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第6章 ユダヤ人
1.「アドルフに告ぐ」 手塚治虫 2.「日本に来たユダヤ難民」
3.「第二の罪」 4.キリスト教の抵抗〜ナチスのユダヤ人迫害
5.「死の国の音楽隊」強制収容所の体験 6.「アンネ・フランク」

1.「アドルフに告ぐ」手塚治虫
、文藝春秋社、1958年
アドルフと呼ばれた三人の男を描く手塚治虫のまんがである。一人は在日ドイツ領事の息子 アドルフ・カウフマン、その友人でパン屋を父に持つユダヤ人アドルフ・カミル、二人は神戸で幼なじみであった。もう一人はナチスを率いたアドルフ・ヒトラー。この三人である。ヒトラーが政権をとり、ベルリンでオリンピックが開催された頃、数枚の秘密文書が日本に渡った。ユダヤ人を絶滅しようとしているヒトラー自身にユダヤ人の血が混じっていることを証明する文書だという。ヒトラーは一八八九年四月二十日に生まれたが、その出生証明書には税関の検査官であるアロイス・ヒトラーと三度目の夫人であるクララとの間に生まれたことが記されている。また、ヒトラーの父方の祖父はフランケン・ベルガーと名乗る金持ちのユダヤ人であった。その息子は、召し使いとして働きにきた女性との間に子供を作った。マリア・アンナ・シックルグルーバーは四二才の時に私生児アロイス・シックルグルーバーを生んだ。ヒトラーの父親がこの人である。「あなたの血のはいったアドルフに一度あいに来てやって」と書かれた手紙は、アドルフ・ヒトラーがユダヤ人の孫に当たることを証明する書類として、ナチスが隠密裏に探していたものである。

秘密文書はユダヤ人の手によって作曲家ワーグナーの石膏像のなか隠されて、保存されていたが、共産主義に共鳴した日本人留学生の手をへて日本にわたった。この書類の争奪をめぐって、ドイツ領事館、在日ユダヤ人、またアメリカ、フランス、ロシアがからみ合う。戦時中を生きる三人のアドルフはそれぞれ違った運命をたどっていく。アドルフ・カウフマンは領事であった父を亡くし、ドイツのヒトラーユーゲントという少年の英才教育機関に預けられ、優秀な成績を残していく。在日ユダヤ人のアドルフはヒトラーに追われてシベリア鉄道を経由して亡命してきたユダヤ人難民の救援に奔走した。戦後イスラエルに渡り国家建設に献身するのだが、イスラエル共和国が成立する前に住んでいたパレスチナ人との紛争に巻き込まれる。一方、戦争が終わり、行き場をなくしたアドルフ・カウフマンはパレスチナ解放戦線の組織に入った。そこで、敵対するイスラエルの指導者アドルフ・カミルと対決せんとして「アドルフに告ぐ」というポスターを張りめぐらし、直接対決を呼びかける。この呼びかけが本書の題名となっている。アドルフ・カウフマンは死んだ。生き残ったアドルフ・カミルもイスラエル のために貢献し、死んでいく。

三人のアドルフのそれぞれ異なった運命を描く壮大な物語となっている。

手塚治虫はこの作品の中で、ヒトラー自身が、その生存を否定した、ユダヤ人の血を引いている、というスキャンダルをキーワードにして、三人のアドルフの運命を描いた。ヒトラーがユダヤ人の血を引いているかどうかは、今となっては、真偽を証明するものはなく、分からない。それだけに話は真実味を帯びたものになっている。人は、憎むべきものを自分の中にもっているのに、自分には憎むものを見ないで、他者の中に見てしまう。ドイツ人が世界で優秀なる人種であり、ユダヤ人を劣悪なる人種とする考えは、民族差別のお決まりである。日本も同じようにして大東亜共栄圏の盟主たらんとした。聖書の選民思想もそうだ。聖書にイスラエル民族の純潔を強調して、混血を否定した時がある。バビロン捕囚によって民族が滅亡の危機に瀕したとき、また解放後の祖国再建のとき、血の純潔が強調された。このことは、旧約聖書エステル記九章一六節に、ユダヤ人を迫害した報復として、七万五千人を殺した記事にみられる。また、祖国再建の時、異民族と結婚したイスラエル人の名前をあげて絶縁を命じている。このように、ある状況のなかで、純潔を強調しなければ、民族そのものが絶える危機があ った。しかし、全体としてみると、イスラエル一二の個々の部族自体、それぞれの純潔を保つということはありえない。世界に放浪の身となったユダヤ人は世界各地で混血している。「信仰」の純潔については言えるかもしれないが、血の純潔を保つということは殆どありえない。同じようにアーリア民族にしても、日本の大和民族にしても、血の純潔性にはそれほどこだわる意味があるだろうか。中曽根康弘元首相が日本人は「単一民族」といって批判された。そのように歴史的純潔とか単一はありえない。日本人は朝鮮から来た人、中国から来た人との混血である。そしてもともと日本にいたたネイティブはアイヌである。アイヌと沖縄とが文化的にも血のうえでもつながっていたと考えられる。


