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日系人による三つの作品を読む。ジョン・オカダはアメリカのシアトル生まれの二世、従軍して、日本軍に投降を呼びかける仕事をした。作品では兵役拒否の主人公を描いている。ジョイ・コガワは聖公会牧師中山吾一の娘として生まれた、日系カナダ二世である。米谷ふみ子は戦後、ニューヨークに絵を学ぶために留学し、そこでであったユダヤ人と結婚し、脳に障害をもつ子供をそだてる母として文化・宗教を経験する。 一、「ノーノーボーイ」ジョン・オカダ その日を境に、合衆国の日本人は、こすっても消えない褐色の肌とやぶにらみの目のおかげで、まったく別種の動物になってしまった。そのショックが、国中の数百万のラジオから重々しい調子で伝えられると、その瞬間から、すべての日本的なもの、すべての日本人の血が流れるものは蔑視のまとになった。 冒頭の一節である。 その日とは、「日本の爆弾がパールハーバーに降った」一九四一年一二月七日であり、この日を境に日系アメリカ人の運命は荒波を漂う小船のように翻弄された。主人公イチロー・ヤマダは徴兵を拒否して、刑務所入りを選んだ。戦争が終わり、四年ぶりに故郷のシアトルに帰った日、スーツケース一つを持ってバス停を降りたところから、話は始まる。二五才だった。「ノーノーボーイ」とは兵役拒否者のことをいう。 家には善良ではあるが、アル中の父がいる。母は心を病んで日本の敗戦を信じない。そして、まだ兵役まで二年も残す高校生であるのに、兵隊を志願する弟が、そのような生き方を示すことで、兄を批判している。四人家族はまだ一人も欠けていない。父は息子の帰りを喜び、もう一度大学に戻って、いい仕事について、自分のなし得なかった、これからもなし得ないであろう、夢を実現し、目的をはたしたいと願って、支援しようとする。多くの一世がそうであったように、父は、ただお金もうけのために、出稼ぎとして渡米した。成功して故郷に錦を飾ることのみ夢見ている。このような、日本人のあり方が日系人排斥の的となった。日系二世にあたる息子のイチローからすると、父の存在は不可解な謎である。次の会話をみよう。 「とうさん」イチローは声をかけた。 「なんだい、イチロー」父はお湯の入った金だらいでふきんをすすぎ、汚れた皿を洗っていた。 「とうさんとかあさんはなぜアメリカに来たんだい」 「みんなアメリカに来たんだ」 「どうしても来る必要があったの」 「いいや、わしらが来たのは金のためさ」 「それだけ」 「そう。それだけで来たんだ、ぼくはそうおもうけど」 「じゃあ、なぜ金をかせぐ必要があったの」 「うちの村にアメリカへ行って大金をつくったひとがいてな、その人は帰ってくると広い土地を買って、それでまあ楽な余生を送った。でわしらも来て、かせいだら、 帰って土地でも買い、楽な余生をってな」 「ここに住み着いて帰らないなんて考えてみたことはないの」 「ないね」 イチローは父を見つめた。歳をとり、禿げ頭で、台所で皿を洗っている父を。 穴の空いた壁の向こうは店になっていた。 「それで今はどんな気持ちなの」 「なにがなんだって」 「帰ることさ」 「帰るにきまってるさ」 「いつ」 「さぁね、もうすぐ」 「どのくらいすぐ」 「もうすぐだよ」 (42,43) イチローは父が勧めるように、大学をたずね、助教授にあった。いつでも戻ってくるようにと、よい返事をもらうが、イチローにもはやそのような気は起こらない。本書のテーマは日系アメリカ人のアイデンティティーの欠如ということができるが、まだアィデンティティーではしっくりこない、「違和感」とでもいったほうがぴったり来る。埋め合わせできない断絶がある。父は心を病んでいる母をかばって、食事の世話をしたり、身の回りの世話をしている。一家の安寧を願い努力する、とても善良な父である。 母は雑貨屋を切り盛りしてきた。パールハーバーに対する日本軍の奇襲攻撃を、冒頭の一節に引用したようにほとんど人が、「その日を境に、まったく別種の動物になってしまった」ようなショックを覚えたのに、母は、これから日本軍が勝ち進む偉大なる戦果として喜んだグループに属する人で、息子イチローの刑務所からの帰宅を次のように言っている。「この子もつらい思いをしたんですよ。・・・日本のために生命を失ったのと同じぐらい立派なんですから」。 日本の勝利を確信して、それを生きがいとする母であった。人がなんといおうと、アメリカがつくったデマだと言って信じない母であったが、ある日、届いた日本からの手紙によって母は敗戦を知る。戦争に負けた日本から、兄や妹、従兄弟やおじさんたちかから、「助けてくれ」と書いてある。お金でも砂糖でも服でもお米でも、タバコでも、なんでもいい、送ってほしいと言う。しかし、母はこの事態をまったく認識しない。というか、知っても認めない。 かあさんは病気なんだよ、イチロー。かあさんの言うには、この手紙は日本からじゃないし、書いたのも、わしの兄弟でもかあさんの妹でも・・・・ない。 こう言うんだ。かあさんは来てももう読もうとしないんだよ。デマ宣伝って言うんだ。わしに 金でもたべものでも衣類でも送っちゃいかんて言うんだよ。みんなアメリカのワナだって、・・・・ わしには、わかってても、かあさんがまちがってるって言えやしない。