□聖書解釈の問題

 「同じ聖書を読み、同じ神に祈っていながら、それぞれが敵方に対して自分に力を与えてくれるように神に祈っている」と、リンカーンは大統領就任演説の中で言っている。(岩波文庫)。南北戦争の時、両陣営が互いに戦勝を、同一の神に祈っている矛盾を明らかにしている。聖書解釈の問題は、「あなたはどこに立っているのか」という問いと共に論じられなければならない。また、神の宣教師が、宣べ伝えた人たちを支配し搾取する植民地主義者たちの宣伝塔であったという抗議は、今、南米やフィリピンなどで、それに対抗する「解放の神学」によって提唱されている。まちがった聖書理解がまちがった信仰理解を導く例をみる。

 これらの反省の中から聖書の解釈学は近年、飛躍的な進歩を遂げたといえる。聖書そのものを文献として扱い、その成立事情を可能な限り明らかにし、用いられた資料を分析すると共に、それら個別の資料が伝承されたプロセスを明らかにする。資料の原型がどのように変容したか。その変容過程で、どのように教会や社会に影響を及ぼしたか。生きて伝えられた伝承そのものと、社会とを解明する。文学社会学という方法が加えられるようになった。

 このように、聖書の伝承は、時代の中で、のっぴきならない影響を受けると共に、社会に対して多大な影響を及ぼし、変革する力を発揮してきた。その力動的な伝承史を知りたいと思う。解釈の作業は、固定化した教条主義への批判と、固定観念や悪意にもとづく抑圧からの解放の過程でもある。

 聖書はどのように解釈されてきたのだろうか。いくつかの例を見たい。


□イエスの聖書解釈 

 イエスが解釈する聖書は、旧約聖書である。ここでは障害者にをめぐるイエスの解釈を取り上げる。イエスは生まれつきの盲人の目を癒した。

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 (ヨハネ 9:1 3)

「この人が生まれつき見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と障害の原因を尋ねる弟子達に対して、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えている。この弟子達の問いの中にある人間観と、イエスが答える人間観を比べると、イエスの聖書解釈は明白になる。イエスが手にしていた旧約聖書によると、全部がそうだとは言えないが、障害の原因を罪にたいする罰とする考えは大きな影響をもっていた。「主はまた、あなたを打って、気を狂わせ、盲目にし、精神を錯乱させられる」(申命記28:28)。心身にもった障害は、神の審きと罰なのかという問いが生じる。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」(ヨブ記4:7)。すなわち、何かこうなる原因があって、障害が起こるという、因果応報説による人間理解は広く行き渡っていた。イエスは因果応報を批判し、「神のみわざが現れるため」と言い、盲人の目を癒した。

□パウロの聖書解釈

 パウロは自分自身持病持ちの身であった。この「とげ」を取り除いてほしいと祈り願ったが、祈りに対する答えは次のようであった。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。(二コリント12:8)

 すなわち、自らの弱さに苦しみ悩むその経験こそ、他を思いやる共感となる。そのような力こそ、人を生かす原動力であることをパウロは知らされる。ここに彼の人間観がある。また障害者観があると言える。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は数は多くても、体は一つである」。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しむ」(一コリント12:12,26)

□古代教会

 アウグスチヌスは、ヘブライ思想を背景に持つキリスト教が、ギリシャ・ローマのヘレニズム思想に出会い、自らを変容しつつ、浸透していく過程を経験した。キリストは神か人かという二者択一の議論が、和解しがたい分裂を繰り広げていた時、アウグスチヌスは、神と人を媒介する聖霊を加えて、三位一体説を基礎づけた。キリスト教はこの三位一体説によって、広く全てに行き渡る普遍主義(カトリシズム)を確立したと言える。いわばキリスト教弁証法論理と言える。アウグスチヌスの「三位一体論」はその金字塔である。アウグスチヌスは聖書を神の啓示の書として重んじた。 当時の聖書解釈は、大まかに4つの方法によっていた。一、字義的解釈(言葉通り解釈を加えない、逐語霊感説と同じ立場)二、原因論的解釈、三、類比的解釈、四、寓意的解釈。

 ちなみに、アウグスチヌスの「盲人の癒し」についての講解を見ると、目の見えない人は「人類」を意味し、「目の見えないことは罪を通して最初の人間の中に侵入した」とする。「人間はすべて精神的には目の見えない人として生まれたのである。・・・もし目が見えるなら、人間は導く者を必要としない。・・・もし人間が導く者、照明する者を必要とするならば、それゆえに彼は生まれつきの目の見えない人なのである。」(「ヨハネ福音書講解」アウグスチヌス著作集24、教文館 268頁)。アウグスチヌスは盲人を人類とし、導く者を必要とするために精神的に目の見えない状態におかれていると比喩的に解釈している事が分かる。