2.日本に来たユダヤ難民
ユダヤ人難民

「アドルフに告ぐ」の中に挿入された話、ユダヤ難民が日本にたどり着き、日本から上海を経由してアメリカ・カナダへと通過したという話はフィクションではない。一九四一年七月から翌年五月まで、約一一月の間に、四六六四人のユダヤ人難民がシベリア経由で日本にやってきた。横浜、神戸の在日ユダヤ人が中心と救援活動に奔走した。とくに、中田重治を中心とした東洋宣教会ホーリネス教会の関係者はユダヤ難民を親身に世話した。だが、ホーリネス派は日本では、その急進的な終末信仰を理由に、牧師たちが当局から検挙・拘束され、犠牲者を出したグループであった。このグループをキリスト教界は、冷淡にも、見て見ぬふりをしたばかりか、迷惑な存在として忌避した事を、あとで謝罪しなければならなかった。このような人たちがユダヤ人にとっては恩人であり、よい思い出となったという。

さて、当時、外交官としてリトアニアで任務に就いていた杉原千畝(すぎはらちうね)は六千枚の通過ビザを書いたという。ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人難民のために、迫り来る危機のなか、領事館が閉鎖される直前まで、力をふりしぼってビザを書き続けた。また、リトアニアを去るときも、駅で汽車に乗ったあとからも懇願するユダヤ人のために書き続け、汽車の窓から手渡したという。そのビザはアメリカの南、メキシコ湾にある小さい島、オランダ領キュラソー島を目的地とする通過ビザであったので、「キュラソー・ビザ」と呼ばれる。キュラソー島は税関がなくビザを必要としない島である。窮余の一策を思いついて、このようなビザを発行した。杉原千畝氏は六千はビザを書いたという。このビザによって、そのなかの四六六四人が日本に来たということは、驚くべき奇跡である。

難民の群れはロシア鉄道を横断しウラジオストックから、次々に福井県敦賀港に着いた。日本にしばらく滞在した後ビザを必要としない上海を経由してアメリカ大陸、その他の地域に移住した。あるいは戦後のヨーロッパに渡り、あるいはイスラエルの建国に尽力した。

ところで、杉原副領事は日本政府に緊急電報でビザ発行の許可を三回にわたって願ったが、それは拒否された。三回目のビザ発行許可願いが拒否された時、違法な手段ではあるが、ユダヤ人の窮状に応えて、六千枚のビザを発行した。一月ばかりの間のことであった。戦後昭和二二年、杉原千畝氏は不法なビザ発行を理由に外務省を追われ、第二の人生へと道を進めた。静かな後半生をすごしたといわれる。

一九九二年の国会で、杉原原千畝の名誉回復が議題になった。政府側は「昭和二二年の人員整理ということで退官を強いられました」と答弁し、処分したのではないと弁明した。外務省の三分の一が解雇されたとき、たまたまそのなかに入っていたのだと弁明した。最後に宮沢総理大臣が、「杉原副領事の行った行為は、当時のナチスによるユダヤ人の迫害といういわば極限的な局面において人道的かつ勇気あるものであったというふうに考えております。この機会に改めてその判断と功績をたたえたいと思います」と答えた。

一九六九年イスラエル政府は杉原千畝氏に勲章を贈った。一九八五年には「諸国民の中の正義の人賞」を贈った。キュラソー・ビザによって救われた人たちが、杉原氏を探していたのであるが、千畝という名前を「ちうね」と読めず「せんぽ」という名前で探していたので、再会の時は遅れたのだという。

妻杉原幸子著「六千人の命のビザ」によると、外務省への三度目のビザ発行許可願いに対する回答が、「内務省が大量の外国人が日本国内を通ることは治安上反対している。ビザ発行はならぬ」であった時、夫は心を決めた。「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」「あとで、私たちはどうなるかわかりませんけれど、そうしてあげてください」とある。(「六千人の命のビザ」杉原幸子著、大正出版32頁)

杉原氏は妻と相談し、同じ意見をもって事に処した。

難民の一人ゾラフ・バルハティクはポーランドからシベリア鉄道経由で日本に来た。神戸と横浜にあったユダヤ人社会に助けられ、難民救済活動に奔走した、それから上海へわたり、バンクーバー、アメリカへ、戦後は調査団の委員としてロンドンへ渡り、ユダヤ人が聖地エルサレムに帰還する運動シオニストの会議に加わり、パリを経由してドイツに向かった。その時は国連救済復興機関という肩書きをもち、収容所をめぐって調査し、次のことを実行した。@収容中のユダヤ人生き残りに対する救援物資の支給Aユダヤ人社会からの連帯メッセージを伝え、難民の士気を高める。B収容所に宗教施設を整備すると共に、生き残りのラビ、神学校関係者および神学生のゆくえを突き止める。

シオニスト会議でなされたポーランドとチェコスロバキア代表の報告は悲惨なものであった。ポーランドののユダヤ人は一○%が助かっただけで、ポーランド在住者はその一%にすぎない。壊滅状態である。殺されたユダヤ人の概数表が本書の表紙の後ろ扉にあるが、ポーランド三百万人、ソ連百二五万人、ルーマニア四五万人、ドイツ・オーストラリア二一万人、オランダ一○万五千人、フランス九万人、チェコスロバキア八万人、ギリシア五万四千人、ベルギー四万人、ユーゴスラビア二万六千人、ブルガリア一万四千人、イタリア八千人、合計五百六二万七千人が殺された。右記の数字がどの調査によるものか記していないが、戦後もうけられた英米教導調査委員会の調査の総計も五百七二万人とそれほど変わっていない。(Der nationalsozialismus.Documente 1933-1957)