(64) 父の、母に対する、理解と接し方は、最後までヒューマンである。母は現実を乖離して、自分の現実を生きている。日本が負けても、彼女は「負けていない」現実を生きる、この乖離。シアトルの日系社会がどうなろうと、アメリカがどうであろうと、彼女の中の日本は勝つているのである。夢と現実、天と地の区別はない。こういう乖離を人は痴呆というかもしれない。父にも乖離した現実がある。すなわちお金を儲けて故郷に錦を飾るという夢を心に抱きつづけ、夢を心の支えとする現実がある。こうした夢と現実の、乖離するという一点において、父と母は共通性があり、理解できるものがある。こう考えると、イチローの母は、いま痴呆と言われる人たちの心の世界を、理解する道を示していると言える。 ところで、作者ジョン・オカダは、主人公ヤマダ・イチローが兵役を拒否して、二年間キャンプに、二年間刑務所に送られ、合計四年間を捕らわれたとしている。実際はシアトルに住むすべての日系人が強制収容所に連行されたのではないだろうか。父も母も弟も、彼の知人として登場する日系人は、徴兵をうけて兵隊に行った人のほかは、みな強制収容の経験をしたのではないだろうか。そのように書かれていないように思われる。もし、皆が強制収容の経験をしたとすれば、小説のなかの父と母の現実認識をあらわす仕方は、もう少し違っていたかもしれない。もちろん、戦後かなりのあいだ、日本の敗戦を認めないで勝利を信じていた「勝ち組み」があったことは、前の章ブラジルやアメリカ、カナダの日系人の項で述べたとおりである。父と母の個人的な痴呆状態というだけでなく、ブラジルやハワイ、またカナダでもそうであったように「勝ち組み」の社会病理的な心的世界をあらわしているとも言える。 母は、ある日、浴室で浴槽の中に身を沈めて死んだ。内側からドアに鍵がかけられていた。自殺である。イチローは次のように母を評している。 母が息子たちのためにアメリカに求めたのは教育。日本へ帰ってからよりいい立場の人になるための学問と知識だけだった。こどもたちがそれを、ほかのアメリカ的嗜好や習慣や感情を身につけずに、もてるなんて母が期待してたということを信じることすらむずかしい。でも、それこそ母がしたことだった。 (255) 母にもってきた違和感をイチローは上記のように言う。母は「公正じゃあなかった」。悲劇だとも思う。彼女には「アメリカが存在していなかった」。せめて、「わかろう」とさえしてくれたら、「自分のやり方が不毛なのに気がつく努力でもしてくれたら」こうはならなかっただろう。葬儀は近くの仏教会でおこなわれた。イチローは途中で気分が悪いと言って、退出し、葬儀に出席してくれていた友人のフレディの車で遊びに出たり、お悔やみに来た女友達とダンスを踊りに行ったり、カミュの「異邦人」に母の葬式の場面を思わせる、それは母に対する違和感をあらわしている。 イチローの友人たちを見よう。 ボビー・クマサカは戦争がおわったら医学部に入って医者になるという希望を持っていた。ドイツ降伏が間近となり戦争も終わろうとしていたある日のこと、ライフルの掃除をしていてパチンという音がした。どきっとして振り向くと、ホビーは膝を立てて、その足の間に頭をうずめて死んでいた。銃弾が頭を貫通していた。同僚のジュンは、ことの次第を伝えにシアトルのクマサカさんの家を訪ねていた。 ケンジはイチローと同級生であったが、今は片足を一一インチ残して切断した、退役軍人である。シルバースターという勲章をもらい、新車を買い、年金がついて、大学に行く場合は奨学金までついている。イチローはそんな彼をうらやましく思う。最後の日を意識し、彼なりに誠実に生きていく姿を見て・・・。その彼はポートランドの病院でなんども手術をして、亡くなっていく。 エミは夫をドイツの戦線に送った。戦争が終わっても帰還せず、相談もなしにドイツの駐留軍期間延長にサインしてしまうような夫を待っている。父は日本に一時帰還したまま、戻らず、一人暮らしをしている。その孤独を理解する友がいるだろうか。シアトルで再会した友達は、それぞれが口にあらわせない戦争を体験し、この戦後をまた生きて行かねばならない。 イチローは仕事をさがして、いくつかの職場を訪ねたが、兵役拒否による刑務所での期間を記す履歴欄にはとても書けなかった。しかし、あの戦争の中での日本人に理解を示す経営者もいた。戦前から日本人と親しくしていた人たちは特にそうであった。ポートランドでキャリクさんの仕事場を訪ねた時、かれは自分の貸家に住んでいたタナカさんのことを話し、「強制立ち退きは恥だよ。あんたもやられた口じゃあないのかい・・・・あんた方をあれこれこづきまわしたのは政府の大失敗だったのさ。そんな必要はなかったんだからな。アメリカの歴史の年代記における大汚点だよ・・・・」と言ってくれた。 このことばには謝罪の念がこもっていた。金も地位も尊厳もある、一人の人の誠意ある謝罪の言葉だった。それはあやまちに巻き込まれた日本人へ向けたものだった。 キャリクさんはイチローに破格の月二百六十ドルを提示する。善良で公正なアメリカ人が、こうした下町にいて日本人に理解を示してくれることは、希望の光のように思われる。 しかし、イチローはそこで働く気持ちにならない。