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あとがき


一、聖書は人権問題にどのように発言しているだろうか。先の書「人権の基調」でとりあげた五つの課題即ち、・「性差別」・「障害者差別」・「子どもの人権」・「民族差別」・「部落差別」のなかから、今年は四番目の「民族の人権」を取り上げた。聖書が人権について何を発言しているか、歴史の中で人権はどのように解釈されてきたか。聖書の解釈史を一つの軸に編集した。聖書の解釈が人権を抑圧する思想となってあらわれた問題を明らかにしたいと思った。また、聖書が解放の思想となってこれに対決してきた歴史を明らかにしたいと思った。この意図がどの程度実現しているか。心配が残る。思わぬ間違いがないか、皆様の御教示を仰ぐ次第です。取り組むにつれて、知らないに等しい自らの無知を思い知らされると同時に、無知に起因する偏見から解放される思いも体験した。このような学びを皆さんも体験され、さらに深い「知」へと導かれる道標となれば幸いです。

二、本書の表題を、イエスのたとえ話「よきサマリア人」から採った。イエスは強盗に襲われたひとを助けたサマリア人の話をして、あなたも行って同じようにしなさい」といった。よきサマリア人を見よ。この人を見よという意味で、「エッケ」とした。またヴィンセント・ファン・ゴツホの「よきサマリア人」の絵を本書の表紙とした。ゴッホはイエスが「あなたも行って同じようにしなさい」といった言葉に忠実であろうとし、牧師の道を進んでいたが、挫折して、絵を描く人になった。この絵には彼の思いがよくあらわれている。「この人を見よ」という言葉は、十字架にひきわたされるイエスを指差してローマ総督ポンテオ・ピラトがヨハネ福音書一九章五節で「この人を見よ」(エツケ・ホモ)というところにでてくる。

三、圧倒的多数の民族に生存を脅かされる少数民族の人権をとりあげることにしたのだが、はじめ、沖縄民族とかアイヌ民族と考えていた。しかし筆者山城のルーツである沖縄の人たちの顔を思い起こしたり、人権を奪われた人たちの憤りや悲しみを想像するうちに、「民族」ということばが使いづらくなった。参議院議員となった萱野さんが「旧土人法」を審議する委員会で、「わたしは土人か」と言ったように、民族ということばが遠く、他人がつけるレッテルのように思えて使いにくかった。アイヌの人というようになってしまった。

四、本書は「キリスト教学」のテキストとして準備された。「テキストは開放されている」と言われる。読者がどんなに解釈してもよいように委ねられるという意味であろう。こうでなければならないと、筆者の意見述べるものではない。

しかし、一つの流れをつくっておいた。そのながれとは、民族問題のなかで、一、差別するものと、二、差別されるものと、そして第三に仲介の立場を明らかにしたいとおもった。三つの立場を択一的に考えるというより、三つの考えが自分の中で互いに葛藤するところが第一歩かもしれない。そして葛藤の中から自分の生きる方向を感じてもらえれば、筆者として幸甚である。この資料を提供し、皆さんの講義にたいする積極的参加を期待します。

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