ナチスのユダヤ人迫害には決まったパターンがあったと、バルハフティクは言う。まず選挙権や公務員になる資格を剥奪し、兵役などの義務を解除し、安息日の労働強要、宗教法に基づく畜殺、集会所シナゴーグの閉鎖、旅券や身分証明書に特別のマークをつけ、黄色いバッチ着用、そして強制労働による飢餓死に追い込んだ。このような反ユダヤの法律は一九三三年から一九四一年までにドイツ法令で三三八数えられたという。カトリックのスロバキア法令集には二七○カ条もの反ユダヤ法があると指摘している。これらの条文が戦後処理で廃止されたかというと英米では迅速になされたが、まだ見届けられてはいない。

戦犯の裁判について、一方の当事者となったユダヤ人の側から見るとどうだろうか。バルハフティクは一九五一年の国会討論で次のように述べている。「第一次大戦後、ライプツィッヒの茶番劇があった。告訴された八六九名のうち、実際に裁判に書けられた者は、一二名、そのうち六ケ月から四年の実刑判決を受けたものは六名に過ぎなかった。第一次大戦時一五○万人を殺したアルメニア人虐殺事件では、結局有罪判決を受けた者は二名に過ぎず、それもローザンヌ平和条約の締結による特赦で、釈放されてしまったのである。犯罪人に対する扱いの変化は、まさに幻滅である。戦犯一三○名のうち、すでに五一七名が釈放されたのだ。」(「ヒトラーの魔手を逃れて日本に来たユダヤ難民ー約束の地への長いたび」ゾラフ・バルハフティク著、原書房)


3.「第二の罪」
ヒトラーのもとで行われた、ユダヤ人虐殺と、これをひきおこしたすべてを第一の罪とすれば、「第二の罪」とは第一の罪をごまかし否定することである。ラルフ・ジョルダーノは彼の著「第二の罪」の中で右のように言っている。そして第二の罪は、今日にいたる戦後西ドイツの政治文化の本質的特徴だという。(同書9頁)

ユダヤ人を母として生まれたジョルダーノは多感な少年時代をナチスの暴虐の中に耐え抜いて生きた。解放の暁にはドイツを離れようと堅く決心していたが、解放されてみると、この地に踏みとどまることになった。どうして?。迫害や暴力で殺されたり拷問され強制労働をさせられることへの不安、そして非合法的に生活していることによる恐怖のせいで、心の中に刻まれた傷よりも、生まれた土地への愛着のほうが大きかった。そして第二の罪と対決する必要があったからという。戦後はジャーナリストとして活躍、テレビドラマの作家として活躍している。

迫害と大量虐殺はどのようにして起こったか。

ミチャーリヒ夫妻は精神分析医の立場から「悲しむ能力のないこと」を指摘し、群集心理、すなわち集団情動、ヒステリーを解き明かしている。ジョルダーノは、ミッチャーリヒに賛成し、その示唆を得て、八つの点を上げて、解決されていない第二の罪に見られる集団情動を指摘している。

第二の罪とはこうだ。その第一、「六百万人も殺されてはいない」という集団情動である。彼らはドレスデンの空襲の使者が三万五千人と発表されているが、一二万から二○万人だと言う。それは東京空襲や広島・長崎の原爆を強調して日本軍が南京虐殺や朝鮮人慰安婦を否定するのに似ていないだろうか。第二は「私は何も知らなかった」という集団情動である、秘密で行われた強制収容所での虐殺やシンティ・ロマ(ジプシー)の一掃を知らなかったと言っているのである。しかし、これらの前触れとなった、ユダヤ人襲撃、一九三八年の「水晶の夜」事件については皆が知っていたし、四○年からの貨車によるユダヤ人移送は白昼堂々と全ドイツで行われていたわけで、誰もが知っていた。しかし、「私はなにも知らなかった」、それは一時期のことだとかナチスの組織的犯罪の一部であるという集団情動。

「水晶の夜」事件とは、一七歳のユダヤ人少年が、パリでドイツ大使館の書記官エルンスト・フォン・ラートに発砲し死亡させたのに端を発する。ナチ突撃隊はオーストリアを含む全ドイツのユダヤ人商店と住宅、ユダヤ人教会堂・シナゴグを襲撃し破壊した。略奪し、暴行を加えた。ユダヤ人は秘密警察ゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に送られた。その時、道路に散乱した窓ガラスの破片が街燈の光に反射して水晶のようにキラキラと輝いたことから、「水晶の夜」と呼ばれる。この事件を知らない人はいないとジョルダーノは言う。