彼の善良さにあわない。あるいは、紹介されてキリスト教リハビリテーションセンターを訪ね、廃品をリサイクルする仕事を見て回り、週三五ドルの賃金と聞いて、キャリクさんのことを思い出したりする。お金の問題ではなく、意味のある仕事に触れるということだろうか。結局、イチローはどこにも自分の身を寄せるところを見出せない。おれは日本人でもなければ、アメリカ人でもない。私は一体誰なんだ。どう生きればいいのか。これといった道が見出せないまま、物語は次のように終わる。 彼は歩きつづけた。考えながら、探しながら、考えながら、さぐりながら。そしてアメリカのごく小さな部分である地域社会の袋小路の暗闇の中で、イチローはそのかすかですべり落ちそうな希望のにおいを追い求めた。それは心の中で、胸の中で、かたちになりかけていた。 (308) いったいイチローのどこに「かたちになりかけた」将来があるのか分らない。将来の希望というより、戦争直後の混乱のなかで、光が見えない状態そのものが問題であり、この状態の中に置かれた人間を知ることが読者にとって大事なのではないだろうか。「ノーノーボーイ」は、戦争直後の日系人が置かれた状況そのものである。そこには何の希望も、光も見えない。このことが、四〇年後の補償問題を目覚めさせ、そのことで日系人の心を一つにたばねていったのではないだろうか。七章の海外への移民のなかで、竹沢泰子がいうシアトルの日系人社会について、特に補償問題・リドレスをめぐる問題を論じ、「エスニシティの活性化」を考察した。補償運動が一定の成果を得、市民権を回復した今から考えると、すべては希望的に見えるが、ジョン・オカダは、まったく楽観していない。日系人の生存の危機こそ問題ではなかったのではないだろうか。 作者、ジョン・オカダは本書の主人公イチローとは全く別の経歴を生きた。一九二三年、日本人移民の子としてシアトルに生まれた。ワシントン大学、コロンビア大学に学んだ。第二次大戦に従軍した。彼は兵役を拒否する「ノーノーボーイ」ではなかった。むしろ、飛行機から身を乗り出して、日本軍に抵抗をやめるように呼びかける仕事をした。 戦後はシアトルとデトロイトの公立図書館で働き、そのかたわら本書を書いて一九五七年に出版した。初版は東京のチャールズ・タトル社が出版した。「私はいま、二世じゃなくて、移民一世を主人公にした第二作に取り組んでいます。書きあがったあかつきには、かなり忠実に合衆国での日本人移民の体験が記述されたものになればと望んでます。このことはまだフィクションに書かれたことはありません。私は、フィクションのかたちでのみ、人々の希望や恐怖やよろこび悲しみが適切に記述できると思っています。・・・」と妻に手紙を書いている。 が、一五年間は、誰もこれを読んで評してくれる人はいなかった。 あとがきに、ジョン・オカダを紹介している中国系アメリカ人作家フランク・チンは、この作品が立派な日系アメリカ人文学であり、かれの「ノーノーボーイ」は唯一の日系アメリカ人小説であるのに、ジャパニーズ・アメリカンプロジェクトは目もくれようとせず、評価しなかった。それで家族のものも、厄介なものと思い、ジヨン・オカダの原稿や一切の資料を焼却してしまった。「なにもかも」。 ジョン・オカダの生涯は大学、兵役、戦争、再び大学、結婚、こども、仕事、なにひとつ特別なところはない。一九七〇年心臓発作で急死した。四七才の平凡な生涯であった。しかし、「ノーノーボーイ」は彼の平凡と思われる人生のなかにどすぐろく渦巻いている、彼のもっと深いところでの本性であったのではないだろうか。そして、同じ暗闇を自分の中に持つ人たちすべてに共感を呼ぶ作品となっている。いたずらに希望的観測をさがそうとするのでなく、閉塞した自我の苦闘そのものを見つめなければならない。 二、「失われた祖国」ジョイ・コガワ、二見書房、1983 「ナオミの道」 ジョイ・コガワ、小学館、1988 この国にとって私はいったい何者なのだろう。 この国は私の国なのだ、私の母国だ。 (53) ジョイ・コガワは、はじめ「OBASAN」(おばさん)という本を出版した。一九八三年、その本は発売されるとたちまちベストセラーになり、「カナダ文学賞」「全米図書賞」を受賞した。カナダ文学賞を受賞したとき、次のように語った。 「私はこの本で、私にとって、ひじょうになつかしく、忘れることのできない人びとをとりあげました。日系カナダ人です。・・・彼らの人生は、とりもなおさず、はるか海を越えてこの国にやってきた日系移民の歴史でもあります。カナダの日系人は、カナダ人としても日本人としても自信がもてず、自分の心のふるさとを求めてさまよってきました。少女の時、私はどれほど『白人になりたい』と思ったことでしょう。でも、すでに一世の大部分が死んでしまった今になって、私は彼らの苦しみの気持ちがわかるようになりました。この小説は、そうした人たちに対する鎮魂歌であり、謝罪と感謝の書であります」。 日系カナダ人文学の誕生だ。ジョイ・コガワは、小学生の時、戦争が始まった。前にとりあげた「ノーノーボーイ」は青年期の男の戦争体験であり、暴力が各所にちりばめられていて、痛々しい。それに比べると、本書は、少女の目から見た戦争体験という意味で、ある種の純粋さ、ひたむき、素朴さに満ちている。 