□中世 

 宗教改革の導いた、マルチン・ルターやジョン・カルヴァンは教会の拠るべき権威を「聖書のみ」(Sola Scriptura)とし、伝統を権威とするカトリックに対抗した。ルターはローマ人への手紙1:17の「信仰による義」の立場を再発見し、救いの根拠を「信仰のみ」(Sola fidei)とする聖書解釈を展開した。彼はカトリック教会の功績主義を批判するとともに、信仰による義は「全て信じる者」に及ぶと主張し、特定の階級や修道院の塀を超えて、一般市民に広げた。自国語に訳された聖書がグーテンベルクの発明した印刷機で大量に頒布されると、人々は文字を学び、自分の目で聖書を読み、自らの信仰を得ることができるようになった。近代精神の開花を導いたのである。ルターが見いだした新しい点は、「神の義」を神自身が義であるという受動的一面だけでなく、それは、罪人を義とする、神の義であるという「義」の積極的一面を評価した点である。

□近世 解放者イエス

 一九世紀、二〇世紀を通じて、トルストイからマハトマ・ガンジー、そしてマルチン・ルーサー・キングに至るまで、イエスは彼の時代の社会的、経済的不正義に対する預言者的革命的解放者として解釈された。(「文化史の中のイエス」ペリカン) 国家や教会の精神をイエスに求める保守的な解釈に対して、イエスを不正な抑圧からの解放者として描く解釈が、文学において取りあげられ、トルストイ、ドフトエフスキーにおいて鮮明に打ち出された。暴力を否定し個人主義を超えた愛の倫理としてイエスの教えを解釈した。その教えは、ガンジー、そしてマルチン・ルーサー・キングによって実践された。

□現代 解放の神学

 ヨーロッパ、アメリカの西欧世界で花開かせたキリスト教には明かな衰退の兆しが見える。一方、西欧諸国が第三世界を植民地支配すると共にもたらしたキリスト教が急激な膨張を見せている。

 今、ラテンアメリカの解放運動の精神は、新しい聖書解釈によって導かれる「解放の神学」(グティエレス、岩波現代選書)と呼ばれている。聖書の福音をありのまま抑圧からの解放と読む解釈である。南アフリカにおける人種差別に対する解放運動がそうであり、フィリピンにおける「基礎共同体」の聖書の学びは民衆の解放の学びを導く。そして、「民衆の神学」は韓国の民主化を導いた。これらに共通していることは、聖書解釈を神学者や牧師・神父にゆだねるのではなく、民衆が自分の目で読み、自分の心に解放の理念を読みとり、自らのものとして生きていく。民衆のものとなった聖書解釈である。「民衆の神学」の強調は、国家や一部の利益代表者と一体になった「抑圧の神学」を批判する。

 特に、二つの世界大戦を経験したキリスト教は、どちらの戦争に対しても抑止の役割を果たすことができず、無力であった。ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺を黙認しただけでなく、これに協力したことの「戦争責任」を告白しなければならなかった。ナチス・ドイツの暴虐を阻止しようとして、ヒットラー暗殺を企て、捕らえられて処刑された牧師D・ボンヘッファーのように抵抗を試みたものがいないわけではなかったが、ごく少なかった。戦後、著作集により知られることになったD.ボンヘッファーの思想は改めて評価を得ようとしている。

 このような流れの中から、戦後、聖書学のめざましい発展が見られる。解釈の仕方によっては、、またはその人が立つ立場によって、「抑圧」の神学となることがあり、逆に「解放」の神学となる。ここに聖書解釈の問題がある。私たちは、どのような解釈が抑圧の神学となり、どのような解釈が解放の神学になるのか、見極めなければならない。

 そこで、聖書の成立事情を可能な限り明らかにし、用いられた資料を分析すると共に、それの中で活きて伝えられた社会と時代をも知りたい。聖書の伝承は、時代の中でのっぴきならない影響を受けると共に、社会に対して多大な影響を及ぼし、変革する力を発揮してきた。その力動的な伝承史を知りたいと思う。

 

三、聖書解釈の方法 


 聖書はどのように読まれてきただろうか。つぎに、三つほど代表的な読み方を取り上げて検討したい。

一、 逐語霊感説

 聖書の一字一句は神の霊感によって書かれた。従って人は霊感によって読むべきであって、解釈したり、批判するものではない。聖書の言葉は信じるべきものであるという。聖書は神の啓示の書であり、絶対無謬の権威であるとする。