第三は「強制収容所はドイツ人の発明ではない、かつてブーア人と闘っていたころのイギリス人が発明したのだ」という集団情動。身近に起こったことについての責任を、遠い昔にそらしたり、戦争の時にはだれでも、何でもするという責任回避。第四に「ヒトラーは悪いことだけでなく、いいこともしている」。ドイツに張り巡らされた高速道路網アウトバーンを見よ。同じように、日本は満州・朝鮮を植民地支配をしたというが、鉄道をつくってやった。合理的な田植えの技術を教えた。こういう人がいる。(たとえば渡辺昇一「日本の驕慢、韓国の傲慢」徳間書店)。第五は「他にも罪を犯した人はいる。自分だけではない」。第六「ナチ犯を告発するのはやめろ」。この人たちはタクシー運転手殺しや子供の誘拐犯、またテロリストには死刑を求める人たちでもある。しかし、ナチスの犯罪は告発するなという。第七「ヒトラーの時代には秩序があった。今は・・・」。しかし、その秩序の中で一日、いや一時間に殺された人たちは、建国以来の西ドイツでの殺人の数をはるかに超えている。第八の集団情動は「もういいかげんに忘れなくてはならない。この辺でケリをつけなければ」。この人たちこそ 真の記憶の持ち主である。自分たちの損害は忘れないが、自分たちが加えた損害は忘れなければならないという。こうした集団情動は、人間としての方向性を失わせているという。第二章で述べたように、筆者の父は沖縄南部の糸満市米須に生まれた。最後の激戦地となったこの場所に、一四○の慰霊塔が建てられ、大和の五一都道府県がそれぞれの県勢を競うように建設している。ここで肉親を失った遺族が墓参に来るのである。死者を「英霊」とたたえ安らかなれと慰霊する。ジョルダーノはヘルムート・コール首相がドイツ人戦没者と、ナチス犠牲者とを和解させることを意図した国家的「慰霊記念碑」を批判する。「両次対戦の犠牲者、圧政と集団狂気の犠牲者、抵抗と追放とわが祖国分裂の犠牲者、そしてまたテロリズムの犠牲者、これらすべての者に対しふさわしい共通の慰霊碑をつくりだすことは、今こそ具体化されなければならない重要な計画である。」一九八三年一一月の国民哀悼の日に、コール首相はこのように演説した。(同書358頁)

まず第一に、戦争責任をこのように総括してケリをつけ、忘れ去ることができるか。そもそも、ドイツ人戦没者とナチスの犠牲者との和解が、その罪責を不問にしてできるか。それはテロリズムの犠牲者と同じ扱いにできるものなのか。ドイツにはどこの村に行っても戦没者の碑がある。それは形態も碑文も単調で「われわれのために」あるいは「国民と祖国のために」戦死した「英雄」とか、「その形見に栄光を」と記されている。「戦死した」とは書かれないし、「虐殺された」とも書かれていない。事実を隠蔽し、そのことによって自らを抑圧するということは古くからの伝統になっている。コールがしていることは、ナチスの時代を忘れ去ることにならず、「その時代を心理的に持続して抑圧すること」であり、かれはそれによってナチス犯罪とかかわりあっている。

ヴァイツゼッカー前大統領

一九八五年、ヒトラー・ドイツ降伏四○周年記念に際して、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは「荒れ野の四○年」と題して演説を行い、「救いの秘密は心に刻むことにこそある」といった。心に刻むことであって、「密封することではない」。この演説はドイツが進むべき方向を世界に示したもので、日本でも岩波ブックレットほかいくつかの翻訳出版がなされ、話題となった。荒れ野の四○年とは旧約聖書の出エジプトの民がその不信仰と罪のゆえに、約束の地を目前にして、四○年の間荒野を放浪した。ドイツの戦後四○年を出エジプトの民にたとえたもので、歴史認識の基礎を解き明かしている。「心に刻む(エアインネルン)というのは、歴史における神のみ業を目の当たりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち咲かれたものが再び一体となることへの信仰、和解への信仰を生み出すのであります。神のみ業の経験を忘れる者は信仰を失います。もしわれわれの側が、かつて起こったことを心に刻む変わりに忘れ去ろうとするようなことがあるなら、これは単に非人道的だというにとどまりません。生き延びたユダヤ人たちの信仰 を傷つけ、和解の芽を摘みとってしまうことになるでしょう。われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります」(「荒れ野の四○年」ヴアイツゼッカー大統領演説・全文、岩波ブックレット55.18頁)


4.ユダヤ人迫害に対するキリスト教の抵抗
ユダヤ人に対する迫害は、ヒトラーが政権を掌握したあと、四段階にわたって実行された。第一の段階は、一九三五年、ナチス突撃隊によるユダヤ人商店の一切ボイコットの呼びかけに始まった。ユダヤ人をいっさいの公職から追放する「公務員再建法」が交布された。同法はユダヤ人だけに対するものでなく、ナチスに反対するものを排除して、ナチスの組織を再編成するものでもあった。第二の段階は、「ニュルンベルグ法」の制定である。ニュルンベルグで開催されたナチス党大会と、同時に招集されたドイツ国会で、ドイツ人がユダヤ人と結婚することを禁じる等を定めた「ドイツ人の血とドイツ人の名誉保護のための法」が制定された。ユダヤ人の公務員、医師、弁護士も、その追放の対象とされた。ユダヤ人会堂・シナゴグの、権利を剥奪した。第三の段階は、「水晶の夜」事件に発する大虐殺である。七千以上のユダヤ人商店が破壊された。経済的破壊と生活基盤の喪失はユダヤ人社会に壊滅的打撃を与えた。第四の段階は一九四二年、ベルリン郊外ヴァンゼーで「ユダヤ人問題の最終解決」の方法が検討された。はじめはユダヤ人全員をアフリカ大陸の東南に位置するマダガスカル島に移送する 計画であったが、この島を占領できなかった。そこで、ドイツの東部に強制移動させ、労働につかせる。道路工事をさせつつ、移動させるが、生き残ったものは反抗能力があるので適切に処置しなければならない。このヴァンゼー会議の決定により、ユダヤ人の大量虐殺が始まった。アウシュヴィッツでは強制収容所所司令官であったルドルフ・ヘスは「二五○万人の犠牲者を、毒ガス刑、および火刑に処して抹殺しました。そのほか少なくとも五○万人が飢えと病気で死にましたから、あわせて死者、三○○万人に達した」と証言している。(「ユダヤ人虐殺とドイツの教会」雨宮栄一、7頁)