おなじ著者による「ナオミの道」は本書のこどもむけ要約版となっている。主人公が道子とナオミと名前が違っている。また、日本に帰った母が、長崎に居る姪の出産手伝いに行って、B29の爆撃によって死んだのであるが、「ナオミの道」では姪の手伝いに行って原爆でなくなったということになっている。こういう違いがあるが、殆ど一緒なので、双方から、紹介したいと思う。 道子は毎年この場所を訪ねている。戦争が終わり、再移住をした場所グラントンの平原、そこを離れて、再びこの場所に立ったは一八才の時だった。それから、一八年の間毎年ここを訪れる。今は小学校の教師をしている。教えている子ども達は、わたしが戦争を体験した少年少女の年代で、その中にはインディアンの子供も二人いる。日本人の血をひく混血の子どももいる。その子たちと、自分の時代がオーバーラップする。中根道子と呼べず「ナー・キャニー先生」と呼ぶ子どもたち。「先生は男の人と愛し合ったことはある?」といった話題に入ると、エキサイトして時間がつぶれてしまう。先生は「オールドミス」なんと言われてしまう。三八才。このような子どもたちに囲まれてもう七年になる。こうした生活にそろそろあきた頃でもあった。その時、電話が入り叔父さんの死を知らされた。休みは何日とれるのだろうか。七日だったっけ。グラントンに住む、アヤ叔母さんの家にむかって車をとばした。 そこは、戦後、カナダ政府は日系カナダ人に対して分散政策を命じたため、生まれた町バンクーバーには戻っることができずに、移動してきた所である。日本人は日本に帰れというわけだ。しかし、私は日本人ではない。カナダで生まれ、カナダを母国とするカナダ人である。 戦争に負けた日本に帰った人たちはどのように暮らしただろうか。第一陣が一千人、そして第二陣と続いた。そしてカナダに残る人たちは、ロッキー山脈の東のへ再移動を求められた。それで日系人は、モントリオールとかトロント方面に分散することになった。グラントンの平原に広がる甘藷畑の一角に道子たちは移動した。兄と叔母さんと道子と。そのアヤ叔母さんを訪ねると、彼女は屋根裏から小包の手紙をとりだした。小包はもう一人の叔母エミリーからの手紙と日記であった。一九四一年のクリスマスから始まる日記であった。この日記を記憶の支えとして、本書は展開していく。道子には二人の叔母がいて、一人は寡黙なアヤ叔母さん、もう一人は自分の意見をもつエミリー。エミリー叔母はカナダ政府から謝罪と補償をとりつけた、いわゆるリドレス運動の推進者でもある。このエミリー叔母さんからの手紙である。道子は小包の中ある写真と手紙によって、幼き日にに経験したことを、一つ一つ思い起こし、その意味が分かるようになる。これが小包を見つけるまでの話。第一部「屋根裏で見つけた小包み」である。 第二部「エミリーおばさんの日記帳」。そこには、バンクーバー時代の写真が数枚あり、道子は立ち退きまでの五年間を想起する。一九四二年、五月二一日までの日記による。 おばあちゃんとお風呂に入ると「肩までつかるんだよ」と言って、垢おとしなどをした。バンクーバーの西六四番街のあの家は没収された後、人の手にわたった。その電話番号を一九四一年九月版の電話帳の中に見つけて、その家の人に手紙を書き、家を売る気はないかと尋ねたこともあるが、なしのつぶてだった。鶏のひなを飼った時、そのひなを鳥小屋に入れたら、鳥がひなを攻撃し、傷つけ、何羽かは死んだこと。マッチ遊びをしてカーテンが燃え、あと一歩で家が燃えてしまった時、お母さんは、マッチは火を消すことさえ知っていれば、危ないものではないと教えてくれた。そして隣のガウアーおじさんが道子を自分の家に連れ込んでいたずらをするが、人には決して言えなかった話。今いえば、性的いたずらとか横文字で難しい言葉になるが、心に刻まれたトラウマというか、それも癒されがたい少女時代の一こまとなつている。一九四一年九月、母が曾祖母の病気の手伝いにと、日本に渡った。その日、「私の手を引いた父が、お母さんが見えるかね、と冗談をいう。まったく、人の脚、脚、脚のほかにはなんにも見えない。・・・・父が私を抱き上げ、指差してくれたのだがそれでも見えない。 ・・・『すぐに戻ってくるよ』と父は言った」が、母はそのまま帰らぬ人となった。 戦争が近くなると排日の動きは子供たちにも日に日に厳しくなってきた。 兄のスティーブはピアノとバイオリンをひいていた。後に著名な音楽家に成長する。ある日、こわれたバイオリンをもって帰ってきた。ジャップとののしられ、めがねを壊されていた。兄は一言も言わなかった。日本人対する漁業禁止、漁船の没収。ラジオも新聞も「ジャップ」を連発する。カナダ市民権を持っていない日本人は逮捕され、市民権を持つ日系カナダ人も「一度ジャップだった奴は、いつまでたってもジャップ」だった。やがてヘイスティング・パークの家畜品評会場が、日系人の移動待期中の施設となり、ここは二千人を一時収容できた。健康な男は、労働キャンプに送られ、山中に道をつくった。父もキャンプにとられ、病弱のため、そこで亡くなる。 第三部は「置き去りにされた人形」、いつでもどこでも心おきなく話し合えるのは、母からもらった人形、この人形をもってロッキー山脈の山奥、スローカン収容所に向かう三〇時間の汽車の旅からはじまる。