 ところで、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:26)とイエスの弟子になる者は自分の愛するものを放棄し、憎めとある。けれども、イエスの弟子は自分の家族や親族の世話をせよとの教えもある。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」(一テモテ5:8) このように反対の勧めをする教えもある。この矛盾をどのように考えたらよいだろうか。逐語霊感説の立場に立つと、都合によって、一方を選び、都合悪い一方を見て見ぬふりをする欺瞞を招く。前後の文脈とともに真意をくみ取るという解釈作業をしなければ、聖書を正しく読むことはできない。逐語霊感説はこの矛盾を克服できない。エイレナイオス(130-200頃)は、この立場にたってグノーシス主義を異端とし排斥した。初期の教会が教父と呼ばれる男中心の指導体制を築き上げる過程で、男女両性具有の立場をとるグノーシスは排斥された。グノーシスを始めとする異端として排斥された人々の復権がこれから必要である 。

二、「イエス伝」の試み 

 四つの福音書のなかに統一したイエス像を探求した。

・トルストイ(1828-1910)は「要約福音書」を書いた。

・モーリャック モーリャック(1885-1970)はカトリック作家。「イエスの生涯」という作品を表した。特にイエスの心理描写を加えている。

・A・シュバイッツアー(1875-1965)は「イエスの生涯」を著し、生命への畏敬を失っている現代文明の終末を強調した。

・遠藤周作は聖書学の研究成果を踏まえて「キリストの生涯」を著した。弱さを持つ人間に焦点を当てる。神の愛人の弱さをもは認め、包むという立場からイエスを描く。遠藤周作は日本的なイエス観を強調する。

 このように四つの福音書を一つに統一しようとする試みは盛んになされた。しかし、結果的に成功したとは言えない。というのは、イエス伝を著すことによって、その実、著者の立場や思想が前面に出て、イエスが分かったというより、イエスを理解したというより、遠藤周作のイエス理解が分かったということになる。このような意味でイエス伝の試みは成功したと言えない。ここから、新しい第三の読み方が出てくる。

三、 批判的研究

 聖書が神の言葉であるとはいえ、人間の手によって書かれたものであり、また、くり返し写筆された。そのため写本の間に誤写や欠落があり、どれが本来のものであるか問題になる。そこで、たえず本来の写本に近づくための校訂が繰り返されている。もっとも知られているネストレ校訂版は一九八五年に二六版を重ねている。こうした地道な本文批評の作業とともに、聖書をテキストとして読む限り内容的な批判も必然である。哲学者スピノザ(1632-77)は、旧約聖書は少なくとも二つの資料が編纂されたとする二資料説を唱えてユダヤ教を破門された。フランスのカトリック司祭リシャール・シモン(1638-1712)は申命記の最後にモーセの死の記述があ、自分の死を記すことは出来ないわけで、モーセ五書がモーセの著作であることを否定した。それから神の名前が二通りあり、日本語では「主」と訳されているがヤーウェと呼ぶ資料群があり、これを頭文字をとってJ資料とし、「神」と訳すエロヒームとする資料群があり、頭文字をとってE資料とする。さらにこれら複数の資料を編集し、J資料とE資料を併せたJE資料、さらに最終的に祭司によって編集された資料が認められ、祭司すなわちpriesetrの 頭文字をとってP資料と呼ぶ。現在はこれが定説となっている。ドイツの旧約聖書学者アイヒホルン、ヴエルハウゼン、ドゥーム、グンケル、ラートなどに受け継がれた。これが旧約聖書の資料研究の概略である。次に、新約聖書に移ろう。

 新約聖書のテキストは三福音書のもとに共通した資料がみとめられ、ドイツ語の資料(Quelle)の頭文字をとってQ資料と呼ぶが、この共通資料を元にマルコ、マタイ、ルカがそれぞれ独自の資料を加えて各福音書が成立したとする。以下、福音書の資料批判について、もうすこし述べてみたい。

一、 福音書 資料批判

 福音書は大きく分けて四つの資料を編集して成立した。先ず、第一にイエスの「語録」が集められていた。第二に「神の国」を主題とする一連の教えがある。第三にイエスの行い、特に奇跡物語として流布したものがある。第四にイエスの生涯、特に受難記事、加えて誕生物語がある。