ヒトラーの残虐な犯罪についてキリスト教はどのように対応しただろうか。具体的にはドイツのキリスト教会は、@ヒトラーに対して全面的に賛成しただろうか。「ドイツ教会(Deutsche Kirche)」は民族主義的・国家主義的性質を持っていたが、ナチスの運動に共鳴し、ヒトラーの神的使命を支持し、これに反対する教会を批判した。民族の運命を共にしないというのである。またA不本意であるが屈服した人たちがいる。大半のキリスト者がそうではなかっただろうか。そしてB知らなかった人もいるだろう。ユダヤ人絶滅の実施はその計画からして秘密裏に行われた。しかし、ジョルダーノは知らないはずがない。逮捕は白昼堂々と行われたし、移送もそうだという。C知っていて黙認した人も多い。D反対であったが沈黙した人も多いだろう。Eできる限りの抵抗をした。地下での抵抗運動に参画した人たち。被害者を助けた人たちも多い。Fそして、正面からナチス抵抗し、施設で障害者をまもり抜いたボールデンシュビンク牧師。告白教会を結成して抵抗し、ヒトラー暗殺のなかに身を投じて、捕らえられ処刑されたディートリヒ・ボンヘッファー牧師がいる。国防軍を中心とするヒトラー暗殺計画が練られていた。

また福音主義教会の抵抗もできる限りをつくしたといえる。ボールデンシュビンク牧師は障害者福祉施設ベーテルの人たちをナチスの魔の手から守った。河島幸夫著「戦争・ナチズム・教会」(新教出版社)は、この事情を法制史の立場から詳述している。いかにして「生きるに値しない命」として安楽死法案が成立したか。ダーウィンが唱えた進化論の悪用が指摘されている。神学者カール・バルトはスイスに逃れた、かの地より抵抗運動を支持した。戦争が終わり、すべてが明らかになると共に、戦時中のキリスト者の発言と行動は批判のまないたに乗せられることとなった。告白教会の牧師ボンヘッファーのようにヒトラー暗殺計画に身を投じた行動について、当初は殺人はキリスト者にあるまじき行為であり、認めることはできないという非難があった。ボンヘッファーの著作が多くの人に読まれるようになって、その評価は時と共に、逆転した。ボンヘッファーは言う。ヒトラー暗殺計画を、絶対の善だとは言わない。究極一歩手前の善である。狂人が運転する自動車が暴走する場に居合わせたならば、わたしはその自動車に飛び乗って、その狂人から自動車の「ハンドルを奪わなければならない」

(「服従と抵抗への道」ボンヘッファーの生涯、森平太、256頁)

ボンヘッファーは一九四三年四月五日、ベルリンの両親の家で秘密警察・ゲシュタポに逮捕された。しかし、国家反逆罪の調査が始まったのは逮捕から半年も経ってからであったし、彼の有罪を確定する証拠もなかなか見つからなかった。四四年七月二○日、ヒトラーの大本営でおこなわれた参謀会議の時、時限爆弾の爆発に成功した。反ヒトラー派の国防軍大佐シュタウフェンベルクによるものであった。暗殺とクウデターの成功は確実と思われたが、ヒトラーは奇跡的に死を免れた。計画は一夜にして瓦解し、ヒトラーの狂気の報復は逮捕者七千名を出し、処刑者約五千名にのぼったといわれる。年を越した一九四五年四月九日ボンヘッファーは処刑され、帰らぬ人となった。あと一月もまたない五月四日、ドイツの降伏によって終戦を迎えたを思うと、ボンヘッファーの死はまことに残念であった。

先に述べたように、ユダヤ人絶滅計画の第一段階は、ユダヤ人を公職から追放する「アーリア条項」によって行われた。日本が戦時中に自国を神国とし、大和民族を選ばれた神の民としたように、アーリア人とはドイツ民族を形成する人種で、その優越した民族が上に立って世界を導くという考えに基づいていた。ヒトラーの後押しによって生まれた「ドイツ帝国教会」は、アーリア条項によって、アーリア人以外を帝国教会から排除した。牧師・教職者はドイツでは国家公務員に属している。そのユダヤ人牧師が公職から追放された。もちろん大学や公共機関の職員も追放された。

「アーリア」とは古代インドのサンスクリットのアールア(すぐれた、名誉あるという意味)から来たといわれる。アーリア人とはギリシア人、ローマ人、ゲルマン人、スラブ人、ケルト人などヨーロッパ民族の大部分、アジアではインド人、イラン人が属する。インド・ヨーロッパ民族、インド・ゲルマン民族ともいう。