アヤ叔母さんと、兄と、道子の三人。そこはかつての炭坑の跡で、廃屋が彼らの住まいとなった。同じ小学校にくるインディアンの子ラフ・ロックは、「スローカン」の町の話をしてくれた。勇敢なインディアンが見つけた安全な場所が、ここスローカンだった。そのインディアンは、仲間のところに戻って「ゆっくり歩いていけば、山の向こうの安全な場所へいける」。それで病人も、老人も、みんな一緒に高い山をこて、ゆっくり歩いてここに来た。「スロー(ゆっくり)、ユーキャンゴー(あなたはいくことができる)」と励ましあいながらきた。それが「スローカン」だと。湖で遊んでいたおぼれたとき、ラフ・ロックは助けてくれた。金髪の女の子ミッチは、はじめいじわるをしたが、やがて無二の友達になれた。 父の弟イサムおじさんが労働キャンプが終わって帰ってきた。戦争が終わって、父もかえってきた。 第四部「長崎から届いた手紙」は、戦後、再移住した町グラントン、一面が甘藷畑の平原、風がふいて砂ぼこをまきあげる、好きになれなかった時代、そこで著者は一九四五年までをすごした。一九五七年、長崎から母の消息を伝える手紙が届いた。日本に帰った母が姪の出産の手伝いのために長崎に行き、そこで被災して亡くなった。先祖と一緒に東京のお墓がある。日本語と英語で記した墓が分かったという便りだった。 カナダ政府がとった戦後の日系人分散政策に対する、カナダのキリスト教会の抗議を前の章で取り上げた。ジョイ・コガワも次のよう記している。 カナダの各地で、少数の心ある人びとが、精いっぱいの努力をしていた。宣教師達は、電報を打ったり、請願書を書いたり、祈祷のための集会を開いたりした。御都のために良心が押しつぶされてはいけないと、この問題による遅くまで真剣に取り組む政治家も少数ながらいた。若い二世の男女、---理想派、慎重派もいれば、指導者タイプもいた---がカナダじゅうにに散らばっていた。トロントには、門戸を開いて二世を雇用してくれるユダヤ人経営者もいた。 だが、援助の手をさしのべる人間が一人いたとして、拒否する人間はその何千倍もいたのである。どの州のどの都市でも、扉はぴしゃりと閉ざされた。(234) カナダ政府がアメリカよりひどいといわれるのは、日系カナダ人の財産をすべて没収したこと。戦後は分散政策をもって、もと居た場所に帰ることをゆるさなかった。この二点に尽きる。事情が分からない無垢な少女の心に映った戦争はどのようなものだっただろうか。それは最初にかかげた、「叫び」に集約される。ナオミにとってカナダは愛すべき祖国である。日本に帰れと言われても、自分が生まれた国は母国である。であるのに、カナダ政府の仕打ちはなんだろう。この国にとって、私はいったいなにものだろう。この問いに尽きる。 物語では、母が日本に帰り、長崎に居る姪の出産手伝いに行って、B29の爆撃によって死んだのであるが、そのことは幼い子供には隠されている。「ナオミの道」では長崎の原爆でなくなったということになっている。ところが、実際には、辻信一がインタヴューした「日系カナダ人」によると(48-73)、ジョイ・コガワは一九三五年ヴァンクーバー生まれ。スローカーン収容所から、戦後、コールデールに移り、両親はそこで三三年間住んだ。彼女は、高校を出てカルガリーの大学で学び、教師生活をして、トロントの大学に再び学んだ。それからバンクーバーに行き、結婚した。相手は沖縄系のコハシガワだった。「コガワというのは実はコハシガワの省略なの」。名前を省略なんて、あるんですね。 トルドー首相の秘書を勤めたこともある。オタワ大学客員詩人。カナダ詩人協会員。作品は他に、「裂けた月(The Splintered Moon)」「夢の選択(A Choise of Dream)」「ジェリコの道(Jerico Road)」。ジョイ・コガワの本当の心は、作品よりも次のインタビューにあらわれている。 私たちは小さな一部屋だけの掘立て小屋にすんだわけだけど、まあその後建て増しはしたにしても、基本的にはこの小屋に、両親は三十三年住み続けたわけです。そこで母はすっかり変わってしまいました。心の中で何かが大きく損なわれてしまったんでしょう。あんなに誇りにみちて堂々としていて、外見みなりともとても細かく気を配る人だったのに、コールデールでは、別人のようにボロを着たままで、私は本当につらかった。浮浪者のおばさんみたいだと、わたしは哀しくて、恥ずかしくて。 彼女の心を支えていた何かが崩れてしまったのね。わかるような気がするんです。 ・・・ある人が私の「オバサン」」についていっていました。私が主人公ナオミの叔母さんにとお母さんという二人の人物を登場させねばならなかったのは、それは私が現実の母と和解できていないからだ、と。私が自分自身のうちで、母の惨めな変貌ぶりにしっかりと向き合うかわりに、、むしろわすれたがっているからこそ、作中のナオミの母親を、過去の、つまりよきバンクーバー時代の思い出のなかに閉じ込めているんだろうって。 ・・・・無一方で私はたしかに母から強さを受け継いでいる。しかし、他方で、私は壊れてしまった母の心を受け継いでいるようです。時々はっきり感じるんです。自分の内部に裂け目がある、ああ、弱いなあ、と。 