同じように、その精神とルーツは奴隷制度に、そしてアフリカにさかのぼる。黒人音楽はアフリカ人の感覚と思考が異国での過酷な状況に適応してきた経過をたどった。奴隷制はそこからブルースが生み出された土壌である。
コーンはブルースを「世俗」的と称して蔑視することには反対し、「世俗的霊歌」と擁護している。(185頁)では、黒人霊歌とブルースのいくつかを見よう。
讃美歌U編の一七二番から一八一番まで九曲は黒人霊歌からとられている。
黒人にとって、神について、キリストについて語るとき、それは神学理論ではなく
、実体験であり、体験の中での自己同一化を意味している。神は人を救い解放する神であり、奴隷を解放する。歴史的実在である。キリストはこのために
貧しさのなかに生まれ、十字架にかけられて死んだ。

U一七七番「あなたはそこにいたのか」

「あなたはそこにいたのか。彼らがわたしの主を十字架にかけた時。以下原文

Were you there when they crucified my Lord?
Were you there when they crucified my Lord?
Oh! sometimes it cause me to tremble,tremble,tremble;
Were you there when they crucified my Lord?
・・・・・
Were you there when they neiled Him to the tree?
・・・・・

U二一○番「わがなやみしりたもう」

「わがなやみしりたもう。それは主イエスのみ」
Nobody knows the trouble I've seen
Nobody knows my sorrow.
Nobody knows the trouble I've seen
Glory,Halleluyah!
この歌は、この世の悩みはいつまでも続くものではなく、やがて終わると歌う。
奴隷であるために受ける残虐な暴力、それは信仰による共同体を破壊することはできない。そこに彼らの故郷を思い、故郷に帰ることに集中する。そこは父が行った。母も行った。兄や妹も言った場所である。奴隷であることから解放され、「真珠の城門」をくぐり、「黄金の街路」を「金のスリッパ」をはいて旅することを夢見た。
そこで、奴隷市場で奪われた彼の家族と再会できる。
わたしはヨルダン川をこえていこう。「二輪馬車にのってけまた「駅で汽笛を鳴らしている汽車」に飛び乗っていこう。わたしに「切符」があるならば乗れる。わたしに「翼」があれば、空に飛び立つことができる。

U一七八番「馬車よ、おりてこい」
1.馬車よ、おりてこい、ふるさとへ帰るのだ。
馬車よ、おりてこい、ふるさとへ帰るのだ。
Swing loe,sweet chariot
coming for to carry me home
Swing loe,sweet chariot
coming for to carry me home
奴隷状況のなかでの天国も決して観念や神学理論ではなかった。黒人にとって天国は白人社会からの解放であり、そこはアメリカ北部でありカナダを意味していた。天国は逃亡につきまとう危険を意味した。ヤコブがまた、出エジプトの民が渡ったヨルダン川はそこを超えると約束の地へと導かれる境界線である。

4,奴隷制度の成立と解体
奴隷売買の廃止
1803 デンマークで奴隷売買が廃止される。
1808 アメリカ合衆国とイギリスで、奴隷売買が公式に廃止される。
1815 ウィーン条約のなかで売買の国際的禁止に関する原則が明記される。
1827 フランスにおいて、売買を抑止するための施策が実行させはじめる
1835 スペインで廃止
1839 ポルトガルで廃止
1840 闇の売買が次第に有効に取り締まれるようになる。
1850 ブラジルで廃止
1860 ヨーロッパで殆ど消滅
1862 モザンビーグからブラジルへ向かう最後の奴隷船が観察される
1784 奴隷制度がイギリスの植民地で初めて緩和される。
1794 フランスの植民地で理念上廃止される。
1818 エクス・ラ・シャペル大会において奴隷制度の原理が糾弾される
1833 イギリス議会において、理念上廃止が議決される
1834 イギリスの植民地で、廃止へ向けた施策が実行される
1848 第二共和制下、フランスの植民地で廃止される
1856 ブラジルでも廃止に向かう
1860 オランダの植民地で公式に廃止される
1861 アメリカ合衆国で南北戦争、奴隷制度の廃止
1862 オランダ領西インド諸島で廃止
1866 スペインの植民地で廃止、キューバ
1876 トルコで公式廃止
1878 ポルトガルの植民地で廃止
1885 ベルリン会議 奴隷制度をなくすための施策を決議
1888 ブラジルで廃止
1890 アフリカの奴隷制度を討議するために第二回ベルリン会議開催
1926 九月二五日奴隷制度に関する国際会議が開催される
1948 世界人権宣言の第四条を採択。
マルカムX自伝、アレックス・ヘイリイ、河出書房新社
評伝マルカムX、長田衛、第三書館
マルカムX 最後の一年、ジョージメブレイトマン、新評論
マルカムX、中村直也、JICC
マルカムX・スピークス、ジョージメブレイトマン、第三書館


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