これに対し、アラビア人、エジプト人、イラク人、イスラエル人は「セム民族」という。アーリア族であるドイツ民族の中から、セム族に属するユダヤ人を閉め出すために「アーリア条項」はつくられた。ドイツ帝国教会はこれを承認し、ユダヤ人牧師・教職を排斥した。これに抵抗する福音主義教会とボンヘッファーたちが創設した告白教会は、どのような論理をもってに対抗したか。それが次の項のテーマである。

「ユダヤ人問題に対する教会」(「告白教会と世界教会」選集6、60頁以下)のなかで、ボンヘッファーは二つの観点から教会のユダヤ人に対する課題を提出している。一つは、国家の特別な法によってユダヤ人が排斥されることについて、教会は何をなすべきか。第二は、洗礼を受けてキリスト教会に属するユダヤ人に対して何をすべきか。

ルター派の流れに属するボンヘッファーは、まずルターがユダヤ人についてどういう見解をもっていたか引用して論を立ている。ルターはイエスとその弟子たちがユダヤ人であったことを示し、キリスト教に改宗したユダヤ人を、兄弟とし迎えた。すなわち、ルターは、ユダヤ人を、キリスト教に改宗する対象ととらえていた。ところで、「アーリア人条項」は、洗礼を受けたユダヤ人キリスト者をも、教会から排除する。もし、教会が同じ兄弟であるユダヤ人を教会から追放すれば、そのことによって、みずから教会であることを否定することになる。これは教会の存立に関わる問題である。賛成できない。

教会の使命は、国家が道徳から逸脱することに対して、国家を告発し、注意を喚起するところにある。また、国家が神の創造になる秩序を維持し国民を守る使命を全うするよう、教会は見張りの役をもっている。ユダヤ人問題について、教会は国家に対して勧告し、注意を促す。それに対し、国家は教会を自分に属する一員と位置づけ、支配しようとするだろうが、教会は国家に対する見張りの役をもっている。ところで、教会は第一に、国家に代わって政治に関与するものではないし、またできない。第二に教会は、国家の犠牲者に対して奉仕をする。そして第三に、教会は「車の犠牲になった人々を介抱するだけでなく、その車そのものを阻止する」(66頁)。狂人が運転する満員バスに乗りあわせた時、なんとかして運転を止めて、乗客の命を助けようとしないだろうか。すなわち、ヒトラーという狂人が運転するドイツ国という満員バスに乗りあわせている時、運転手であるヒトラーを引きずり下ろして、乗客を助けようとしないだろうか。ボンヘッファーはヒトラー暗殺計画に身を投じることになるが、その行為を「車そのものを阻止する」と言う。この一文はヒトラーが政権をとったまさに一九三三 年に書かれていて、その時すでに暗殺までは行かないとしても、ある覚悟が表されている。というのは、その後、兵役を拒否し、イギリスへ行き、またアメリカへも行って亡命またはヒトラーとの関わりから逃避しようとする気配もあったので、これらの経験の後暗殺計画に参加することになったと思われるのである。その一○年前に「車そのものを阻止」しなければ問題解決にはならないとボンヘッファーは考えていたとするのが正しい。この一件について、すでにボン大学を追われてスイスにいたカール・バルトは、ボンヘッファーを次のように評価した。ドイツから国外にでることが困難になってきた時、スイスで身元引受人となってくれたバルトは、ボンヘッファーが来た時、ヒトラーに対する抵抗運動の存在を語った。ヒトラー暗殺の計画を知ったとき、バルトは抵抗運動の道徳的立場を肯定するが、その政治的効果については疑義がある。成功可能性のないクーデターは実行に移すべきではなかった。ボンヘッファーの関与は、かれをはじめて抵抗派の人々が「夢想家」だったからだと言っている。(「服従と抵抗への道」森平太著262)。では、ボンヘッファーが関与したヒトラー暗殺計画が成功し 、ナチスが崩壊したとするならば、評価はどのようになっただろうかと問うことは間違っているだろうか。ヒーローとまでは行かなくても、ドイツを破局から救った功労者にならないだろうか。ボンヘッファー評伝を書いた森平太は、バルトが教会教義学で指し示しはしたが、自分で実行はしなかった抵抗の方向を、ボンヘッファーが極限まで推し進め、その行動をバルトが理解を含めてではあるが、批判するという不思議な関係を記している。(「服従と抵抗への道」ボンヘッファーの生涯、森平太、新教出版社)しかし、筆者は、そのようなバルトのボンヘッファー批判を見出していない。かなり、控えめであるが、トマス・アクィナスやブルータス、ヴィルヘルム・テルをひいて、だれもヒトラー暗殺を避難することはできないといっている。(「創造論」W-3、260頁)

ボンヘッファーはガンジーの「非暴力」思想に共鳴を覚えていた。ガンジーは周知のように、インドをイギリスの植民地支配から解放することに成功したのだが、この偉業を「非暴力の抵抗」によって達成した。マルチン・ルーサー・キングもガンジーにならって、非暴力の抵抗によって黒人解放に身を投じたのである。ボンヘッファーはガンジーに直接会うことはできないかと願っていたが、果たせなかった。非暴力の抵抗を理想としながら、実際には、ボンヘッファーは国防軍を中核としたヒトラー暗殺計画に身を投じる。