「ノーノーボーイ」のジョン・オカダは、老いて病気になっていく母に、近づいたり、遠のいたりしながらであるが、向かい合っている。勿論父に対しても。それが、ジョイ・コガワに見られないのはかえって淋しい。人はみな多かれ少なかれ、老いていく。その老い方に、美しいとか、立派とか、なにかキリスト教的な理想というものがあるとするならばどうだろうか。とても窮屈で、やりきれない。人はみな同じように生まれ、同じように死んでいく。この世界を越えたところに結ばれる地点で、美醜は問題ではない。理想も現実もない。「すべての事に臨むところは、みな同様である。正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、・・・その臨むところは同様である」(旧約聖書伝道の書九章二節)。すなわち、人の美醜、善悪、姿の善し悪し、それはこの世の価値観によるものであって、この世を越えたところで、価値は逆転する。人が信仰において結ばれている価値から、評価されるべきである。 三、過越しの祭、米谷ふみ子著 脳障害児ケンが生まれてから、わたし達は十三年の間、この子の世話に明け暮れしていたと言っても過言ではない。ある施設に空席ができて、ケンを入れた時、イースター・ホリディがやって来て、ジョンの学校が休みに入った。すばらしき解放感!あの十三年の糞尿の世話、不眠の夜、汚い食事時のテーブル、ケンの癇癪から解き放されたのだ。 (75) ユダヤ系アメリカ人と結婚した米谷ふみ子は、脳に障害をもって生まれた子を中心とした、実体験にもとづく、本書「過越しの祭」を著した。一九八五年新潮新人賞をとった。また翌年の第九十四回芥川賞受賞作でもある。もう一つの作品、文学界の新人賞を受けた「遠来の客」と合わせて出版された。戦後の日系アメリカ人の受賞作品が誕生した。 結局、わたし一人で何もかもやっている。買い物から、学校の事から、この子の世話。何にも歯向かわない子供なら、世話をして疲れはしても、神経は疲れない。このように狂暴性のある大きな男の子の世話は、元来、男の人の仕事である。だが夫は心臓を痛めたので何もできなくなってしまったのだ。・・・・その癖世間の人はどうしてあの子を何処にも入れないのだろうかと、わたしが馬鹿のように思っている。(122) 永いこと考えあぐねていた。二年前には参考のためにと思って施設を見学した。この施設にケンを入れることになった。その三週間後、施設からケンは一時帰宅をゆるされる。 これからは、ケンがいなくて一週間の休暇をとって旅をすることもできる。一三年間、彼に手を取られて何もできなかったことができると安堵した。しかし、家族の中のケンの存在はそんなものではなかった。夫アルは電話で友達と次のように話していた。「ケンがいなくなったったので仕事が捗らないという口実はなくなったんだがね、やはり何もできないんだ。仕事の量は前と同じさ。タイプライターに向かったままぼうっと壁をみつめたり、涙が知らぬ間に出てきたりして」。道子は夫も自分と同じだったんだと奇妙に安心する。長男ジョンは、ケンを施設に入れるとき、自分もついていって、どういう所かを見るのだと言って、彼なりに心配していた。自分の弟、生まれてからずっと一緒に住んだ世界中でたった一人の血を分けた弟、しゃべらなくても、暴れても、意志の通じ合った弟を無理やり引き離されたことで、親を怨んでいないかと道子は心配する。そして道子はと言えば、 ケンが施設に入ったことであの惨めな生活が終わったとは言えない。道子が生きている限り、大なり小なり、この惨めさは続くのだ。ケンが一緒に住んでいようといまいと、ケンが生きていようと生きていまいと、絶えず何かが欠けている。一緒にいなければ家族の一員が欠けている。そして、ああもしてやれたかもしれない。こうもしてやれたかもしれないと、絶えず呵責の年に苛まされる生活から逃れられないことをいやが上にも悟らされたのである。 (42) その日、道子はケンの好物であるおでんをつくり、降り続いた雨があがると「ケンはなんとまんがええのやろ」と爽快な気分である。ケンを施設に送った日、車が渋滞して三時間半も時間がかかったので、今日は早目に出発するよう夫と話し合った。夫と道子は施設に向かったのだが、突然夫のアルは声を荒げて怒りはじめた。「どうしてこんなに早くから迎えに行かねばならないんだ。五時でよかったんだろ。もう少し仕事もできたのに」。渋滞なく車はスムースに動いていた。そこからはじまるながながと続く口論。日本人である道子とユダヤ人であるアルとの民族・文化の違いが先鋭的にあらわれるのは、口論だと言える。本書の特徴は、口論の中で、民族的・文化的対立を浮き彫りにするところにある。 ケンが帰って、道子はいそいそと白い割烹着をつけて、炊きかけのおでんに火を入れた。「四人ゆうのはほんまにええ人数や」などと独りごとを日本語で、しかも関西弁で言った。 著者は一九三〇年大阪市生まれた。大阪女子大国文科を卒業し、一九六〇年米国の奨学金を得て絵の勉強に渡米する。そこでユダヤ系ジョシュ・グリーンフェルドと出会い、結婚した。 「ハンディキャップをもつ子供を抱えた苦悩の現実などを、手紙で友達に知らせたかったのですが、その話は余りにも長く、友達の数か余りにも多かった」ことが小説を書く動機であったと後書きに記している。 