 最古のマルコ福音書と、マタイ福音書、ルカ福音書の関係。

マルコ福音書は次に書かれたマタイとルカ福音書の基礎資料となった。三者に共通する部分は次の  図のようにおよそ五〇%ある。







二 、伝承史批判

 これら四つの資料はそれぞれの形成過程をたどった。一、イエスの教え 例えばマタイがイエスの言葉を「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ5:3)とし、ルカが「貧しい人々は幸いである」(ルカ6:20)と記している。この伝承は明らかにイエスのなまの言葉があり、それは伝える相手によって変化し、格言の様式をとっていったと考えられる。二、奇跡物語で、イエスは「清くなれ」とか「立って歩きなさい」という短い言葉を語っただけであるが、伝承形成の過程で様々な説明がつけ加えられる。三、イエスの十字架にいたる詳細を述べる受難物語である。またながく不明であった誕生物語が編輯された。これらの伝承は、それを伝えた人々の「生活の座」※において変容をとげ、あるものは格言様式をなし、あるものは物語様式をとった。そして最終的には教会の礼拝で説教に用いらるために形を整えていった。(※「生活の座」はドイツ語 Sitz im Leben の訳として紹介された)。 

 イエスを人々の生活の現実の中に、再現するために物語伝承は有効である。また教会員の生活の指針として引用される時、それは戒め、教訓、また格言をなした。典礼、例えば聖餐式、洗礼式、葬儀、結婚式などで朗読されるためにはそれにふさわしい様式を整えていかなければならない。そういう様式へと形成されていく。

□様式はそれを伝承し、保存するグループによって特徴をもった。例えば、「教え」の様式は、それを理解する人達によって伝わる。そうだとすれば、ある程度知識人と考えられる。奇跡物語を伝承する人たちはどうだろうか。悪霊払いという、精神病を癒す奇跡の物語は、エルサレムを中心とした都市であるよりも、異国の侵略にさらされ、弱者が一番の被害を被る辺境の地であった。また、身体的にはハンセン氏病(ライ病)など伝染病にかかると、社会から隔離された被差別部落に追われる。イエスが足を運んで病気を癒すという奇跡の物語に、知識はいらない。奇跡は驚きと畏敬の念を生じさせる。その人の人生を変える。そこには当然、誇張も加わるだろう。そのような驚き、畏敬の念が奇跡物語の様式をなす。伝承する人たちの性格によって資料は性格をもち、色づけられて伝承した。伝承は時代によって変容をとげる。その元と変容の過程をたどり、伝承された資料の真意を明らかにするのが伝承史批判です。

三. 編集史批判

 素材である記事に手を加えないという原則を守れば、編集者は「編集句」によって、つまり記事を並べる順番、日付、場所の設定によって、自分のの主張をあらわす。編集句に編集者の思想、主張が見られる。その編集句と、イエス自身の言葉とを区別する方法です。

 例えば、ユダヤ人を対象に福音書を編纂したマタイには明確な一つの原則が見られる。それは、イエスを旧約聖書の預言の成就と位置づける原則です。この原則は彼の編集句の中に貫かれている。

例をマタイ1.2章から見よう。

・まず、イエスの系図がある(1:1-17)。これはイエスが語った言葉ではなく、マタイの編集句です。マタイはユダヤ人にイエスを紹介するとき、ユダヤ人が幼いときから、家庭でまた祭りの時ら教えられた先祖達の名前を上げます。イエスは旧約聖書に預言された人物、救世主であり、旧約の歴史の正当な継承者であります。ユダヤ人に対してこのことは大きな説得力を持っています。しかし、旧約に関知しない異邦人ローマ・ギリシャ人には意味のないことでした。ルカにこの記述はありません。

・ 次の例を見よう。

このすべてのことが起こったのは、「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ1:22)

イエス誕生の告知を聞いてマリヤはこれはどういうことなのかと思いめぐらすところです。それは旧約聖書の預言の成就であるという。

・ そして、イエスの復活である。「おそれることはない、あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである」(28:5-6)。すなわち、イエスは預言されたとおりよみがえったと、預言を論証するのである。

 このように、マタイはイエスが旧約聖書に預言された救世主預言の成就であることを、編集の柱としていることがわかります。もちろんマルコ、ルカ、ヨハネ福音書はそれぞれ独自の編集方針をもっています。そこでは編集者のイエス理解が、イエスを浮き彫りにし特徴づけているのです。このようにイエスの言葉そのものと、編集句とを区別する、その特徴をはっきりさせることによって活きたイエスを明らかにしようとする方法を編集史批判という。

 以上、聖書の読み方について、私たちは、一、逐語霊感説の問題点を考慮した。さらに、二、イエス伝の限界を越え、三、批判的方法によって、聖書そのものが語るイエスを描きたいと思う。

 

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