いったい、モーセの十戒の第六に「殺してはならない」と命じるキリスト教の倫理に反するものであった。しかし、戒めを守ることによって、六百万人ものユダヤ人を絶滅に追いやるヒトラーの残虐を見て見ぬふりをするのは、この戒めをもっと大きな規模で破ることになる。より大きな罪責を負うことになる。ボンヘッファー自身、ヒトラー暗殺に関与することをずいぶん躊躇したのである。兵役を拒否することから、アメリカへの亡命を試みもした。しかし、罪なき人の血が天に向かって叫んでいるのに、見て見ぬふりをし、沈黙することはもっと大きな罪悪となる。キリストの名のもとに行われるナチの暴力と不正を教会は傍観している。教会はこのことで罪責を負うにいたった。ボンヘッファーはこう言う。彼のヒトラー暗殺は勿論最善の道ではない。次善の策である。それはキリストの教えに反するものであって、処罰を覚悟していたとはいえ、満員バスが危機に直面し、罪なき人たちの助けを求める叫びを、避けては通れなかった。ドイツ人の罪責を、こんなに深刻に受けとめ、そしてバスの運転手であるヒトラーを引き摺り下ろすことに生命をかけて、助け出そうとした人があるだろうか。ボンヘ ッファーの伝記や評伝は、どれを見ても、ヒトラーの暗殺計画を実行に移したボンヘッファーを正面から評価することを避けている。殉教者であったか否か。はたして聖人と言えるか。このような設問は愚問といわなければならない。ボンヘッファーが言うように、この世にある限り、人は「究極手前」を生きるものであって、完全ということはない。より善い、次善の道を求めていくのではないだろうか。

5.「死の国の音楽隊」強制収容所の体験
「ドイツ民族が生まれついての音楽好きであることは疑いのない事実であり、アウシュヴィッツはその明白な証拠だった。・・・・音楽が入ったときだけは、普通考えられているような人類一般に近づき始めるのだった。彼は怒鳴らなくなり、喉声でしゃべり始め、動作もやさくしなって、誰に対してもニコニコと肩をたたいては上品に振る舞うようになる。・・・これほど音楽を愛し、音楽を聴いて涙を流す人間たちがそんなにどこまでも悪をおかし続けられるのだろうか」。

収容された人たちの中から、音楽ができる人が選ばれて、死の国の音楽隊が編成された。音楽隊は毎朝夕行進曲を奏でた。囚人たちが強制労働に出かける朝、そして労働から帰ってくる夕方、彼らは行進曲を耳にした。運良く、音楽隊に選ばれたために死を免れて生き残った、シモン・ラックスとルネ・クーディは、収容所での経験を「アウシュヴイッツの奇蹟」(音楽の友社、1974)のなかに右のように記している。「・・・だがこういう甘い幻想は音楽が終わった瞬間にどこかへ吹き飛んでしまう。目の前に立っているドイツ人は彼の本来の姿にかえっているーーー怪物に」(同書167頁)。アウシュヴィッツから解放された音楽隊の二人は、フランスに戻りパリで出会った。本書は、二人の体験を混ぜ合わせて、互いに意見を述べながら共同で執筆してできあがった。この陰惨な経験は言葉では表現できないものだと言う。訳者大久保喬樹氏はフランス留学中友人の部屋で、たまたま手にした「死の国の音楽隊」に興味をもって尋ねたところ、その友人は、同級生の著者の息子から借りたものだと分かり、著者と出会うことになった。シモン・ラックス氏は一九○一年ワルシャワ生まれのユダヤ系ポーランド人 で作曲を学び、一九二六年にパリに家族とともに来て、勉強と仕事をしているうちに第二次世界大戦に入り、ドイツ軍に捕らえられ、アウシュヴィッッに送られた。音楽隊に選ばれなかったならば、死んでいただろう。戦後フランスに帰化した。もう一人の著者の消息は分からない。

本書の中で、二人が書いているドイツ人の音楽に対する愛情である。それが、ユダヤ人を絶滅する残虐のただなかで純粋に生き続けているという事実である。音楽がドイツ人に及ぼす深い浄化作用を、著者は「奇蹟」と言う。ふたりはこのことを共通して認めている。ドイツという一国民全体が、異民族のユダヤ人の完全絶滅を計画し実行に移すという残虐さに達するということが「奇蹟」の一つだとすれば、それほどの残虐さを平気で行いながら音楽に触れたときだけは、魔法の解けた童話の中の人物のように人間的な感情に戻るというドイツ人の特有の事実はさらに深いもう一つの「奇蹟」だ。そして二人の著者は、このような音楽に感動する心をもつドイツ人という民族に対して一筋の光を見出している。

ところが、序文を頼まれたデュアメルは手厳しい。二人の著者と全く反対の見解を記している。「音楽がもっている魔性」が、あのナチスの残虐な殺人に奉仕し、心の感性を麻痺させて、それを推進する力となっていると指摘する。