ケンが家にいた頃は、料理は大変だった。ケン、ジョン、アルと三人三様食べ物が異なる。アルはコレステロールのないものを、ジョンは仲間が食べる脂っこいアメリカ食で日本食は食べない。ケンは何でも食べるがアルが好きな刺し身は食べない。道子は矛盾だらけの料理に明け暮れしていた。食事はまずケンが食べる。道子はそばにいて監督をする。大食漢のケンは三度も四度もおかわりをし、食べ物を撒き散らす。口や手をふいてやり、掃除をして、その後に三人が座って食事をする。 三週間ぶりにケンが食事した。以前ほどちらかさないで、おとなしかった。道子は「あらっ」と自分の眼を疑った。嬉しくて、抱きしめてやりたいほどであった。次に三人の食事がはじまった。ところが冷蔵庫から刺し身を取り出そうとしたアルが、突然怒り始め、また口論が始まった。アルは刺し身の入れ物にビニールを巻くと中のものが腐ると言い、なぜ包装のビニールをとらないのかと怒っている。道子は、魚屋が持ってきたときは冷凍していたし、冷蔵庫に入れていたのだから腐ってはいないと言う。アルは言う。「もう腐ってるっ!何回言ったら判るんだ」。道子は負けずに言い返す。「腐ってますかっ!何が腐ってんのよっ!冷えてたし、新しかったんやから!」。夫には怒る理由がなくなり、ただ口実をさがしている。虫の居所が悪いんだとなると、道子は引っ込みがつかない。不条理には絶対に屈しない。譲歩はしない。「その包み、はよ開けてみて。腐ってますか!腐ってんねんやったら怒ってもええけど、腐ってるかどうかも判らんくせに怒鳴るなんて何やのん!」という具合である。道子はそうしなくても判るのに、わざと覗き込み、匂いをかいで、「これ腐ってますか?これくさってる いうの。あなたは何でも見る前に判断すんねんから。結婚以来の悪い癖よ。」そして結婚当時の出来事を、次のように繰りかえす。 結婚して一ヶ月目やったかしら。わたしがロースト・ビーフを料理した時、覚えてる?ウェル・ダウンやいうて地団太踏んで怒ったことがあったんを・・・・・。 忘れられへんわ。あの時のこと。わたし、英語も碌に喋られへんかったでしょ。おなかの中は煮えくり返ってても、あなたが日本語判らへんので、わあっと日本語で言い返されへんし、唯静かに、『切ってみて』、て言うただけやったわね。あの時、あなたが切ったやないの。ちょうど、ええメディアムに出来てたん覚えてる?わたし、後から一晩中泣きましたわ。何という男と結婚したんやろとね。そんで、あくる日、なきながら、一晩中かかって作った英語で、ゆっくりと、判断するの見てからにして欲しいと何回も何回もくりかえしたでしょう。それしかよう言わんかったんやもん。そしたら、あなたが、何回もおんなじこと言ういうて怒ったでしょ。そんで、また大げんかになって、・・・・二十年の間におんなじようなことが何回もあったわね。人間の脳いうたら、何も変わらんもんやねえ。何回注意してもおんなじやもん。わたし結婚した時は変えられると思うたんやけど (50) 話は、ケンの一時帰宅の一部始終ということになろうか。やっと食事がすむと、アルは長男ジョンをつれて映画に行くというので、あきれてしまう道子。「あなた達。この子と一緒にいたいから連れて帰ってきたんでしょ。二日間だけじゃないの。自分の時間をこの時だけ、この子に全部与えるちゅうこと出けへんの?・・・・」。アルが応える。「君に命令されるのが嫌なんだ!すぐに大声で命令するんだからっ!」。「大声出してんのはあなたよっ!」「君のほうが先に叫び出したんだっ!」・・・・それから、ケンの前髪がのびているからと言って、散髪をするくだり。月曜日の朝、ケンを施設に送って、二人はやっと寛いだ。 これは、普通の家庭の人々の何の屈託もないという寛ぎではない。ケンを施設に入れる前には味わわれなかった新しいものであった。途端に、二人の心の中のあのしこりは全部吹っ飛んでしまった。嵐が凪いだようであった。(66) アルが友人と電話をしている。ケンは扱いやすく、行儀がよくなったが、問題は僕たちさ。口論の絶え間なし。あの子が可哀そうなくらい。ささいなことで言い合いになる。アルがこう言うのを道子はそばで聞いている。友人は、そんなもんだよ。自分達も同じだ。ケンはお客さんになったと思えばいいといってくれた。道子はその言葉をきいて「アルはお客さんになったんやねえ」と納得する。この最後のことばが表題の「遠来の客」となっている。 過越しの祭 ケンを施設に入れて、イースターホリディ・復活祭の一週間の休暇がとれた。道子は夫と長男、三人で、かつて住んでいたニューヨークを訪ねる。久しぶりの友達に会う期待に胸はふくらんだ。ところが、ユダヤ人の夫である、アルの親戚達が集まって行う「過越しの祭」の期間と重なっていたのだ。せっかくの休みを「過越しの祭」の人たちの中で過ごすことになる。 ジャンボ七四七はロスアンジェルスを飛び立ち、ニューヨークに着陸する。友人の父が持っているイーストサイドのアパートに滞在できるようになっている。子供が産まれて一三年間、道子はこのような開放感を味わったことはなかった。アリスに会いたい。八年ぶりだ。アリスとの最初の出会い、そして道子が渡米した最初の頃、二〇年前のことが心に浮かんでくる。ランチを食べて美術館に行こう。つもる話しがある。ところが、ニューヨークに住む親戚のものに電話をしていたアルは、私のほうをきまずそうに振り返って言った。 ミチ、来週はユダヤ教のパス・オーバーなんだって。全く忘れてた。僕たちはね、 従姉のトバのパス・オーバ・セーダーに招ばれている・・・・・・・・・・・・ 来週一週間さ。今年はイースターと、パス・オーバーが同じ時になったのさ。(93) 道子は、「わ・た・し、いかんとくわ。−−−−今になって、宗教やなんて・・・」という。長男のジョンも言う。ニューヨークに来たのは、友達に会いに来たんだよ。ピーターにも会いたいし、スティーブにも。それからブロードウェイの劇も見に行くって約束だったでしょ、ダディ。そして、夫アルも、僕もいやだっ!宗教なんていやだよっ!と言う。しかし、結局は、ユダヤ人の一族の集まりに参加することになる。 そう言えば、ユダヤ人画家シャガールがアメリカに亡命し、最初の妻ベラを亡くし、フランス人のヴァージニア・ハガードと再婚した時、ユダヤ教を捨てはしないが、遠ざかっていた。しかし子どもが生まれると、割礼などユダヤ教の儀式を受けさせたという、ハガードの伝記にあった。自分は宗教を嫌っていても、自分の子を育てるときには、なぜか無宗教ではいけないと思う。そうすると自分が経験したことが肯定的にあらわれてくるのである。若いときの反発は時を経るにしたがって、不思議と受容できるものとなる。反発と受容と相容れぬものが自分の中に起こる。個々には好きな人、嫌いな人がいる。しかし、親戚の集まり全体が持つ、よいものがないではない。著者は、ユダヤ教のことをくそみそに書いているが、あとがきで、次のように弁明している。「西洋文化の根元であることを認識する手がかりとなると思ったから書きました。決して反ユダヤ主義で書いたのではありません。」 道子は、宗教は、あくびが出て、うんざりするものと思っている。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」も情けなかったが、坊さんはこっちが信じていようが、信じていまいが、お構いなしであった。わたしの生家では、坊さんのお参りの日、クリスチャンである母がいつも挨拶に出て、それで住んでいた。・・アメリカ社会に住み出して、一番悩んだことは、キリスト教の宣教師が異教徒を回宗させようとやっきになり、追っても追っても飛んでくる蝿のようにしつこいことであった。・・・・ユダヤ教はキリスト教ほど宣教に重きを置かないが、それで自分達の神は万能で、他の宗教は邪教であると決めつける。それで、わたしたちは、お互いにきまずいおもいを避けるため、結婚した時、各家族が属していた宗教のことだけは主張しあわないと約束したのだった。二人とも信者ではないから。 道子は夫アルの親族達とその宗教・ユダヤ教の晩餐に「拉致」された。 セダー(パスオーバー・セダー:過越祭の晩餐会)はもう始まっていた。六時半から、四時間もかかるという。アパートの三十回でエレベーターを降りると、その部屋では合唱の声がしていた。三人は従姉のトバに迎えられ、一二人ほどの親戚一同に紹介された。夫の姉シルビヤが挨拶をした。彼女は結婚した当時からもっとも道子が敬遠した人物である。八三才によるフィリップ叔父、夫の真だ母親の弟だ。道子が挨拶をする。夫の親戚はみなシルビヤのような無神経な人かと思っていたが、夫の親戚一同に暖かいものを感じるのであった。挨拶が済むと、席につき晩餐か再開された。 食べるだけと夫はいったのに、右にヘブライ語、左に英語でかかれた、過越祭用の本が渡された。彼らの先祖イスラエルがエジプトで奴隷であったときのこと、エジプトを出発する前夜、家族で最後の晩餐をした。その時を祝って、えんえんと三千年も続けられたきた儀式である。それは聖書に書かれている。その物語の一説を読んで、歌を歌う。「感謝せよ、感謝せよ」と。喜びにみちた歌である。イスラエルのフォークダンス曲のようでもあるが、どいつかロシアの節回しがこの中近東のものの中に入っているようにも思う。ユダヤ人の移動の歴史の響きがそこに感じられたという。その一節一節のくぎりで、道子はケンのことを思い、夫の親戚の人たちのことをあれこれと思う。 そして夫のアルが「君の番だよ、君が読むんだ」と言って、朗読の番が道子にも回ってきた。みんなはヘブライ語が読めるが、道子は英語のページを読んだ。「神よ。・・・・」、一斉に静かになったように思った。「あなたはエジプトからとらわれのみを解き放してくださいました。・・・・神よ、どうかわれわれを見捨てないでください」。 道子はこの場に居たたまれなくなって、退席する。この一団から抜け出て、アパートをおり、タクシーを拾って帰る。話はここでとじる。 前作「遠来の客」は、アメリカで障害を持つ子を中心とした作品であるが、「過越しの祭」はユダヤ人との文化的葛藤を主題としている。ユダヤ人の生き方、人生観、その宗教は明確で三千年来変わっていない。日本人は宗教を前近代的な産物と考え、無宗教こそ知識階級の生きたかであるかのように思ってはいないだろうか。 ノーノーボーイ、ジョン・オカダ、晶文社、1992 失われた祖国、ジョイ・コガワ、二見書房、1983 ナオミの道、ジョイ・コガワ、小学館、1988 過ぎ越しの祭、米谷ふみ子、新潮社、1985 |