「メフィストフェレスというものが決して詩人の空想などではなく、絶えず死んでは生まれ変わってくるドイツの国民的英雄の象徴に他ならない」(同書序文)。メフィストフェレスはゲーテの「フアゥスト」にでてくる悪魔として知られる。ファウスト自身実在の人物で魔術師として数奇な運命をたどるが、魂と引き換えに悪魔と契約を結んで、さまざまな魔術を発揮する。ファウストは、閉鎖的な、中世末期の閉塞した時代風潮のなかで、近世の夜明けを待つ人々の心をとらえ、伝説の人となって伝えられる。ドイツ民族の民族性を語るとき、欠かせない人物となった。メフィストフェレスは犬の姿をとったりして、人を悪へと誘う。魔性である。


6.「アンネ・フランク」
「自分でも不思議なのは、わたしがいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。・・・・にもかかわらず、わたしはそれを持ちつづけています。なぜなら今でも信じているからです。たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやはり善なのだということを」。アンネ・フランクは一九四四年七月一五日の日記に、このように書いた。二年間と一週間に及んだ隠れ家での生活に、まさに終わりが来る、その三週間前の日記である。なんと純粋な希望だろうか。信頼したそのドイツ人によってアンネは強制連行され、死んだ。病死だという。

アンネの家族は、ナチによる迫害を逃れてドイツのフランクフルトからオランダのアムステルダムに移住した。その時アンネは八才だった。フランクル一家は、アムステルダムの隠れ家から拘束され、アウシュヴィッツの収容所に連行された。そこからアンネはベルゲン=ベルゼンの収容所に送られ、そこでチフスにかかって死んだ。一五才の生涯を閉じた。家族の中で、ただ一人生き残った父オットー・フランクはアンネが書き残した「日記」を公刊し、それは全世界で千三百万部以上売られたという。「アンネの日記」は、証人がいなかったことから事実ではなく贋作だという風評もあった。日記が公刊されて四○年経った一九八九年、ミープ・ヒースは「思い出のアンネ」を出版し、自分の幼児期からオランダに来たときのこと、そしてフランクル氏のもとで働いたこと、隠れ家のユダヤ人を支援したオランダ人の地下活動があったことを記している。あの時、二万人以上のオランダ人がおなじことをしていたのであり、「アンネの日記」だけが特別視されることも、その関係者として、自分たちだけが特別視されるのをこのまないとミープさんはいう。

「アンネの日記」を理解する上でミープ・ヒースやオランダ人でユダヤ人を支援した地下組織の人たち、また一般市民の援助を知ることは肝要である。

ミープ・ヒースはオーストリアのウイーンで生まれた。第一次大戦が始まった時、五才だった。家が貧しくて十分に育てきれない子ども達を、オランダに引き取って養育するというプロジェクトがあって、ミープさんは一一才の時に、アムステルダムの、子供四人と両親の六人家族の家に、引き取られた。養家の人は、六人も七人も同じと言った。この家庭を自分の家と思うようになり、はじめは三ヶ月という約束であったが、オーストリアには帰りたくないと思った。そして、とうとうオランダ人に帰化するまでになった。こんなにやさしくもてなされたことはすごいことだ。

二四才の時、オットー・フランクル氏が経営するトラフィース商会に職を得た。

フランクル氏は単身で来ていたが、やがて妻と長女と次女のアンネがやってきた。

一九四○年オランダはドイツに占領されユダヤ人狩りが何度も繰り返された。

一九四三年、誰もが戦争が終わると思っていたが、ユダヤ人狩りは大規模になった。目の不自由な人、精神障害者、末期症状の患者などを収容するユダヤ人の施設がねらわれた。このような事態の進展のなかで、フランクルの一家と、他に一家族、あわせて一一人が隠れ家での二年間を耐え忍んでいた。

ミープさんは、数人の同志たちと共に食料の調達をやりぬき、パンとミルク、花と本を届けつづけた。ミープさんは一九四一年ヘンク氏と結婚した。ヘンクはアムステルダムの市役所のソーシャルワーカーとして困っている人を訪ねて相談に乗る仕事をしていたが、この職場を隠れみのとして、ドイツに対する抵抗運動をしていた。

ドイツに強制労働に行かされることを拒否して地下にもぐったため、自分のためにも家族のためにも生活の糧を得ることができない立場にある人を支援していた。配給切符であれ、金であれ、何でも必要なものをさがしだして供給する。そのような抵抗運動をしていることをヘンクは結婚する前も後も、妻に詳しく話すことはしない。必要な情報を伝えることの大事さと、口にしてはならない情報を守ることの大事さをわきまえた自己管理に驚いてしまう。

一九四四年八月四日、一家が連行された跡、隠れ家は略奪により散乱していた。

ミープさんは、ユダヤ人の財産を処理する人たちが来る前に、床に散乱していたアンネが書き残したものを保存した。1945年5月4日、戦争は終わった。6月3日フランク氏が帰還した。妻は亡くなっていた。消息が分からなかった娘の死亡が確認された。姉マルゴーが先になくなり、アンネも帰らぬ人となった。チフスだった。それは収容所が解放されるほんの数週間前だった。ミープさんはアンネの「日記」をフランク氏に返した。1947年、フランク氏は娘の日記の一部をスイスのバーゼルに住んでいる老母のためにドイツ語に翻訳していた。身近な人たちの中にはアンネの「日記」に書かれていることを知りたいと思う人があり、知られるようになった。闇一色に塗りつぶされた戦争のただなかに一筋の光をともしたドキュメントを美化することなく、私たちの希望として共有したいものである。

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